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なまえのない新聞102「いのちの祭りレポート」特集より

日常生活の中に種は蒔かれた
ありがとう、すべての、いのちの、祭り

〜虹の村レポート〜

近 藤 直 子


 虹の村の報告は、本来は他の方々がされるのが相応しいのですが、祭りについて何も知らず、しかも期間途中参加の私ですら何かが報告できるということは、祭り全体にとって象徴的なことであるかもしれない、とも思っています。ということで、個人的なつたない感想をお許しください。実際の村は非常にすばらしく、言葉ではとても表現し得ないものでした。

 祭りを一言で表現すると、「世界の縮図」。テーマは、その中で新ためて自分自身を見つめ直すことでした。
 競争・匿名性・成長・孤独・拡大を促す現在の貨幣制度(円やドル)が「陽経済」と呼ばれるのに対して、連帯・情報公開 ・自律・安定・縮小を促す地域通貨は「陰経済」と呼ばれています。ここで大切なことは、どちらかが良い・悪いというものではなく、バランスをとることとされています。虹の村では、拡大し続けた20世紀の社会とのバランスをとるかのように、徹底した「陰」からスタートしたように思います。
 小規模・少人数、省エネ(水道がないため工夫を凝らした水の使い方・夜の照明は最低限の火)、自然エネルギーなど、「陰」的な様相に加えて特徴的だったのは、スタッフ・一般参加者・ボランティアの区別なく、すべての人が何らかの役割を自発的に果たしていたことでした(メイン会場へのお手伝いも含めて)。実際、地域通貨を含めたお金の取引はほとんどなく、祭り後半の食事は全員無料でした。駐車場を案内する人、炊事する人、ドームを建てる人、水を確保する人、花を生ける人、絵を描く人、音楽を奏でる人、子供達と遊ぶ人、瞑想・祈りをする人、ゴザを干す人、くつろげるムードを生み出す人、ヒーラーなどなど。余分な役・不足する役はなく、完璧な配役がはじめからすべて揃っていた、すべての人が本来の自分を素直に出すだけでよかった、このシンプルな事実に気が付いたのです。
 本来の自分が出ているから、心の底から楽しい。フォーラムなどのプログラムが何もない時も、とても楽しいものでした。一人一人が、かけがえのないアーティスト。飛び入りライブや瞑想・祈り、お昼寝におしゃべり、夜には映画会も催されました(藁敷きの竹のドームで『マトリックス』を観る不思議さ!)。けが人や体調のすぐれない人は、不思議なほど早く治癒していきました。前日、左手の指をナタで切って傷口を縫ってもらった人が、翌日にはギターを楽しげに弾いている…。一人の調和と村全体の調和が重なり合っていたのです。
 自然の真っ直中で生きていることも実感できました。草や木、虫、足音だけの小動物達、水、火、空気、石、虹、雨、風、星空の流れ星。自発的な祈りや瞑想の時間が非常に多く、それは来るべき時に備えての儀式的な意味があったのかもしれません。内的静けさは、村の宝でした。やがて日を追うに従って生活を楽しむ一体感のようなものが生み出され、祭りが終わる頃になってようやく、自分達が祭りで最高の日常生活を送っていることに気が付いたのです。祭りの最終日、村での生活を惜しむ人々が新しい一冊のアドレス帳に次々と記帳していく姿は、本当に「村民」さながらでした。アドレス帳の表紙に急遽、印された言葉は、「村民台帳」。

 個人的に気が付いたことは、個人の意識と村全体の現実が見事に対応していたということです。水の中に砂を入れてかき混ぜると、水が濁って何も見えません。しかし時間が経つと砂は沈殿し、再び水がクリアになって視界が広がります。村に着いた当初、祭り全体の混乱ばかりが目についたのは、自分自身の混乱した意識の現れだったのかもしれません。しかし、村での生活に慣れて意識が落ち着くにつれ、瞬間瞬間が非常に意味深く楽しいもののように思えてきたのです。(これは試されているな)という直観もありました。何に何を試されているのかはわかりません。しかし、この村づくりが次代への試金石のように思われたのです。ここで何かできたなら、世界中で何かができるだろう、一人の意識が宇宙全体に影響を及ぼすように。最も重要なことは、本来の自分自身を出すこと。他の人の言葉や主張、思想という隠れ蓑をまとうのではなく、本当の思いのままで自分が存在することです。
 そして、「陰」的様相でスタートした虹の村も、最終的には陰・陽の枠組みを超えた普通(普遍)の日常生活へと落ち着いたように思います。善・悪、上・下、物質・精神、思考・ハート、私・あなた…、意識が生み出した分離を元に戻す時が来たのでしょう。それらはもともと、気づきのための合わせ鏡で、本来はひとつのもの。例えば、いくら虹の村がすばらしくても、それを「正しい」と主張し、他を「悪い」と裁いてしまえば、新たな分離を生み出すだけです。敢えて言うならば、「理想」からも自由になることすら必要なのかもしれません。理想にしがみついていたら、虹の村は実現できなかったことでしょう。こだわりも条件も理由もなく、ただただ命を楽しむ至福。その鍵は自分自身の中にあります。人間が生み出した地球規模の矛盾を解決する鍵は、日常生活の中にあります。
 映画『マトリックス』の最後の場面で、主人公ネオは「完全な自由がある本当の世界」につれていってもらえます。しかし着いた先は、以前住んでいた社会と寸分違わぬごくごく当たり前の日常生活のただ中でした。そう。私達が今、生きているこの世界こそが、「完全な自由がある本当の世界」です。私達は本当は自由です。今こそ、自らの命を開放し、自由に生きる時です。宇宙中から注目を集めている地球という舞台で、本当の自分を創造的に演じる。種は蒔かれました。本当に生きることこそが、命を祭ること。祭りは、始まったばかりです。

近藤直子(Rupa/奈良/『Daily Gaia ・虹の村から』取材・記事担当)
 E-mail:YHE03204@nifty.ne.jp



いのちの祭りHPin アマナクニ

No.102=2000年9・10月号

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