2004年4月10日 長野 高遠町  子どもたちとの共同生活 父との和解


7日の夜、信楽から車で帰宅。伊那インターから元パートナーの家に電話。子どもたちの世話をお願いしていたので、送りとどけてもらって5日振りの再会。5日間の関西コンサートツアーの前には5日間の静岡ツアーがあり、子どもたちと随分離れてた感じがする。

3月の埼玉ツアーから、下村さんのナビゲーションで、わたしが車を運転するようになった。バイオリンにギター、着替えに販売用CDなど、大荷物を持ち歩くだけで疲れきってしまうが、目的地に正確な時間に着くことが絶対必要。道に迷うのが恐ろしくツアーでは車は運転せず公共の乗りものを利用していた。でも、このところPA(マイクシステム)まで自前でやろうという下村さんの荷物が見るからに多い。気の毒で、運転することに。

下村さんは運転免許を持っていない。方向音痴のわたしの運転と下村さんのナビの組み合せあわせで一人前。わたしと下村さんの組み合せは凸凹を補いあってるおかしさがある。なんでもないところでつまづくわたし。全体をオーガナイズし、細かいところにも気を配りつつ進めていくビジョンと意思はあるけれど、手がたりなくて過労気味のわたしを補ってくれる下村さんの存在をありがたく思う。

ところで8日の夜、父親(元パートナー)に送られ前のめりに笑顔で玄関に掛けこんで来た八星が、その夜泣いた。一緒に夕ご飯を食べ、二人に渡したおみやげ(面白しろそうな物語り、縄とび、笛ふきラムネ) 以外に、八星だけに渡すものがあったのを思いだした後の出来事。

以前、八星にたのまれてた「小引き出し」をたまたま京都は嵐山で見つけ、ひとつだけ買ってあった。八星だけに買ったらアマチも欲しくなるだろうなとは思ったが、適当なものがひとつしかなく、よく考える時間もなかった。

「八星、見て。見て。」と喜ぶ顔を期待しつつ、箱から引き出しを出すと、困惑した表情になりなにか口走ったが「アマチが嫌がる。」という言葉だっだ。アマチはマンガに夢中で、こちらには関心を示していない。その時は、八星がなにを言ったのか聞き取れていなかったわたし「どうしたの。気にいらないの?」と何度も聞いた。眉をしかめて「そんな古っちいのいらない。」と八星。「。。そうか、喜ぶと思ったのにな。。。仕方ないね、ママがビーズ入れに使おうかな。。」と腑におちない思い。どうしちゃったのかなあと思いつつ。

食事の後かたづけをして戻ると、今度は「こんなクソカード。」と言いながら、自分の大事なカードをやぶりながら八星が泣いている。アマチに大事なカードを「クソカード」と言われて心乱れ、自分で自分のカードをやぶってしまっている。

アマチと八星のやりとり、パターン化した関係がずっと気になっていた。八星の心が後ろ向きな気がして、胸が痛んだ。どうして自分の気持ちを、そのままストレートに伝えてくれないんだろう。

翌日、学校から帰ってきた二人を玄関に迎え、二人と田んぼ道を散歩した。この日は交通安全教室で学校で自転車に乗ったとのこと。「もう少しで乗れそうになったんだよ。」と自転車を練習しながらの散歩。自転車を後ろで支えてあげると、ふらふらと少しだけ走る八星。田んぼに落ちそうになるので横をガードし走る。アマチはスイスイと前方へ。

「八星、昨日もしかしてあの引き出し、欲しかったけどアマチにとられると思っていらないって言ったの?」と小声で聞いてみる。うなずく八星。

途中でつくしんぼをとって、また自転車練習しながら帰路へ。「でも、八星、ほんとは、どう思ってたの?ママ、八星の気持ちがよくわからなかったんだけど。」と改めて聞いてみる。
 
「アマチと二人で使ってる前から持ってる引き出しの方が好きだったから、新しいのをもらっちゃうと、前のをアマチにあげなくちゃいけなくなると思った。」ということだった。新しく買った引き出しも純粋に「入らない」というわけではなく、それをもらったら前のをとられてしまう、と想像を巡らした上での困惑だったらしい。「どうしたの?八星の思ってることを、そのまま言ってね。」と何度か聞いたのに、八星は答えられなかった。起きてない出来事を想像して困惑し、アマチの存在も気にして「そんな古っちいの、いらない」という一言になってしまったのだと思う。

八星にとってはお兄さんのアマチの存在が環境であり、与えられた環境の中でいかにやっていくかという現実的な対処を基準に、言葉も出てくるようになっていることが心配になった。自分の心を掴めず混乱している感じ。率直な気持ちを聞きだしてあげたい。現実がどうであれ、ささいなことでも自分の望みや純粋な気持ちを知っていることが現実を切り開く鍵になってゆくと思う。

昨日はアマチと八星の希望で二人とも学校を休んだ。わたしも二人の心を掴みたかった。学校という枠組みの中では伸びていきにくい柔軟な心を育める母体の必要性を感じる。離れてる間にも少しづづ変化していく二人。二人に手伝ってもらい畑の水路を掘ったり、灰を撒いたり。昨年は夢中で一人でやったけれど、今年はさらに広くなった300坪くらいの畑を、ツアーの合間に一人でやるのは体が持ちそうにない。隣の守屋さんが「息子が耕運機をかけてくれるから。」と言ってくれてるのでお言葉に甘えようか。

午後は、埼玉から桜を見に来たTさんを高遠城跡公園に案内し温泉へ。Tさんは、埼玉で自宅の蚕小屋をライブ会場としてライブ企画をしてこられた人で夜、ビールを飲みつつ聞かせていただいた企画する側の思いは、参考になった。わたしのような無名のミュージシャンは、彼らのような場を作る側の思いと行動力に支えられてライブ活動が可能になっているのだと感謝。

ところで、今朝Tさんを見送った後、アマチと八星を呼んで3人で輪を作り、手を繋いで朝のお掃除の分担を決めた。アマチは八星と手を繋ぐのを嫌がった。素直になれない屈折した思いがアマチにも八星にも既に存在しているんだなあ。わたしの心に強く湧いてくる気持ちは「この家には、ママと八星とアマチの3人しかいないよね。この3人がほんとに仲良しになって助け合ったら世界は平和になっていくね。3人で協力しあって生きていこうね。ママはアマチと八星が大好きなんだよ」という想い。

わたしも含めて、みんな心に癖がある。でも、身近なところで心を分かち合い助け合っていけば、きらめく心のままで幸せな世界を創造してゆけるんじゃないか。子どもたちのことは、思うままにはゆかない。忙しさにかまけて、細かいところまで行き届いていないわたし。自分の気持ちを掴み、率直に人とつき合える強さと優しさ、自分の人生を自分の手で創造してゆける柔軟な力を身につけて欲しいと思う。
 
大阪での5回のライブは、各回共に、思いを分かち合う交流会や打ち上げで締めくくられた。アンケートに書かれた思い、出会った人の話してくれた現実や内的世界も、わたしの世界の一部ともなり繋がりの中に生かされていることを感じている。久しぶりに子どもたちと向かいあうと、本気でこの子たちと出会ってゆきたいという願いが湧いてくる。ツアーを通じて、わたしも変化している。確認しあって子どもたちとの小さな共同生活を営んでいこう、という気持ちが新たに湧いた。昨日も今日も二つの縄とびを結んで大縄とびで遊んだ。3人いてはじめて大縄とびができる。300坪くらいの広すぎる畑の3分の2は子どもたちの遊び場にしようかな。

ところで、静岡では12〜13年振りに父と再会しました。実は、わたしは父に勘当されていました。14年前、妻子のある人(元パートナー)と恋愛し1年半後、一緒になったことが原因。時を経て父は父なりに心を深め、わたしはわたしなりの道を歩んで、やっと再会の時が来ました。

父とどう対面していいかわからないながら、どうなったとしても一度は会いに行かなくっちゃと思っていました。母に伝えて実家に3月28日に帰宅。3年前に会いに行こうと連絡した時は、「ゆり子が帰ってきたら叩き出してやる。」と怒っていたと母から、聞かされました。けれど父は、意外にも穏やな表情で迎えてくれました。

わたしは、父が父なりに苦しんだという事実に「ご迷惑をおかけしました。」という気持ちを伝えました。 妻子ある人と恋愛したということに関して、人には色々な考え方があると思うのですが、わたしには一概に「罪」だとは思えないのです。個人として出会い、恋愛し、一緒になるに至ったいきさつは当事者にしかわからない必然の流れがあるのを感じます。そして、彼がわたしと生きることを決めたということは、ひとつの貴重な人生の選択だし、わたしにしても同様です。選択した出会いと別れをどのように生きたかということが、それぞれの人生の質を決めていくと思うのです。

彼との生活にはチャレンジがあり、結果的には精神的成長が促がされたように思います。やれたこともあれば、成し遂げられなかったこともあります。そこで成し遂げられなかったことは、別れを選択したこれからのチャレンジだと思っています。

彼が、わたしと生きることを選択してなおかつ元の家族との絆を、新たな形で満たす努力、わたしの家族(両親)に対する誠意あるアプローチをする心がまえがあれば、わたしと彼との関係にも全体性とバランスが育ち、今も共に歩んでいたのかもしれません。そういった全体性を自分自身で選択して生きる時期が来て、別れがやってきたとも言えます。自分の選択によっておきる波紋を、心の中心で引き受けて愛していける人になりたいと思います。成長段階の節目が、元パートナーとの出会いと別れのそれぞれの時にやってきているように思うのです。 そしてまた、元パートナーも、今なお彼らしい道を歩んでいるのだと思います。

父は「あやまりにきたというから、受けいれた。謝り方を悪いとは言う積もりはない。子どもは、親に大事なことは相談するものだと思う。お前は大切なことでも、相談もなく勝手に生きてきた。中学生くらいまでは親の責任だが、その後お前はなにも話さず勝手に生きてきた。」と父。

「お父さんは、弱い立場の人たちのために社会運動していて、小学校の頃から子ども心に尊敬していた。でも、その尊敬するお父さんが、わたしや妹を、小さい頃から愚かな者という言葉や態度で見ていたように思うし、わたしは尊敬するお父さんからそう判断され関心を持たれていないことで自分を尊いと思えず育ったような気がする。お父さんに対しては自分の考えを持たない愚かな娘でいることが、お父さんの思いに応えるありかたのような気がして、自分を発揮できなかった。わたしはお父さんにもっと、わたしを見て欲しかったし、愛して欲しかった。そんなふうに思ってることさえずっと気がつかなかった。自分が母親になってから初めて気がついた。お父さんと話しらしい話をしたことは小さい頃からなかったし、お父さんに相談するなんて考えもできなかった。」
とわたし。

話しながら涙がこぼれ、言葉に詰まった。

「子どもに劣等感を感じさせたのは、親として失格だな。」と静かに、父。

「今さら、お前たちが生き方を変えられるとは思わないし、わたしたちは、年老いて、これからどれだけ生きられるのかわからない。これからは孫に期待を託す時が来ていると思う。孫に免じて、家に入るなというのはおしまいにする。」と穏やかにはっきりと伝えた父でした。そして、この12年がなかったかのように、「お腹がすいただろう。」「たくさん食べなさい。」「疲れただろうから休みなさい。」と優しい言葉をかけてくれました。

父と再会して初めて12年のブランク、会っていなかった年月の長さを感じました。 父の風貌も10年以上の年月が過ぎたことを伝えていたし、穏やかで揺るがない父の優しさも、10年の葛藤をへて訪れたものであることを感じました。 尊敬できる父だと思いました。このお父さんの子どもでよかった、と。

父が昔、子どもに示した無関心や尊敬に値しないというまなざしは、その時代の限界でもあり(社会正義に生きる人は家庭を重んじないという風潮があったような気がします)、父もまた、祖父から受け継いだ縦社会のありかたを無意識に演じていたにすぎないと思うのです。また、父の理解を越えたわたしのありかたは、父を苦しめたに違いないのです。でも、父がわたしを許さないという姿勢を10年以上保った末に、わたしを受けいれることにした葛藤は、並たいていのものではなく、父なりの愛が、拒絶から受容へ形を変えてゆく静かな変貌を、父自身が静かに見守りつづけた結果であるように思います。

また会えてほんとによかった。

6月には子どもたちを連れて里帰りする予定です。ゆっくり、会っていなかった年月をうめていきたいと思います。お父さんとお母さんが、まだ生きていてくれて これから共に過ごせる日々があることは、思いがけない恵みだと思っています。

なんだか今回は、思いがけず色々書いてしまいました。未熟である自分が自分なりの精一杯を生きる中で傷つけてしまう人もいます。自分が正しいとも間違っているとも思えないのです。ただ未熟ではあるけれど、精一杯、その時を生きて、今があります。こうして書いてみると反省する思いも湧いてきます。毎日が揺れ動く心と、中心で静かに見つめる自分自身の同居の中に流れてゆく時があります。

昨日は隣人の一周忌でした。「あれから、1年、わたしは生きたよ。」と今は亡き友人に話しかけました。庭先の桜のつぼみがふくらんで今にも咲きそうです。


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