2003年11月22日(土) 長野高遠町山室  薪ストーブを入れた日


昨日、友人のカツミさんと山根さんが手伝ってくれて、念願の薪ストーブが我が家のリビングに設置された。つい1週間前、宮崎から遊びに来たノノちゃんとホームセンターの薪ストーブコーナーで、「ねえ、やっぱりこのストーブっていいよねえ。」とガラス窓付き鋳物の薪ストーブを撫で、「でも、やっぱりこれ、すごーく安いよね。現実的には、これにしようかな。」と時計型のブリキ製で薄手、3000円のストーブを振り返ったりして、まるでミーハーのように声高くはしゃいでいたのに、その時、憧れていた鋳物のガラス窓のストーブが、今、ここで燃えている。まるで、ずっと前からここにあったかのように。そして、しばらく前に頼んであった、くずの材木も示し合わせたかのように今日軽トラックで運ばれてきて、ようやく冬仕度が整った。

みんなが集うリビングに薪ストーブが静かに燃えている。その温もりは実際の暖かさ以上に暖かい。昨日の夕方、火をつけたら、まるで場の空気が変わったので驚いた。

なんていうんだろうか。やっぱり、火がそこに燃えてることで家の中心が決まり、見えないけれど柔らかな光がさしこんでるかのようだ。いつもは仕事に追われて、ゆっくりお茶も飲まないのに、なぜかストーブのまわりで憩い、話したり瞑想したりしている。カリフォルニアの山の家の空気を思いだす。「あれ?ここって、どこ?」なんてとんまなわたし。赤いレンガを敷き詰め、ストーブを設置し、壁に穴をあけて煙突を通した。そういった、わたしには わからない手順を芝平に住むカツミさんがいとも簡単にやってくれた。軽トラックで運ばれてきた細かい薪は、山根さんと二人で倉の前に積み上げた。 一人じゃできないことが繋がりの中で実現していく。

築100年のこの家も、囲炉裏があったにもかかわらず煙を抜く煙突も今はなくなり、灯油か電気ストーブの生活に切り替わっていた。薪ストーブを付けるにあたって大家さんと交渉した。「わたしらは、薪ストーブは使ってなかったし、今はみんな灯油だよ。壁に穴あけてもらっては困るし、灯油にしときな。」と言う大家さんに粘ってお願いし、薪ストーブを自力で付けさせてもらうことを許してもらった。手伝いを快くひき受けてくれたカツミさんと実際の作業をするまでに日数があったので、複数の友人達から薪ストーブを入れることへの反対意見を聞くことになった。二人とも、薪ストーブを使っている上で親身になって、それぞれにわたしの心配をしてくれるのだが、共通しているのが薪の手配がたいへんだから、ということと煙突掃除のたいへんさ。「灯油ストーブにしといた方がいいと思うよ。」というのが二人の意見だった。

確かに、今、わたしは二人の子どもたちとシングルで暮らしてる上に、コンサートツアーや、畑、さまざまな雑事を一人でこなしていて超多忙なのだ。だから、その上、暖を取るために手間取るのは実際無理かも、というのは当然の意見。

でも、過疎の村、山室の古い大きな家に住んで近所のおじいちゃん、おばあちゃんから畑や漬物のやり方を習ったりしながら暮らしてるのは、快適や便利さの影に切り落とされてしまってる生活の手ざわりや満足感を自分の手にしたいから。薪のお風呂に入ると芯から暖まる。温もり以上に、なにかまろやかなツヤが細胞に吹きこまれる。手間がかかることを実際にやってみると、そこには魔法のような安らぎがある。そして、その安らぎが歌となり、全国の友人たちの心に届いてゆくのだと思う。  

手間がかかるから、手が足りないからと切り捨てていったら なにが残ってゆくのだろう?

元パートナーと別れて、シングルになった直後は、こなさなくてはならない仕事が多くてたいへんではあった。引越しも一人でやったし、箪笥や家具も一人で動かすには超人的な力が必要だった。よく、あの時、階段から転げおちなかったと思う。ところが、このところ繋がりの輪が、血縁を越え緩やかな家族のように育ってきて、なにもかも自分でやらなきゃという発想から解放されつつある。必要な助けは自然とあるし、繋がりの中で実現してゆくことに限りはない。

リビングの真中で燃えている静かな火。この火を囲んで、また友人たちが憩い、そして共に働くことだろう。コンサートツアーでしょちゅう留守にし、いる時は友人たちが入れ替わりたち変わり訪れてくる。ただでさえ、村では変わり者のわたしに先日、となりのおばあちゃんが声をかけてくれた。

「お客さんが多くて、たいへんだねえ。吉本さん、いい人だから、友達も多いんだねえ。」
「いいえ、いいえ、この場所がよくってみなさん来られるんですよ。ほんとに静かで落ち着くって。都会の友達は古い家も落ち着くっていうし。」とわたし。
「いいや、吉本さんがいい人じゃなきゃ、人は来ないよ。ほんとにいい人だから。」とおばあちゃん。その笑顔と澄んだ瞳には心からの気持ちが読み取れた。

わたしは心底、ありがたかった。わたし一人でも理解を越えてるだろうに、都会から次々とやってくる わたしのお客さんに対して警戒心ではなく好意で見守ってくれてる風情がそこにはあった。ほんとにありがたい。その日は、おばあちゃんから野沢菜をたくさんいただいて漬物にし、千葉からの友人とおいしくいただいた。

今日は、大阪から来た友人が薪のお風呂を焚いてくれた。お星様がとってもきれいな夜。今夜は子どもたちは父親の家で楽しんでるだろうな。静かで、こうして旅日記を更新できているけど、やっぱり子どもたちと今夜も一緒に眠りたい気分。


日記の目次へ