2003年7月24日 長野 山室 幸せな日




幸せってどこからやって来るんだろう。幸せとは満ち足りた感覚。欠けてるものがないという満足。その瞬間に生きているという実感。穏やかさ。。。

昨日、風邪をひいて学校を休んだ八星とふたりで、なんということもない日常を過ごした。あまりに平凡な日常だったので、細かいことは覚えていないが、午前中ふと始めてしまった箪笥の整理のさなかに、言いようもない満ち足りたひとときがあった。これを幸せ感っていうのかな。

日当たりがよく、明るいわたしの部屋に座りこんで、このところ乱雑に突っ込まれがちな箪笥のひきだしをひとつひとつ全部出して、たたみなおし整理しなおす。同じ部屋で八星が寝そべって本を読んだり、絵を描いたり。ふたりとも自分のやってることに夢中で会話もない。Wong wing tsan のピアノと真砂さんのインディアン フルートのCDが心地よく静けさにマッチ。始めてしまったことなので、部屋を移してこどもたちの箪笥も整理。八星は絵本や描きかけの絵を持って、わたしの仕事について場所を移動する。わたしは東京〜秩父とコンサートのため出かけ帰ってきたばかり。3月から別々に暮らすようになったこどもたちの父親の家におとといの夜、こどもたちを迎えにいった。このところなにかに追われてるような感じで、こどもたちと一緒にいてもゆったりとしてられる時間が少なかった。言葉を交わさなくても、満足できる関係ってあるんだな。八星は8才になるけど、こうした静かな時間に通いあい満たされるものを感じてるみたいだし、それはわたしも同じこと。

お昼ごはんは、畑で二人で収穫したばかりの夏野菜のカレースパゲティーと取れたての野菜サラダにおいしいコーヒー。(コーヒーはもちろんわたしだけ)きゅうり、レタス、モロヘイヤ、しそ、トマトにピーマンに自家製ドレッシング。 忙しいと料理も簡単になるが、シンプルながらも心をこめた。食べるのは八星とわたしの二人。「おいしいね。」と二人で大盛りのサラダをつつきあう。この時もまた、自分が幸せに包まれてるのを感じた。

思いがけず満ち足りてる自分の不思議。コンサートや様々なイベントで多くの人の心と関わり、生きてる実感と繋がりを結ぶこの頃。でも、それと同時に家に一人でいる時、繋がりから切り離され、ただ孤独に仕事に追われてる感じにとらわれてることがある。頼りなげなわたし、どうしてだか、よりどころのない不安。昨日、突然その感覚の存在を自覚し、不安の由来を探した。もしかしてファーザーコンプレックス?つまり、父親から充分愛を与えられなかったという感覚が未だに浮上してるのか?不安とは外からやってくるものではない。自分自身の中に未消化な体験があると、消化し消えてゆくまで、繰り返し同じ感覚が現れてくる。そこまで思い至ったが、翌日思いがけずやってきた穏やかな幸せ感。

 数日前、東京は下高井戸のほんのう寺に泊めて頂いて、上人さんとゆっくり話をする機会があった。その時、男女関係における嫉妬心に話題が行き、「 わたしは嫉妬しないんですよ。でも周囲はみな違うね。」との上人さんの言葉が印象に残った。わたしは、今まで自分を第1にする人(男性)を必要としてきたなあ。いつでも、お互いの状態を知り、共にあれるという状況を好んで作ってきたというか。。。それが、愛の形と思ってきた。でも、そこには安心と引き換えに束縛とコントロールがあった。そして、その安心も条件つきの安心で、絶対の安心ではなかった。絶対の安心は、どこにあるんだろう? 一人でも絶対の安心でいられるということが、絶対に安心な環境を創造していくのだろう。

この数年、男女を問わず素敵な人達と出会い続けている。昨日の幸せ感の中には、その場面には直接関係なかった繋がりのある人々の存在も、意識の底に含まれていた。自分が愛を感じている人が、自分とは実際的に関わりのないところで他の人と幸せに過ごしていることまで含めて、自分の心が喜んでいるという今までにない感覚があった。 直接繋がってなくても網の目のような縁の中で自分は支えられ、自分の意思で魂に忠実な人生の旅をしている。

愛と憎しみは背中合わせの愛ではなく、無条件の愛。自立した穏やかな愛というものの存在を、このところうすうす感じる。自分の心は、状況に応じて科学反応をおこす実験室みたいだ。心に素直に今まであった関係性を手放し、新しい環境に適応する中で、状況ばかりでなく心の有り方も、展開されていくみたい。

明日から、1週間、山陰〜関西ツアーで家を空ける。8月1日にこどもたちと合流して18日までは、こどもたちとほぼ一緒。3日から5日は自宅レコーディング、6日からは笑う富士山フェスティバル〜福島の獏原人村の満月祭り。13日〜18日は自宅。動きの中にも穏やかな幸せをいつも感じていたいな。