2003年6月22日 夏至の日 長野 山室




昨日の早朝、大阪から友人、山根夫婦が遊びにやってきた。ここ2年くらいの間に、コンサートを通じて親しくなり、大阪でのコンサート企画は彼らにお願いすることも多くなりお世話になっている。今回は7月には、会社を辞めるという山根さんの、田舎暮らし下見ということで1泊だけの滞在。数ヶ月前から約束してたのに、わたしは日を勘違いしていて、山根さんが玄関を開けた時、まだ、すやすやと眠っていた。寝ぼけ眼で声に応じ、ふらふらと玄関に出てびっくり。「明日だと思ってた。掃除もしてないよ〜。」
 
 会社を辞めた後の、一つの希望としては、田舎でパン屋さんをすることという山根さんを、石釜でパンを焼いている友人家族に紹介しようと思っていたら、温泉で打ち合わせたかのように一緒になった。子どもどうしが楽しく遊び始めたので、こどもを1泊預からせてもらい、今朝はこどもら4人と山根さんが川らで遊んだ。「7人家族だね。」などと言いつつ、朝ごはんも楽しい。田植えをしているという石釜パン屋さんに、午後、山根さんたちが立ち寄るので、今度は我が家の子どもたちを彼らに預けることに。こども4人は連れ立って田植えの周辺で遊べて、わたしもこどもも幸せ。今、一人になったところで、畑にほうれん草と春菊の種を撒いた。今朝の朝ごはんでは、取れたてのカブや大根をお客さんに料理してあげられることが嬉しく、野菜メニューを増やしたい気分のままに種まき。この日記を書き終えたらこどもたちが帰るまでに、レコーディング予定の歌の見なおしもしたいな。いつもやりたいことが一杯だけど、どれもこれも時間がかかる。目の前のことしかできない。洗濯物を取りいれるのは、いつも夕暮れになって
しまう。優先順位は心のままに。

2日前、「瑠璃色の涙」という歌ができた。6月16日、東京は、ほんのう寺で友人から、ボディワークをのセッションを受けて浮き彫りにされた心を歌にした。

自分でも自分の心が謎で、このところ戸惑うが、人を好きになる、愛するというプロセスの現れが、根本的に変化したみたい。

 もの心ついて以来、恋をするのは自分の生いたちによって形成された好みの男性があらわれた時、憧れや未知なるものに惹きつけられる形で、恋愛という症状(!)が現れていたような気がする。それは、言ってみれば幼少時代得られなかった愛の不足を補いたいという潜在意識が働いていた気がするのだが、自分の中の不足感は他から補われることはなく、自分で気づいて自ら変わっていくもののようだ。

この頃予期せぬ時に、ごく珠に突然やってくる恋は、自分の意思や好みとは関わらなくなった。ボディワークや、その他のセレモニーを通して開かれた自分の心の中に、はじめから存在している愛と出会う、という形があるらしい。10年以上知ってはいたが、たくさんの友人の一人として気にも留めていなかった友人を、実は愛している自分では知らなかった自分の心と出会ったり。そこには一切の理屈もなく、好みすらない。ただ、気にも留めていなかった人が実は大変、縁の深い人であること、そして、その人が深い深い呼吸を自分にもたらしてくれる人であることを、ただ知る。好きになるのは、非日常的空間の中に訪れた明確で唐突な印象の不思議さに驚いて、その人と時間を過ごすように心がけた後でのこと。

 そのようなプロセスを経て、好きになると、気持ちを伝えずにはいられない。自分の心に素直になること、これまた、ひとつの試練。もともと、縁が深い人であるから、離れていても、この世に存在していることを感じるだけで嬉しいものだが、実際、生身の人間として一緒にいたくなるし、人生に関与し合いたと、望んだりする。ソウルメイトって一生の間に何人くらい会うんだろうねって、このホームページを管理してくれてるアパッチがくれたメールに、最近あった言葉だけど、ほんとに何人くらいと出会うんだろう?自分の不足感を相手を通じて知る、というのもまた、ソウルメイト(同じ魂のグループ)なんだろうね。ソウルメイトだからといって一緒に人生を生きるわけではないということは、悲しいけれど有りがたいことでもある。見えない1本の糸のように、すでに存在している思惑を越えた人生の流れが、わたし自身の心を繊細に光へと導いている気がするから。

人の魂がなんども、体を変え生まれ変わりながら魂を磨いてゆくというのが、わたしの実感だが、このところ出会えたソウルメイトは、忘れてた本来のわたしを思いだす機会を与えてくれた。 何層にも幻想のベールをかぶってしまったわたしの本来の姿は、誰の本来の姿がそうであるように、愛そのものであり、全ての物事やゆくえに対する完全なる信頼と愛そのものに満ちている。

けれど、また一方で、そうした魂の親しさと出会っても、わたしは一緒にいたいけれど、相手はそうは感じない、あるいは思いは別としても、その状況を選択しない、ということが出てくるんだね。わたし自身の愛と信頼の枠を広げる機会が、その出会いの中にあるのだと知る。

また、わけのわからないことを書いてしまったのかも?(このごろの有里ちゃんの書くことって、わけわかんねえよな、と謀氏の弁)ごめんなさ〜い。

自分の真意が明らかになり、それを伝え、答えをもらう、そのプロセスは神さまごとじゃないかな。神さまとは、心の奥深くに存在している光。それは溢れる愛の泉であり、それは条件を問わず溢れている。 その泉は、日常の中に隠れてはいるが、時として試され、純化されてゆくんだね。

♪愛することの喜び悲しみ あなたもわたしも 思惑を越えてゆく ひっそりと胸に愛を抱いて こぼれる涙 光になる ♪