2003年2月3日 
ハワイ ビッグアイランド



2月1日、2日とハワイはヒロでコンサートが続いた。ナチュラルフードストア、アバンダントライフでのライブ、ポジティブリビングセンターの教会のサンディサービスにゲストで歌い、日本食のレストラン、ミオズ゛を会場に借りてのコンサート。

ミオズでのコンサートは、コンサートを決めて1週間後という限られた準備期間に出会った人に自分で書いたチラシを渡し、20人弱が集まってくれた。その1週間はヒロと反対側のコナのビーチで4〜5日キャンプしてたのであまり宣伝はできなかったが、キャンプで出会ったワシントンから来てるという若い夫婦やヒロのナチュラルフードストアで働いてる女性がパートナーと来てくれ、パホワのメキシカンレストランで見かけた髪が床につきそうなドレッドの男性は友人が貼ってくれたチラシを見て来てくれた。伊豆大島で知りあった日本人のkもチラシを見て。ほとんど初めて聞いてくれる英語圏の聞き手を前に、なんだか自分の魂の家族が集まってくれたような濃い時間を感じ取った。

ハワイのキャンプ場は世界各地からの旅人の集まりだった。1月27日、月曜日、テントや自炊道具、海遊びの道具などそろえてトラックを運転し地図を見ながらスペンサービーチにたどり着いたのは夕方。スペンサービーチは波が穏やかな入りえの浜で八星も見るなり気に入った。「ここに4回、泊まろうよ。」と八星。キャンピングエリアを歩いてまわる。人から離れてテントをはりたいけれど、テーブルも使いたい。たいてい木製のそなえつけのキャンピングテーブルの側には誰かがテントをはっている。ひとつの長いテーブルがまだ未使用で、片側に今からテントをはろうとしている気さくな感じの白人男性がいた。テーブルの反対側にちょっとたたずんで思案していると、その男性がさわやかな風のようににわたしを見た。「テント、どこにはろうかと考えてるんだけど。」とわたしが言うと「僕は向こうの木の下にはるから、そのへんにしたら?」と言ってくれる。ジェフという名のこの島に住む人だった。

夕暮れ、こどもたちと泳ぎ、お弁当をジェフに分ける。あたりはテーブルごとに憩いの時間に入っていて、わたしは歌が歌いたくなった。ギターを出し静かに歌う。歌い終わるとジェフが絶賛し、あたりからもささやかな反応があった。夜はテントにこどもたちを寝かせてから誰もいない波打ち際で歌を歌った。ささやくようなわたしの歌声は波の音に溶けていく。波音と歌声はなんて心地よく溶けあうのだろう。波音も音楽であることが歌いだすとよくわかる。ふと人の存在感を感じて後ろを振りかえるとジェフが座っている。怖いな、とふとよぎった気持ちを振り払って、穏やかな会話を楽しんだ。年は45くらいかな。ヒロの郊外に住み、時々道路工事の仕事などを見つけて仕事をしてるとのこと。孤独な風来坊でありながら人なつこい感じ。彼はわたしに恋をしたなどと言ったが、とりあわず、いい友達になった。彼はわたしをLittle ledy と呼んだ。

翌朝、歌のお礼を告げに来てくれた人達と知りあいになった。ビーチで歌いたい時、こどもたちの遊ぶ姿を眺めながら木陰で歌う歌に、さりげなく耳を傾け、後で話しかけてくる人たちもいた。カナダで有機農業を営んでる熟年の夫婦、ロサンゼルスからハワイに住むためにやってきてキャンプしながら土地を探してるという若い女性2人組、カリフォルニアはマウントシャスタから移住してきて仕事をさがしているという夫婦。ホノルルから遊びにきたという女性2人。この海の暮らしに、わたしの歌が溶け込み、歌を通じて自然と友達ができていく。海の中は色とりどり魚、そしてゆうゆうと泳ぐウミガメ。
 波打ち際で仰向けになってこどもたちと穏やかな波に打たれる。海に浮かんで空を眺めると「インターミッションなんだなあ。」という今現在のわたしのポジションが心に浮かぶ。カリフォルニアの暮らしに区切りをつけて、これから日本に。こどもたち2人を連れて、遊びも仕事も全て自分で決めて自分で準備し動く、シングル感覚が見知らぬ場所であるハワイでスタートした。知ってる人のほとんどいない、この無垢な美しい島で。

1月29日、スペンサービーチに心を残しながらもイルカたちがよくやってくるというホーケナビーチに移動。ホーケナビーチはキャンプ場の定員が一杯でパーミションがとれなかったのでキャンピングエリアにテントだけはって、波打ち際のテーブルで夕食を料理し、テントでは眠るだけにした。パーミションをチェックに来られたら一晩は見逃してもらえても翌日には移動しなくちゃならないとしたら、わたしには忙しすぎる。ちょっとゆっくりしたかった。
 スペンサービーチになじんだわたしは、はじめホーケナになじめなかった。あたりまえだが知らない人ばかり。そしてなぜか長期滞在してる人が多いせいか長屋みたいな空気があって、自分たちだけがよそ者のような気がしてしまった。けれど翌朝、木陰で歌を歌うと話かけてきた人達の自己紹介から事情がわかってきた。隣の家族はメインランドの田舎からバケーションに、むこうの家族はアラスカからなんと4ヶ月もこのビーチにキャンプし、こどもたちはビーチから地元の学校に通ってるという。そして反対隣は、これまた驚いたことにカリフォルニアの我が家のあったエルクバレーの山のふもとのupper lakeから。共通の知りあいも話題にのぼりお互いに奇遇と感じ、親しくなった。彼らに誘われてケアラケクワのビーチへ。ここはハワイアンの聖地で入りえにボートの進入を禁止しているので海水に命の恵みであるマナが多いという。海は深く魚は見えなかったが深いコバルトブルーの柔らかな海水に身を委ねて、漂った。この土地を守っているというハワイアンのおばさんがきれいな布を売っていた。鮮やかな布を1
枚買って、電話はないかと尋ねた。カリフォルニアで出会った女神の絵を書いている小田まゆみさんの自宅を訪ねる予定だったが、道がわからなくなってしまったので。ハワイアンのおばさんが一緒に地図を見てくれたがわからない。まゆみさんの名前をふと出すと「I know her very well」ということで携帯電話で連絡をとってくれた。夕ご飯はまゆみさんのお宅で。ゆっくり話もでき、海を見渡せるジャグジにも入らせてもらい、くつろいだ。
 31日、ホーケナからヒロへ。朝、イルカたちの現れるという他の2つのビーチもチェックに行こうかと思っていたがアラスカからの家族たちと話し込んだりして昼になってしまった。アラスカの夫婦は「あなたを見かけた時、道夫を思いだしたの。彼は昔、会う度に日本人のガールフレンドを欲しがってたから。」と言う。星野道夫さんは、わたしの心に触れたアラスカを撮り続けた写真家だ。星野さんは数年前、熊に襲われて亡くなり直接お会いしたことはなかったけれど、こうして縁が繋がっていくことは不思議だ。もしかしてアラスカに行くこともあるかも?と彼らの住所をいただいた。
 
ヒロへむかう前に心残りだったのでホナウナウのビーチに寄ってみた。車を道にとめ、海を眺めるとイルカの背びれがすぐ近くに見えたような気がした。急いで水着に着替えて、八星と海へ。イルカの群れがわたしたちのすぐ近くから海面に浮かび上がり半円を描いて、また海中へ潜水していった。イルカたちの群れを追ってしばらく泳いだが深く潜水してゆく彼らを浮き輪につかまってバタバタ泳ぐ八星と追うのは難しかった。八星を岸にあげると、待っていたアマチと再びイルカの群れを見つけた。アマチにライフジャケットを着せ、わたしはウエットスーツを着て再び海へ。イルカたちは25頭くらい。ゆっくりと海を深くもぐりなんども海上にその姿を現した。アマチとわたしも含めてシュノーケルをつけて海を漂っていた10数人のうち何人かが、正確にイルカたちの上を泳ぎ軌道が見えるようになった。海底深くを3〜4頭くらいづつかたまり、群れでしなやかに泳いでいる彼らの姿を、海の表面から眺めながら一緒に泳ぐ。海面からさしこむ太陽の光が海底ちかくを旋回していくイルカたちのシルエットを揺らめきながら写しだ
す。2頭、ちいさなイルカがお母さんの胸にくっついておなかを見せている。そのおなかがひらひらと揺れ、銀色に光った。イルカたちは午後は休んでるか食べものを探してるか自分達のことで忙しく、あまり人に関心を示さないと後で聞いた。わたしとアマチはイルカの群れと共に1時間ちかく泳いだ。アマチが寒くなったというので上がる。暗くなる前にヒロに着きたかったし、八星のそばについてあげなくてはならなかったので、イルカたちがまだ泳いでいるビーチに心を残しながらも出発。けれど、車を運転しながら不思議なくらい満たされているハートの暖かさを感じた。

次回ハワイに来るときは、もっと長くキャンプしたいな。ちなみに、わたしとアマチが1時間もイルカと泳いでいたので八星は、わたしがおぼれて死んでしまったかと思い(後でそう言っていた)岸で泣きはじめてしまっていた。たまたまホーケナビーチでわたしたち家族を見かけたアメリカ人の家族が八星に望遠鏡を持ってきて慰めてくれていた。次回、来る時は、みんなで泳げるかな?アマチはイルカと泳げたことがとても楽しかったみたいです。