2001年3月6日  なにもない日

 




東京は東小金井、妹の家のささやかな庭にぺんぺん草やくろっかす、ちゅーりぷに水仙が咲いている。無論ちゅーりっぷや水仙はまだ青々としたはっぱだけ。くろっかすは鮮やかな黄色と紫。昨日はコートを着ても駅まで自転車を走らせたら寒かった。でも今日はほこほこと、土も草もわたしの身体も気持もゆるんで、子守りを頼まれた妹のこども、1才の春ちゃんを抱いて庭に出た。ささやかな庭に、ねこやなぎや桜の木まである。花びらが風に舞う桜の木の下に座り込んだ。

土の上に坐ると、名もしらぬなじみの草が話しかけてくる。八星は背の低い木によじ昇って、そこからのおしゃべりを楽しんでるし、あまちは、竹馬に挑戦している。わたしは9年前まで、まだ単身の時も、こんなふうに東京の空き地や公園で時を過ごして歌を自然からいただいていた。カリフォルニアの広大な山に住む今でもこうして都会のささやかな庭に憩える自分であることがなんだか嬉しい。

わたしが八星やあまちの年ごろ、お母さんやお父さんと山を散歩し、川べりや草原で遊んでいた。妹とふたりでわざわざ、山の清らかな小河まで自転車で出かけその清水で自転車を洗ったりしていた。忘れていた、そのシーンへわたしを誘うのは、なにも予定のない日のほこほことあたたかな東京の小さな庭を飾る、名もない草たち。

明日は長野に向かう。あまちの熱もようやく落ち着いた。わたしはまだ歌えないけれど回復していく力が内側に勝っているのを知っている。歌えることのありがたさ、わたしは歌えるだけで幸せなのだとつくづく感じている。そしてまた、歌えなくてもわたしはわたしであることを改めて感じている。