キャラバン・オン・ザ・ロード(その1)
(1975〜1977)


 「なまえのない新聞」No.186の特集“ヤポネシア・フリーウェイ”に触発されて、まさにその時期に重なる、私がフリークになろうとした旅立ちのその時と、かの時代が眼前にふと甦り、今、あらためて語っておきたいことがあると思い立った。
“アイ・アム・ヒッピー”も、ナナオ・サカキも知っている私だが、同じく旅人を自負する私なりの視点からの“ヤポネシア・フリーウェイ”の旅の光景を、このHPの場を借りて、伝えておきたい。
 これは、そのごく一部、時代は1975年から1977年までの3年間に限定した。私が満20歳から23歳の紅顔(?)の若造の盛りの頃である。
 私は、単に昔の懐かしい思い出話として、その旅を語るのではない。現在も過去も未来も、同時存在しており、それは時間の経過に関係なく、今もそこにあり、過去の時点で今も進行中の出来事でもあるのだ。だから、取り扱いには注意を要する。

 この時代をあらためて振り返ると、私はこんなにバカばっかりやっていたのかと呆れ、笑ってしまう。よく無事で逮捕もされず、走り続けたものだと。かつて私が走り続けた“旅”は、自分探しや癒しよりも大事なもの、もっと強くて美しいものに気づかせ、出会わせてくれた。時代遅れと言われようが、放浪の旅は今でも有効であると言いたい。
 私は、今の若い奴らにも、もっともっと自由にバカをやれ。だが、けっして人を傷つけるな。権力や権威を徹底的に疑え、逆らえと、愚直に言い続けたい。そして、新たな“旅”に出ろと勧めたい。
 ここではタブーには触れない範囲で、私が体験した1970年代末の旅のシーンの一部を紹介しよう―。
                   *

 今から40年前、1975年にあった、フリークスとオルタナティブを求める若者らによって行われた、日本列島を南から北まで、徒歩やヒッチハイクで、時には野宿しながら旅をするミルキーウェイ・キャラバン。それは個人個人が、この国の底辺を身一つで旅することで、自らを開き、鍛え、日本という国家と既成の体制社会とは別の、もう一つの社会と新たな価値観を求め、創っていくことを謳っていた。
 私も、当時のフリークスらも、別に“自分探し”とか、“癒し”などを求めて、ドロップアウトしたり、ヒッピーになろうとしていたわけではなかった。誰も癒しなんて求めていなかったし、当時は、世でもそんな言葉は聞いたことがなかった。格好よく言えば自称フリークスらは、闇雲なまでに、心の自由とか、世界の真実、社会や世界の変革―チェンジを求め、目指していたのだ。
 ヒッピーやコミューンが増えても、それだけでは根本的にこの国や社会のシステムが変わるわけがないが、当時は、誰もが自分たちはその先駆けになるのだという夢と、強い思いだけは抱いていた。

 とにかく、何をやるにおいても、皆、アツかった。がむしゃらでギラギラ、ガツガツしていた。今のようにネットやらケータイがない分、皆、直接会って、大いに話し、語り合った。「出会い」とは、生身の体同士で、直接、対面することだった。シラフで、酒を飲みながら、時には“ジョイント”を回しながら。そしてギターや楽器で歌い、一緒にセッションをした。
 この濃密な直接の語り合いと出会いの場が、一生ものの仲間たちの繋がりと深い信頼を培ったのだ。その後はそれぞれ別の人生を歩んでいても、コミューンで暮らした仲間は、魂の兄弟か家族のように覚えているように。

 74年に和光大の人間関係学科に入学した私は、前年のテント村、学費値上げ反対闘争を担ったフリーク学生らの渦中に飛び込み、そこでキコリ、ポーをはじめとして、ユニークな面々らと熱い出会いを繰り返した。昼食会をはじめとする生活研の活動にも参加し、先輩らを通じて、国分寺の「ほら貝」やCCC、練馬の谷原ファミリーの連中とも知り合った。その年の暮れ近くには、CCCがアピールしていた“諏訪之瀬を守れ! ヤマハ・ボイコット・キャンペーン”に賛同し、CCCのメンバーを呼んで、学内でアピール集会を主催したこともあった。

 75年の年明け早々から、谷原グループや仙台の「雀の森」グループが出しているミニコミや、「名前のない新聞」では、ミルキーウェイ・キャラバンの情報や、若者に旅立ちを呼びかけるメッセージが盛んに載せられていた。―オマエの今のレールから外れて、一人で大地を歩く旅に出ろ。この当たり前と思っている社会や日本というものを、別の視点から見てみろと。

 谷原グループの呼びかけを発端に、昨年来の「ヤマハ・ボイコット」運動で結びついたフリークスのネットワークが呼応し、東京でもCCCをはじめ、いくつものグループが、南は宮崎から鳥取、京都、長野、仙台、北海道の旭川に至るまで、各地のフリークスやコミューンが続々と参加と協力を表明し、ジョイント・ポイント(集合地点)としての準備が始まった。旅、そしてコミューンが合言葉だった。

 私自身も、その誘い文句にすっかりやられ、乗っかった一人だった。これはもう旅に出るしかないと、学業そっちのけで、その年は日本各地へキャラバン絡みの旅に熱中していた。4月、御殿場・花祭りコンサート、5月、長野・富士見(雷赤鴉)、6月、神奈川大・オールナイト・レインボーショウ、7月、群馬・前橋、赤城山、富士見・雷赤鴉、清水平・オームアシュラム、8月、仙台、北海道・登別、9月、旭川、藻琴山・宇宙平和会議、11月、福島・谷地原人、12月、富士見・雷赤鴉…。「名前のない新聞」のあぱっちと、直接、会ったのは、北海道でのキャラバンでだった。
 私は、キャラバン・デビューを機に、いつしか皆から、“ガリバー”という聖名(あだな)を賜っていた。

 皆、髪は揃って長髪。私も負けじと、その頃はジョン・レノン風を目指した真ん中分けの髪を肩にかかるほど伸ばしていた。おまけに髭だ。我ながら、さぞかしムサ苦しく見えたと思うが、当時はそれがフリーク、ヒップの証であると意識していたのだ。
 この姿でバックパックを背負って、日差しや雨風を受け、ホコリや排気ガスを浴びながら路上を歩くヒッチハイクの旅をするのだから、常に清潔ではいられなかった。

 仙台でのキャンプ・インの時、私は自分の不注意の故、海で溺れて意識を失い、死にかけた。その時、仲間らの救助によって九死に一生を得た。私が今も生きているのは、この時の仲間たちのお陰である。意識は回復したが、肺が炎症を起こしていて、病院に直行し、二週間の入院を余儀なくされた。
 仲間には迷惑をかけ、親が飛んでくるわで、とんだお騒がせ事件を起こしたのだ。この時に死んでいたら、私は単なる親不孝の、救いようがない愚か者で終わっていた。私は仙台でキコリに叱責されるほど、明らかに調子こいていたし、こんな事件を起こすわで、危なっかしくてしようがないフリーク1年生だった。

 どこへ向かうにも、ヒッチハイクが当たり前だった。慣れないうちは四苦八苦したが、性に合っているのか、次第に難なくこなせるようになった。
 ヒッチハイクの旅の基本は1人。それは旅人たる者の矜持で、女の子は男と同伴の方が安全だが、一人で堂々とヒッチの旅をしている強者の女性もざらにいた。
 未知のドライバー(人間)との一期一会と道行き。この体験は、人間を知り、自分を開くことにおいても大いに学びとなった。金が無くても、平気で私は日本中行きたいところに向かっていた。この1年がかりの旅が結局、二度と引き返せない道―大学をドロップアウトして、南の島のコミューンに向かうという決断の布石となった。

 北海道でのキャラバンが終わって、私は東京・町田の下宿アパートに戻ったが、キャラバンで出会った連中との交流と旅は、東京でも継続していた。私は大学の授業にも学生生活にも身が入らなくなり、いっぱしのフリークのような顔をして、旅とかコミューンとか言っていても、依然、親から仕送りを受けている自立していない自分と、目指しているものとのギャップを嫌というほど自覚した。
 それに大学を卒業して普通に就職するという道は、もう考えられなかった。かといって、大学を辞めて本物(?)のフリークになるという勇気も未だ足らず、そのきっかけも目途も見えていなかった。

                   *

 運命は、自由を求める魂を、次第に未知でゾッとするステージへと導いた。
 翌、1976年という年には、私は奄美と本州、北海道を結んで3往復し、ヒッチハイクとフェリーで膨大な距離を旅している。奄美にいた7カ月以外の期間は、ずっと旅のさ中にあった。それが自分の本懐であることを思い出したように、まるで水を得た魚のように、その頃の私は、旅の時空間というものに取り憑かれていた。
 1月に札幌から東京・町田に帰ってきて、2月半ばにキャラバンで出会った横浜のポン子という女の子を追って宮崎・日南へ。
 3月初めに奄美から来たポンと出会って、ポン子と共に奄美大島の無我利道場へ向かった。3月下旬、東京直行のフェリーで帰京。4月の新学期に大学に退学届けを提出した。
 その後、長野・富士見の雷赤鴉を訪問。4月30日、東京発奄美行きのフェリーで再び奄美大島へ向かう。
 5月2日、宇検村の無我利道場に到着。そのまま8月いっぱいまで労働と研鑽、恋と祭り、瞑想のカルマヨーガの日々が続いた。
 毒蛇ハブが棲む奄美。無我利で開墾中の枝手久島は、ハブ天国と言われていた。
 ろくに泳げもしない自分が、海の上で小舟の操縦を習うことになろうとは、想像もしなかったことだった。

 8月末、奄美を出発。鹿児島、宮崎を経て、フェリーで神戸へ。宮崎のアーケード街でギターを弾いて歌い、ストリート・シンガーの真似事をして、木賃を乞うた。無我利からもらったお金は、鹿児島までのフェリー代で尽きていた。
 大阪からヒッチハイクで阪神、東海道を経て、9月6日、神奈川・相模原の弟のアパートに到着。
 一週間後、岩槻インターから東北方面へのヒッチハイクを開始。2日後、札幌の実家に到着。札幌から旭川の“ひこばえコミューン”ヘ。3日ほど滞在。
 この時期、北海道まで向かったのは、大いなる理由があった。私は、無我利密部からのエージェントでもあった。
 10月初め、苫小牧発八戸行きのフェリーで本州に渡り、神奈川の弟のアパートまでヒッチハイク。
 10月10日過ぎ、ヒッチハイクで東海道を大阪に向かう。大阪・茨木の友人宅へ寄って、神戸発のフェリーで再度、奄美へ向かった。
 10月中旬、宇検村・無我利道場へ帰着。11月いっぱいまで、枝手久島での暮らしとアブリ漁、無我利の仲間との語らいの日々。
 12月初め、東京に赴くポンと共に奄美・無我利を出て、九州から関西、長野を経て、東京へ。12月20日、弟と共にヒッチハイクで長野・清水平のオーム・アシュラムを訪問。
 その足で新潟、東北日本海側沿岸をヒッチハイクで青森へ。青函連絡船で函館へ。
 そこからは列車で札幌まで帰った。放蕩息子2人の年末の帰省だった。

 たった1年の間に、よくぞこれほど目まぐるしく動き回ったものだ。若さもあってのアクセル全開といった態だ。考えてみれば、ヒッチハイクで旅した距離だけでも、1975年からの5年間で、本州と北海道を合わせてかなりのものだ。5万km以上はゆうにあるだろう。
 私はこの頃、そうやって何を求めて、何を得ようとして、闇雲なまでに走り続け、想いを募らせていたのだろうかと、今、あらためて不思議に思うのである。

(*下の3枚の写真は『魚里人』1,2号='78,79年=より)


 

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