〜エッセイ〜

神(アッラー)とは誰か


 2015年1月7日、フランス・パリで新聞社を襲撃し、十数名を殺害したイスラム過激派のテロリストは、その理由として、預言者(ムハンマド)を偶像―風刺画などで冒涜することは許せない、その復讐だと主張した。
 これは、テロは言外としても、イスラム過激派から一般のムスリム、イスラムの最高機関に至るまで、イスラムの人々全てに共通する認識であり、そのアイデンティティーと一体化した強い感情だ。その宗教の教えや信念を尊重するという観点からは、それを否定する気は全くないが、何故なのかと、部外者の私などは、そこでどうしても問いたくなる。
 何故、預言者の姿を絵にすることが、それへの、神への冒涜になるのか、その理由は「コーラン(クルアーン)」の中にも記されていない。

 キリスト教では、預言者―イエス・キリストの姿は、中世以前から数多く描かれてきた。ヨーロッパの画家によるキリスト磔刑の図など、イスラムから見れば、預言者をとことんまで冒涜した、罰当たりなシロモノということになる。
 ユダヤ・キリスト教では、イエス・キリストも含めて歴代の預言者の誰もが、「私の姿をけっして描いてはならない」などとは言わなかった。イエス・キリストさえ時にパロディ漫画にしても、誰もことさら目くじら立てないヨーロッパの文化と、イスラムはそこが根本的に違う。

 イスラムは、7世紀にムハンマドが始めた宗教だ。578年にメッカに生まれたムハンマドは、隊商の執事としてアラビア半島の交易に従事していた。当時のアラビア半島は、それぞれの遊牧民族が、それぞれの神を祀る多神教の社会だった。
 その中でメッカは、遊牧社会から商業の一大センターに変貌を遂げ、その過程で貧富や格差の拡大など、様々な矛盾も生まれつつあった。内省なムハンマドは、メッカ郊外のヒラー山で瞑想に耽るようになり、610年に突如、神の啓示を聞く。それから632年に亡くなるまで啓示を与え続けた。ムハンマドが聞き、人々に伝えた啓示をまとめたものが、イスラムの聖典である「コーラン」だ。

 「コーラン(クルアーン)」は、アダムに始まって、ムハンマドに終わる預言者の系譜を伝えている。預言者―神の言葉を授かった者という意味だ。預言者の中にはモーゼやイエスも含まれる。しかし、イスラムでは、アブラハム、またモーゼやイエスに与えた啓示には、本来のものから逸脱した内容も含まれ、ムハンマドこそが神の正しい啓示を伝えた最後の預言者と考えられている。
 神(アッラー)は、最後の預言者ムハンマドにコーランを与えたが、このコーランには神の最後で完全な形の啓示が示され、ムスリムに真の信仰を説いている。預言者ムハンマドは、単に啓示を伝える神の使者としての役割を担うだけでなく、彼の言行はムスリムの生活上の規範となっている。

 イスラムではムスリムの最も基本的な宗教義務として、〔五行(五つの行い)〕を設けている。その中で「喜捨」を求めている。この喜捨は救貧税で、収入の2.5 %を貧しい人々のために与えるものだ。富の追求は善とされながらも、それはイスラム共同体全体の利益を考慮しなければならない。このように、イスラムは平等主義の性格が色濃い宗教と言える。
 五行の中の「信仰告白」は、「アッラーのほかに神はいない。ムハンマドはその使徒である」と唱える。これによって、ムスリムは神が唯一であることと、自らがイスラム共同体(ウンマ)に属していることを自覚する。
 五行の中の「礼拝」は、一日に5回、日の出、正午、午後、日の入り、夜にメッカの方向に向かって行うものだが、特に金曜日の正午に行う集団礼拝によって、ムスリムは相互の連帯意識を強く意識することになる。
 さらに「ラマダーン(断食月)」の日の出から日の入りまで行う「断食」は、空腹によって、精神の清らかさを培い、神を生き生きと思念すると共に、食に困る貧者の苦しみを体験するという目的も持っている。

 またアッラーが祀られているカーバ神殿があるメッカへの「巡礼」は、少なくとも人生に一度、行うことが望ましいとされている。毎年、世界各国から200万人もの人々が参加するこの「巡礼」を通じて、ムスリムは民族、人種、経済的背景を超えた国際的なムスリム共同体の連帯や平等性を強く意識することになる。
 「巡礼」のクライマックスは、アラファトの丘における礼拝だ。ここは預言者ムハンマドが最後の神の啓示を伝えた場所とされている。アラファトの丘でムスリムは、罪を悔いて神の前に立ち、自らの、また全てのムスリムに対する神の許しを乞う。

 かようにイスラムの教えには、高い社会的倫理と平等性を促進し、相互扶助と奉仕の実践を旨とする、我々も見習うべき人類共通の知恵と徳性が含まれている。この知恵に関しては、イスラムとか宗教とかの枠を超えて、我々はもっともっと学びを深めなければならないと思う。

 イスラム「原理主義」者と普通のムスリムとの違いは、シャリーアの古典規定を現代にそのまま適用できると、考えるかどうかという一点に尽きると言っていいだろう。
 イスラムは「神の命令」とされるシャリーアへの服従を旨とする宗教であり、古典的な規定には「窃盗犯に対する手足の切断刑」に象徴されるような、現代の人権意識とは相容れないような前時代的、封建的な規定がいくつか含まれている。このため、大多数のムスリムは古典法の厳格な適用など望まない。
 イスラム原理主義の過激派、武装勢力の“イスラム国”や、自称アルカイダ、タリバンといった連中の理想とする世界は、地球上に現在のような強大な資本主義国家が存在しなかった中世以前の、それこそムハンマドが生きていた時代を目指しているように見える。
 それは神による支配、神への服従が絶対で、神の啓示をまとめたコーランなどイスラム法による統治が前提となる社会だ。
 人間が定めた法律や、欧米流の民主主義は神への冒涜と考える。
 イスラムの教えの中に、異教徒からの防衛という意味のジハード(聖戦)がある。
 ムハンマドの時代、イスラム教を脅威と感じた多神教の部族から迫害を受けたことが起源だ。これを現代に拡大解釈し、欧米や考えが異なる勢力の排除をジハードと位置づける。異教徒への襲撃は、この考えによるものだ。異教徒の女性を奴隷にするのは、非戦闘員である女性は戦利品と解釈し、「戦利品は兵士で分かち合う」という教えに従っている。
 彼らは、ムハンマドが生きていた時代そのままの法や戒律を徹底することが、正しい信仰なのだと信じ込んでいる。そして、世界を支配する欧米の権力、不信心な異教徒に本気で力をもって対抗しているのだと、ネット世界でもさかんにアピールしているが、どんなに本気だろうと、やっていることはテロリストというより、血に飢えたならず者と変わりない。
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 ムハンマドに啓示を与えた神(アッラー)、ユダヤ・キリスト教ではヤハウェとされる“在りて在るもの”、我の他に神を拝んではならないと命じる神。アダムとイヴ、ノア、アブラハム、モーゼらに啓示を与え、導いたとされる神とは何者なのかと、ここで私は、あらためて素朴な疑問を発してみたい。
 ノアもモーゼも、アブラハムも、“神”と非常に具体的で生々しい対話とやり取りをしている。その神とは姿は見えないが、人間にも似た強いエゴと個性を持った存在のように見える。いわば人格神だ。
 この神が、宇宙の一切と運命を司る大元の神、誰もが運命の一瞬に思わず「神様…!」と祈る普遍的な神なのだろうか。
 私が感じる神とは、眼前に展開する人間社会、大地自然、生命、宇宙の運行、その全て。不可視の領域も含めて、そこにある大いなる意識と働きの奇跡…それはとても一個の人格神にとどめられるようなものではなく、我々の意識の想像を超えた、同時に我々もその一部である宇宙の根源意識のようなもの。今はそのように表すことしかできない。

 これは私の仮説だが、『聖書』の歴代の預言者らに、そしてムハンマドに啓示と教えを伝えた神とは、一つの人格を持った霊的存在であり、物理的現象を起こしたり、見せたりしていることからしても、地球外存在の一種族だった可能性もある。
 キリストの伝えた「汝の隣人を、敵を愛せよ」という無償の愛と思いやりの心こそ、神の愛であることを疑いはしないが、『聖書』で預言者らと対話し、啓示を与えたとされる“神”は人格的要素が強過ぎて、私の中では、愛を感じさせるより大きな神に結びつかない。

 しかし、イスラムでは預言者は元より、神の姿を特定の偶像としたり、描くことを一切禁じてきた。その点では神の正体、本質というものを、偶像を拝んで憚らない他の宗教より正確に認識していると言っていいだろう。神とは特定の人格や、姿形を持った偶像で表したりできるようなものではない。これは私自身も大いに共鳴できるポイントである。
 ムハンマドに啓示を与えた神は、自らの偶像を禁じたが、それ故にこそ、その神は人格的存在であることが窺える。無論、人間の肉体次元を超えた次元に存在する超絶的な存在ではあるが、その神は、はっきりと強い個性と意思を備えている。
 ユダヤ・キリスト教の神も、アッラーも実は同じ神なのだから、その性格は共通している。最後の預言者として出てきたムハンマドが、これが最終の正しい教えなのだと説くことも、その神の性格をよく表している。

 ムスリムやクリスチャンの、神への敬虔な信仰には大いに敬意を覚えつつも、西洋の一神教の感覚に不慣れで、八百万の神々がいていいと思う東洋・日本に住む私には、『聖書』や「コーラン」において、人間に様々な啓示や戒律を下し、おせっかいではないかと思うほど干渉してくる神は少々鬱陶しい。あんたは誰なんだと訊いてみたい。
 こんな物言いは、世界中の教会の信徒やムスリムから、神への罪深い冒涜とか言われそうだが、神とは、そんなことに目くじら立てる、せこい人間のような存在だろうか。

 ユダヤ・キリスト教、イスラムの神は、人間―預言者と事細かに対話する極めて人間臭い神だ。それでいて全くその姿は見せていない。対して日本の神々―イザナギノミコトもイザナミノミコトも天照大神もスサノオノミコトも、初めから人間の姿をして現れ、天照大神もスサノオも地上で人間たちと接触している。それは神話とされているが、『古事記』にはそう記されているのだ。その神々らは、壮大な奇跡を起こしたりはしないが、「私の他に神を拝んではならない」などと命じたりもしない。唯一絶対の神よりも、多くの神々がいていいと私は思う。だからユダヤ・キリスト教の神、イスラムの神も、神々の中の一人だ。私が絶対者だと自ら名乗ること自体、強い自我と個性を表明している。

 この私見は、けっしてクリスチャンやムスリムの信仰と、その神を誹謗、否定しているものではないことを改めて述べておきたい。一般の純朴なクリスチャンやムスリムの信仰する“神”は、『聖書』や「コーラン」に記された人格を持ったような神を超えて、もっと普遍的な大いなる力、大いなる愛といっていいものに達しているのかもしれない。
 だから信仰を知らない者が、信仰を知る者を嗤うことはけっしてできない。

 クリスチャンの欧米の政治家やバチカンも、ムスリムの最高指導者、、大メディアも、一般の信徒たちも、今を揺るがすテロ事件の大元となった宗教的、歴史的奇跡―イエス・キリストやムハンマドら預言者への「神の啓示」は現実にあったのか、ならばその神とはいかなる存在だったのかということは、これまでもけっして公の場で語られたり、問われたりしたこともなかった。信仰の領域であるはずの問題が、実は今、もっとも世界を揺るがしている。それは歴史的・政治的問題ではなく、個人個人の信仰の領域に属することとして、現実問題として考えることを誰もが避けてきたのだ。そのツケが噴出したように預言者、神への冒涜はテロで復讐して当然と考える極端な原理主義の連中が、あちこちで増殖している。
 イエス・キリストから2000年、ムハンマドから1400年。今も世界人口の3分の1がその信徒である“神”の威光は絶大だ。その神とは誰なのか、何者なのかなどと子どもじみた問いを発するのは、私のような自称宇宙人だけだろうか。

 神とは何者か、答えてくれるのは誰か。ローマ法王庁かムスリムの最高指導者か、エホバの証人か、末日聖徒イエス・キリスト教会か。日本で言えばクリスチャンの著名人、有識者も多くいる。神とは何者か、誰なのか、彼らならどんな見解を語ってくれるだろう―。



 

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