原発止めて 未来をつくろう(その2)

 

脱原発プロジェクト

 試運転開始のその年になって始まった全道レベルの泊原発反対運動は、具体的に政治日程を変えるには遅きに失したという面があったものの、その中にいながら反対署名やデモ、抗議行動といった方法をいくら積み重ねても、それだけでは原発を推進している当事者たちだけでなく、この事態の成り行きを見ている一般の人々の意識を変えられない。激烈な言葉をぶつけても、それだけでは相手に届かない、物事は変えられないと、ある時気づ
いた。反対派とか賛成派とか言う以前に、ただ誰もが原子力というものの実態と真実をちゃんと知ること。それが何より必要なことではないか。そうすれば多くの人が脱原発の必要性に気づき、原発に代わるエネルギー源や社会システムを考えるようになるはずだ―。

 泊原発の運転開始は一つの通過点だった。それが既成事実になってしまったからといって、それを区切りとして、これまでやってきたことを終わらせる気はさらさらない仲間たちがいた。将来、泊を含めて全ての原発を止めていくためにも、これまでの反対運動のやり方とは違う別の方法、アプローチがないものか。そうしてほかにできることはないかと模索していた仲間が集まり、立ち上げたのが「脱原発移動資料館」―NO NUKESCARAVANの構想だった。メンバーが集まり、準備を始めたのが泊原発試運転直後のことだった。皆、泊原発を止めようとして、てんでに北海道に集まり、知り合った。私を除いて、ほかは皆、20代前半の若者ばかりだった。

 デモを見た高校生からは、ゲンパツって何?と聞かれ、北電本社前で歌い踊る反対派を見た野次馬のおじさんは、お前ら何をやってるのか、ようわからんと言った。
「原発の基本的なことを知らない人が、まだまだ多いんじゃないか」
 一同はそう感じた。「それからオレらがニュートラル層にもっともっと働きかければいい」。こうした考えが発展し、トラックに原発関連資料を積んで日本列島を走り回るアイデアになった。運動関係の先輩諸氏にもお願いして、あらゆるつてを頼って全国から賛同人兼会員を募って、資金を集めた。呼びかけ人になってくれた有名どころでは、当時の社会党の土井たか子とか、作家の景山民夫、『まだ間に合うのなら』を書いた甘遮珠恵子さんといった人たちもいた。
 江別市内に格安のボロい一軒家を借り、4〜5人のメンバーが共同生活をしながら、冬の間、おおわらわで準備を進め、各種資料、書籍を収集、購入した。中古の3トントラックも手に入れ、翌年4月のスタートにようやく間に合わせた。
 資金とカンパはお蔭様で四百万円ほど集まり、そのうちの約半分がトラックの購入と改造費に消えた。

 

 原発の発電の仕組みやチェルノブイリ、スリーマイル事故、国内の事故の模様、世界のウランの採掘状況、青森県六ケ所村の再処理工場と放射性廃棄物の問題、太陽や風力、バイオマスなどソフトエネルギーの開発状況―等々を写真とイラストで説明するパネル70枚と、原子力や環境問題に関する書籍やビデオ、ミニコミ、Tシャツ、バッジなどのグッズなどをトラックのボックス荷台にどっさり積み込んだ。さらに誰かの発案でさるところに特注して、大きなインディアン・ティピーを搭載した。NO NUKES CARAVANは、インディアン・ティピーを使った先駆けの一員だったと思う。「88いのちの祭り」の頃から登場したティピーは90年代から現在に至るも、お祭りのシンボルとなっている。
 野外のイベントや小さな広場などでそれを建てれば、いやが上にも目立った。いつも資料展に人を集めるには、絶好の目印、広告塔になってくれた。

 記念すべき第一回の資料展は、営業運転が始まったばかりの泊原発の地元、岩内町の小さな公民館だった。その前にキャラバンのスタートのセレモニーは、泊原発のゲート前で執り行った。うららかな眩しいくらいの春の日差しの下で、トラックのスタッフの3人は、向けられたマイクに向かって、これから始める脱原発キャラバンに対する抱負を訥々と語った。
 4月2日、岩内町、泊原発前を皮切りに、4月8〜10日には核燃料サイクル基地建設に反対の声が高まる青森県六ケ所村に行き、そこから日本海側を一気に下り、原発建設の是非を争点とする市長選が繰り広げられている能登半島珠洲市に足を延ばし、反対派候補の助っ人として港や道端で抜き打ちで資料展を行ったりした。
 そこから宮城・仙台へ赴き、地元の主婦グループの人たちのイベントで資料展をやった。23日には、全国での「原発止めよう大行動」の一環である東京・多摩川の六郷緑地公園での集会に参加した。これが「脱原発移動資料館」の東京デビューだった。初お目見えということもあって、展示には千客万来で、本やグッズの売れ行きも上々だった。
 幸先のいい手応えを得た我々は、それから5月中旬にかけて東京都内、埼玉、静岡、神奈川県の10カ所ほどで、もっと少人数の一人一人の顔が見える集まりで、親密な交流会を持った。

 珠洲市では、有機農業を営みながら反原発を掲げて市長選に立候補した29歳の若者が、ひょっとしたら当選するんじゃないか、と思うほど、普通の市民が熱く盛り上がる様を目撃した。東松山市の「丸木美術館」では、まだ健在だった丸木位里、俊夫妻に対面して朝食のお相伴に預かった。
「原爆と原発は一字違い。爆発すれば被害は同じ」と、電気代のうち原発分の料金不払いで抵抗の意思を示している夫妻の意気に、あらためて励まされた。

 NO NUKES CARAVANは、6月から7月初めにかけて道内各地を回り、再び本州に入り、横浜、仙台、女川、東京・世田谷と続いた。7月22〜24日は仙台で女川原発増設に抗議する「おだズなよ! 原発増設・かざぐるま行進in仙台」に参加し、公園で資料展も行った。「エルパーク仙台」で小出裕章氏の講演を聞き、夜には交流会で同じ宿に泊まり、一期一会の縁を得た。当時の小出氏はまだ40歳そこそこで、颯爽とした青年科学者という趣だった。今は髪もすっかり白くなってしまったが、その雰囲気は全く変わっていない。

 8月には私が参加した最後のツアーとなった広島の平和集会に参加。その後、四国、長野…と、その年いっぱい続いていくのだが、メンバーの一人が常々そのジレンマを口にしていたように、結局どこへ行っても反対派関連のイベントや人脈の枠内でしか動けず、本来アプローチしたかった人たちとの出会いやコミュニケーションは、なかなか築けないままスケジュールが過ぎていったというのが実際のところだった。それが未完の課題であり、大きな反省点でもある。

 我々を呼んでくれたのが生協や団地自治会が主流とあって、自然と主婦層とも多く対話を持った。彼女たちは毎日炊事洗濯する生活者の視点から脱・反原発に取り組み、家庭の電気アンペアを切り下げたり、「原発」を含めた暮らし全般の改革に迷い悩みながら、挑んでいた。脱・反原発運動の一方で、「原発建設を本当に止める手だてはあるのか」というあせり、無力感も主婦層に見え出していた。しかし、誰もが一旦、この問題に目覚めて
しまった以上、運動は息絶えることはないだろうと思った。
 脱・反原発運動は“ファッション”となじられても、そう、生活のファションなの、この暮らしを選択するのという長期戦だ。一般の人々のそういう流れが広まれば、原発は自然と止まっていく。CARAVANの最中は、まだそんな確信と楽観があった。

 翌90年もNO NUKES CARAVANの資料展は本州各地で断続的に行われたが、その年いっぱいでトラックの乗り手―スタッフが2人とも降りて、後を継ぐ乗り手が見つからず、事実上、「脱原発移動資料館」の活動は、一応終了した。
 丸2年近い活動期間の間、結局、日本中どこの原発も止まることはなかった。我々の活動くらいで原発の一つも止まるわけはないが、それが未だ実現しないまま、「脱原発移動資料館」がなくなってしまうのは、もったいなくも残念な思いが残った。
 モノはあってもトラックのドライバーとして、「脱原発移動資料館」の旅―行脚を引き継ぐ者が出てこなかったことが、この時点でNO NUKES CARAVANが終わらざるをえなかった最大の要因だった。

 移動資料館という発想、方法そのものがアナログ時代ならではのものだった。やってることからして、まるで旅の一座だ。トラックに資料を積んで見せて廻るより、今ではネット上でそれ以上の分量の情報をいくらでも伝え、また得ることができる。情報伝達という面でいったら非効率極まりない。しかし、「脱原発移動資料館」は当時でも単に情報伝達だけが目的でも仕事でもなかった。情報伝達は手段であって、各地で出会う生の様々な人々との語り合いをつなぎ、脱原発の意識を広げていくこと。及ばずながらそんな役割の一端を担えたら光栄だと思った。
 時に夜通しトラックを走らせ、荷台のベッドで眠り、キャンプ用具で自炊する文字通りの旅の生活は、私にとってはちっとも苦ではなかった。以前は同じことをヒッチハイクで、オートバイ・ツーリングでやっていた。今回は同じく旅する仲間がいる。北海道から本州へ渡ったのも9年ぶりのことだった。
 旅の空間こそ自分が在るべき場所という思いがある。またここに帰ってきたという実感が、その時あった。

 まるで旅する劇団のように、北から南へ、西から東へと今日も走り回るNO NUKES CARAVANの白いボディーのトラック。どんなところでも、どんな小さな集まりでも、ガソリン代さえ負担してくれれば、電話一本で馳せ参じる。
 その荷台の屋根にはティピーの支柱に使う8メートルの長さのナラ材が十数本、ロープで縛束して積んである。街中でも国道でも、この姿は俄然目立った。
 屋根に槍のような材木を積んだトラックの姿は、まるで原発という巨大な存在に立ち向かおうとするドンキホーテのようにも見えた。一時、日本列島を走り回ったそれは、当時の脱原発ムーヴメントが偶然生んだ徒花だったのかもしれない―。

危機管理の未来と代替エネルギー

 現在直面している問題で最も深刻なものは、福島原発の事故収束と、被曝する人々の対策、それと共に現在も稼働している他の原発の問題だろう。東海地震を前にした浜岡原発の停止が、5月6日になって「東海地震の対策完了まで」という条件付きながら、菅首相の要請という形で実現に向けて進み始めた。
 しかし、福島原発の事故のさ中にも、原発を止めなければならないと意思表示した政治家が非常に少ないことを考えると、これから全原発の本格停止までには多くの障壁や困難が待ち受けるだろう。5月4日付の新聞は、「自民 原発推進派はや始動『原子力守る』政策会議発足」と報じている。共産党、社民党が脱原発路線をとっているものの、他の党が従来の原発推進路線を変更したということを未だ聞かない。原子力産業が日本の政治に
根付いた深さを改めて思う。
 原発の敷地内で使用済み核燃料を保存できる残りの年数は、すでにほとんどの原発で10年を切っており、平均するとわずか8年しかない。どこかに「核のゴミ」を捨てる新しい場所を見つけないと、日本の原発は次々に運転をストップしなければならない時代に追い詰められている。

 (1) 原発でウランを燃やして発電をする。すると、高レベル放射性廃棄物とプルトニウム
  を含んだ使用済み核燃料が発生する。
 (2) これを六ケ所村に運んで再処理してプルトニウムを取り出し、核燃料サイクルを実現
  する計画だった。しかし、六ケ所再処理工場は未だに試運転中で破綻し、高レベル核
  廃液のガラス固化体化も技術的に行き詰まり、貯蔵プールも満杯になってしまった。
 (3) 六ケ所村に代わる最終処分地は、このような危険なものを受け入れる場所が日本のど
  こにもなく、行き場がないので、結局は処分できない。こうして再処理計画は行き詰
  まった。
 (4) 全国の原発では、毎日発生する使用済み核燃料の保管場所が、あと数年でなくなる。
  保管場所がなくなれば、原発の運転を止めなければならない。

 福島第1原発は、最後にはどうなるのか。いずれにしろ、原子炉からメルトダウンした核燃料の塊を、日本のどこかで最終処分しなければならない。その時、日本の原子力政策のデッドエンドが露わになり、最後の始末は、今回の事故処理の上にさらに重くのしかかってくることになる。

「原発をなくすと電力が不足する」というのが電力会社と推進側の主張だ。しかし、日本全体で見ると、1960年代から最近まで、真夏のピーク時の最大電力が火力と水力の発電能力を超えたことはないというデータもある。現在も原発は54基あったうち、福島も含め、廃炉や定検後の停止、浜岡のように一時停止といった原発が相次ぎ、事実上17基しか稼働していないが、原発が全く稼働しなくなっても、実は火力と水力で十分まかなえるとも言われている。また、風力や太陽光といった自然エネルギーよりも、現実的には従来の火力発電を天然ガスを用いる新火力発電(ガスコンバインドサイクル発電)に変換するだけで、エネルギー問題は解決できると広瀬隆氏は言う。つまり、エネルギーの熱効率を2倍にするシステムだ。またバックアップとしては、企業や民間の工場など民間の自家発電を活用すべきだ。
 将来に制度を改革すれば、潜在的参入規模は最大5200万kwに達する見込みとなっている。電力自由化と送電事業の分離がなされれば、これが可能だ。
 さらに最近の代替エネルギー論議でも全く取り上げられないのが不思議だが、水素と酸素の電気化学的反応によって発電する燃料電池の開発と実用化も進んでおり、これは自然エネルギーよりも実用面での利用価値が高い。

 発電方法で環境に負荷が少なく、実現可能なものは、現時点でもいくらでもある。日本の技術力をもってすれば、実用化とその普及も難しい話ではない。経済的・社会的リスクからいっても、エネルギー源を原発に固執しなければならない理由は全くない。福島原発事故は、多くの人に大変な被害をもたらし、大地と海に甚大な放射能汚染をもたらしたが、同時に巨大な変化を導く可能性も秘めている。それは変化なしには、もはや生存は保たれないと認識した人々が増えたからであろう―。


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