原発止めて 未来をつくろう(その1)

 

原発停止のためのコンセンサス

 今回、福島原発で取り返しのつかないほどの事故と放射能汚染を体験して、初めて脱原発を真剣に考える人が増えたというのは、いささか悲しいことだが、結局、誰もが自らの肉体―生命と依って立つ生活基盤を脅かされることを体験しないと、実感として原子力の危険性と恐ろしさというものが分からないのだろうか。原発というものは、その立地から、被曝労働者の存在から、大量の放射性廃棄物を生産すること、それの処分、管理の困難さと、知れば知るほどありえない産業だということが分かる。
 原発に反対するのはイデオロギーの問題ではなく、科学的、社会的事実を基にした判断である。原発というものは技術的にも社会的にも、経済的にもあまりに無理があり、リスクが高すぎる。たかが総発電量の3割を担うためだけに、それだけのリスクを社会や国民が負うのは、どう考えても割りが合わないのだ。

 未だにあちこちで持ち出される「CO2 を出さない原発は地球温暖化防止の切り札」という話も子ども騙し以下だ。ウラン燃料の採掘から加工、運搬、原発の運転、核廃棄物の再処理、管理…と全ての行程でCO2 を出す大量の石油の使用なくしてそれは成り立たず、さらに原発はその排熱を温排水として大量に海に捨てて、海を温めている。こんなもののどこが「地球温暖化防止の切り札」なのか。

 脱原発を表明した孫正義氏のように、賢明な企業家や政治家、専門家なら、原発というものの内実と様々な事実をはっきりと認識すれば、これは厄介でヤバイものだということは誰にでも分かる。それでも、それが社会の常識となっていないのは、これまで国策と称して原発を運転する電力会社と国―経産省、政治家、専門家、さらにマスコミが金で繋がり、利益を共有する共同体を維持してきたからである。福島で原発の大事故が起きるその時まで、もうずいぶん長いことテレビや新聞では、原発の問題などまともに取り上げられたことなどなかった。マスコミは今になってやっと解禁されたかのように原発に関する様々な問題を報道し始めている。

 これまで電力会社は、他の部門の電力業界参入をかたくなに拒んできた。政府も原発推進に注ぎ込んだ金額と比べると、新エネルギー開発に対してはほとんど積極的な援助をしてこなかった。今、こうした日本の構造そのものが問われている。

1988 泊を止めよ

 今から23年前の1988年。先に起きた旧ソ連のチェルノブイリ事故と、その甚大な放射能汚染を目の当たりにして、日本中にある原発の危険性にあらためて気づいた人々は、運転停止や新規建設に反対する声を上げ、新しい層―主婦や若者を中心として、ニューウェーブと呼ばれる新たな反原発運動が広まっていった。今まで原発や市民運動のことも知らなかったような人たちが動き始め、運動の輪が大きく広がった。
 その後、運動は拡散して勢いを弱め、結局、一つの原発も止められずに現在まで来た。
 何故止められなかったのか、相手にすべきは誰なのか、どこが問題だったのか。私自身、やむにやまれぬような気持ちで飛び込んでいった88年の反原発ムーヴメントの現場と、その過程を振り返ってみることで、あらためてそのことを考えてみたい―。

 1986年のチェルノブイリ事故は、私にとっても一つの転回点となるほどの衝撃だった。その第一報は4月29日の早朝に届いた朝刊各紙の一面見出しだった。墨黒々と大文字で「ソ連で原発事故 炉心溶融」「二千人死亡か」「北欧で放射能検出」―と、とんでもないことが載っている。それを目にしていっぺんに目が覚め、寒けのようなものを感じた。直感で、これまでありえなかった何かとてつもないようなことが起きたと思った。その日からどこか世界が変わってしまったように感じられた。
 折しもハレー彗星が地球に最接近したのが、その4月。チェルノブイリという地名はウクライナ語で「苦よもぎ」を意味し、苦よもぎという星が落ちるという記述が『聖書』の黙示録にあると言われた。

 日本はチェルノブイリから8000キロも離れているが、チェルノブイリから放出された大量の放射能雲が時間と共に全地球規模で拡散していった様が明らかになり、日本でもチェルノブイリからの放射性物質―ヨウ素やセシウムが検出された。
 一旦、原発事故が起きれば、その被害や汚染は国境も距離も関係なくなるということをあらためて知らされた。これが足元の日本国内だったらどうなるか。日本の原発でもチェルノブイリのような苛酷事故が起きないとは限らないのではないか。チェルノブイリ事故を目の当たりにし、原子力というものの根本的な危険性を感じ取った多くの人たちの誰しもが抱くようになった危機感だった。

 88年に入り、北海道では、既に完成し、10月に試運転が予定されている積丹半島西岸にある泊原発の試運転に待ったをかけ、一時凍結を求める反対運動が全道レベルで始まっていた。前年には幌延で、高レベル核廃棄物処分場のための国―動燃による抜き打ち調査が行われ、現地での抗議のデモは機動隊によって逮捕者が出るほど厳しく規制された。地元紙も怒りの社説を載せるほどで、反原発の気運は労働者から主婦に至るまで、広い層で高まっていた。

 私自身、様々な情報源からチェルノブイリの実情を知ると共に、その原発というものが、この北海道の大地、自分が住んでいる場所から70kmというごく身近なところで、近いうちに運転を始めることにたとえようのない危機感を覚えた。何とかできないのかと。
 その年の春頃から、居ても立ってもいられなくなった私は、誰に誘われたわけでもなく、自転車で20分くらいで行ける大通公園や日曜日の歩行者天国に立って、そこで行われていた有志の市民による泊原発の運転停止を求める署名集めに参加するようになった。署名用紙はコピーしてどんどん広めてほしいというメッセージが載っていた。自分でも署名は思いつく限りの人たちに依頼し、宣伝した。署名だけでは飽き足らず、自作のビラを作って、署名してくれた人に手渡したり、往来する人たちにもバラまいた。
 それまでこういう市民運動のようなものに参加したり、何かに関して街頭で署名を集めようなんてことは考えたこともなかった。誰かに誘われても、俺の柄じゃないと断っていただろう。ただ、今回はそんなことに躊躇していられないと思った。たとえ柄じゃなくても、何もしないでいるより、今できることは何でもやってみようと。

 連日のようにあちこちで行われた集会、街頭デモ、講演会、北海道電力や道庁への請願、抗議行動―。反対署名集めの拠点となった狸小路にある有機八百屋の2階のスペース。そこで私は「原発止めたい」ということで一つの共通する意識を持った多くのユニークな人々に出会った。その時点では、地元北海道で初めての原発試運転が切迫していたとはいえ、日本中どこの原発も未だ大規模な放射能漏れのような大事故は起こしていなかった。
それでも、人々の今こそ原発を止めなければという思いの強さと行動の広まりは、それまでの市民運動では見られたことがないほどのものだった。
 札幌の中心街にある北海道電力の社屋の前では、春から秋の数カ月間に渡って連日のように抗議行動やデモが続いた。
 7月21日、泊原発に輸送船で核燃料が搬入された。泊現地の海岸は搬入に抗議する市民グループの人波で埋まり、ゲート前で機動隊にガードされた電力社員に対して、参加した若者や主婦から「原発を動かすのは止めてください」「チェルノブイリを知らないのかい!」と、直接の語りかけがなされた。
 札幌市内の北電本社前は、抗議の市民、労組員らで埋まり、「泊に核の火を入れるなー!」とシュプレヒコールが響きわたった。

 翌月の8月21日には「原発トマリ記念日」と称して、全国から集結した反対派市民らが北電前で「泊止まれば皆止まる」「原発なくてもええじゃないか」を合言葉に、歌と踊りで抗議するお祭りパフォーマンスを繰り広げた。あたりは野次馬も含めて数千人近い群衆で埋まり、最も盛り上がった時には「ゲーンパーツとめて いのちがだいじ」と、一つになった皆の大合唱がビル街の谷間に響きわたった。
 原発が一時でも止まるという奇跡が起きるかもしれないと思えたのは、その時までだった。祝祭のような高揚した気分は、翌日の機動隊による集会への強制排除、恣意的な「公務執行妨害」適用による有無を言わさぬ逮捕―という容赦のない現実を突きつけられることによって、横っ面を張られるように一気に冷めた。
 ここでは一度に7名が逮捕された。先の核燃料搬入時にも7名が逮捕。この年、泊反対運動関連で総計21名が逮捕された。そのほとんどはすぐに釈放され、不起訴となったが、中には不当に長期拘留を強いられた例もあった。
 それだけ人々の動きが激烈だったとも言えるが、後にも先にも、北海道で市民運動の現場でこんなに逮捕者が出た例はない。またそれは、権力というものは原子力というものをなりふり構わずに守ろうとしていることを思い知らされる過程でもあった。

 道と北電、国(通産省)に提出する泊原発の停止を求める署名運動と共に、道内では原発試運転の是非を問う「道民投票条例」の制定を求める百万人署名の運動が、この年の4月から急遽進められていた。こうしてできることは全て試して、目前に迫っている新規原発の運転を何としても止めさせ、せめて一時凍結に持ち込もうと、政治家から一般市民まで巻き込んで、その年になって怒濤のように展開された泊原発反対運動だったが、既に決定されていたことを変えさせるほどの実効力には至らず、試運転開始のプログラムは着々と進んでいった。

 そして10月17日。その日、核燃料が装填された泊原発1号機が臨界反応を開始し、核の火が入った。晩秋の寒空の下、その日も原発のゲート前は抗議する人々で埋まり、裏山の敷地境界では、フェンスを越えて2人の若者が原発敷地内に入り、花の苗を植えるという“非暴力直接行動”によって、あえて無抵抗で逮捕された。それは事前にトレーニングを行って周到に計画された行動だった。たとえ現実にはここで原発を止めることはできなくても、自分たちはそれを許すことはできないという意思を、形にして示したいという試みだった。当日、現地で配られたビラには、敷地に入った2人のメッセージが載っていた。

「私はこのたび、泊原子力発電所の敷地内に入っていきます。そして中に木を植え、種を蒔いてくるつもりです。命を奪うもの―原発に抗議する意味を込めて。
 これ以上放射能によって人が殺されないように、地球がこれ以上汚されないように。
 これは違法なので逮捕されるかもわかりません。しかし、その心積もりをした上でなら、私たちには〈良心に従って法に従わない〉権利があります。私は微力なので、せめてこうすることで気持ちを表そうと考えました。この行動が泊原発を止め、全ての原発を止めることにつながっていくよう心から願っています。そしてこの行動は私自身のためであり、あなたへのメッセージでもあるのです」
 非暴力、無抵抗とはいえ、こういう直接行動を原発敷地内でやったら、今だったら完全にテロリスト扱いで、花の苗を植える間もなく即刻、逮捕されてしまうだろう。その後も、原子力施設に対して、こういった直接行動を行ったという例は聞いたことがない。

 結局、反対運動の大波によっても“国策”のプログラムは変えられることなく、予定通りに泊原発は運転を開始してしまった。「道民投票条例」のための署名はゆうに百万人を突破し、道議会に提出されたが、結局、否決された。一旦、そうなってしまうと、その時までの「泊を止めよ!」という市民レベルの反対運動は、それまでの盛り上がりや熱気が波が引くように鎮まっていった。
 その後は、電力需要の一翼を担うようになった泊原発は現在に至るまで運転を続け、その後、2号機、3号機と原子炉が増設されている。その間、大きな事故はなかったこともあって、そこから70km離れた札幌市民、いや、道民全体は、つい今しがたまでそこにそれがあることも忘れがちでここまで来てしまった。


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