スマホバカ天国、日本

       

 映画監督の井筒和幸氏が、『日刊ゲンダイ』の連載コラムで、“バカが束になって人を殺す”と題して以下の文を書いていた。
―「昼下がり、東京駅までJR中央線の電車に乗ったら愕然とさせられた。車内、見渡す限りの乗客たちがスマホを睨んでいじっていた。目の前の若いOLもスマホを一心不乱に睨みこんでいる。覗くと、よく分からないゲームに女は夢中だった。その隣の四十男は金メダルでも取れそうな指さばきで、LINEに必死に格闘している。
 そんなに急いで何か知らせなければならない相手なのか。新聞や本を広げる人はいない。全員がスマホをいじっている。日本中がスマホに捕らわれている。そんなに四六時中、周りを気にしていないと、置いてきぼりにされるのか? 車窓から変わりゆく街の風景を眺める余裕のある人は誰もいなかった。そんな無言の電車から降りたくなった。一人で沈思黙考しながら生きているだけで、一人浮いているように思われ、それだけでイジメられるのが現代だ。

 他紙で知ったのだが、許しがたい中学生のイジメ問題が取り上げられていて、可哀相だった。青森県の13歳の女の子が、入学するなり、グループで交わすLINEメッセージに〈クラスから早くいなくなれ。みんな腐る前に〉とか、〈退会しろ〉〈死んでほしいよ〉〈キモい〉〈死ね!〉と同級生たちに書かれて、体調を崩し、自分のあらゆる行動、言動を監視されているような書き込みにイジメられ、自殺してしまったというのだ。そんなクソな中学生どもが集まっている学校があるのだ。(中略)
 スマホという玩具をバカ中学生が持ってはならないという法律はない。だから、こんなイジメが横行している。バカ中学生は、相手に面と向かって言えないことを伝える手段は、SNSしか知らないまま生きてきた。自分の直筆と言葉でハガキやラブレターを綴って〈思い〉や〈考え〉を伝える技量や発想は元からない。親や教師から手紙の書き方を教えられたことがない。誰か気に入らない奴を見つけたら、すぐ書き込みだ。バカが束になって人を殺してしまう。
 イジメられている子たちに教えよう。どう書かれようとLINEなど金輪際見ないことだ―」

 ネットの世界で、SNSだのLINEだのを普及させ、中学生、小学生までスマホを持つのが常識とさせたのは誰か? 政府、メディア、IT企業の戦略、それとも自治体や学校か? それが社会の進歩、時代の必然として共同して押し進めた、社会の全てである。
 スマホ以前、ケータイが普及してきた頃にあった中学生以下の子供らにケータイやスマホを持たせることの是非や、その電磁波の弊害の問題も、今のメディアでは全く顧みられない。
 井筒氏が電車の中で見た光景のように、乗客の全員がスマホに見入っているという有様は、何か不気味で異様だ。車窓から街の風景を眺める人も誰もいない。それどころか、自分の今いる場所にも注意を払っていないということだ。それより何より手に持ったスマホの小さな画面に意識が集中している。こうして今いる現実世界―リアルワールドに注意を払うことなく、スマホのバーチャルワールドに浸っている。自分の肉体が存在する現実世界で、突発的な異変が起きても、元よりそこに意識の焦点がないから、とっさに対応できず、パニックに陥ることは必至だ。そんな状況になっても、人々は唯一頼るべきものとしてスマホからの情報を求めようとするだろうが、その時はスマホの機能がシャットダウン、ブラックアウトとなることだってあり得る。そうなったら、スマホがなければ何もできない現代ニッポン人はお手上げだ。

 21世紀に入って以来、ケータイ、スマホは、政府の後押しもあって、ほとんど無規制のまま大量に販売、普及が進められてきた。今や、老人から子供までスマホを持たない、使わない人間は、よほどの変わり者と見られる世の中だ。このまま行けば、子供から介護施設に入っている老人まで、スマホを使わなければ社会で暮らしていけない、買い物もできない世の中が到来するだろう。それはキャッシュレス社会への移行と連動している。大げさな杞憂だと思うだろうか? そろそろガラケーも無くなりそうだ。通話以外の機能を求めない私には、スマホはいらないが、それしか使えなくなるというのは困ったものである。

 このように爆発的に情報端末が普及しても、それに比例して知的レベルが上がったかというと、けっしてそうではなく、真逆に下がっている。人々は、紙の本や雑誌、新聞をあまり読まなくなった。
 直筆で紙に言葉や文章を書くことをしなくなった。
 どれほど有意な情報に触れても、それを意味化する認知的枠組みを持たないと、頭の中で他の知識と結び付けて結晶化できない。
 すなわち、情報がどんどん揮発して意識に何も残らないのだ。
 これだけスマホが普及して、ちょっと検索すれば、何が起こっているのか、リアルタイムで知ることができる。しかし、それが何を意味するのか、そしてどうなるのか、という思考の射程が広がらない。どんな重大な事実を突きつけられても、口をポカンと開けて、その意味化や観念化ができない。これは認知的枠組みとなる基本的教養を持たないことにもよるが、基本的にネットで得られるのは、その画面のように揮発する「情報」であって、その言葉や文章が、長期記憶となり、意識に新たな体系を作る「知識」ではない。だから、スマホを見れば見るほど知性が劣化し、家畜化が進行する。言い換えると、これは「馴化」であって、要はそういうふうに仕向けられているのだ。何が起きているのか、なぜそうなったのかという長時間の思考ができない。なぜ、できないか。思考するための言葉を持たないから、失ってしまっているからだ。これは人間として致命的な欠落だ。LINEやSNSに見られる若者の語彙の貧しさ、荒廃ぶりは惨憺たるものになっている。『聖書』の「創世記」にも「初めに言(ことば)があった」とあるように、言葉だけが意識を拡大、深化させるのである。

 若者は、ほぼ一人残らず、スマホを自分の分身のように握りしめている。それがないと生きていけないように。誰もスマホを通して浴びるデジタル電磁波の弊害など存在しないかのようにそれを使用しているが、それは目に見えなくても常にそこに存在するのだ。
 電車の中や繁華街は、スマホの電磁波の洪水だ。スマホという情報通信ツールは、使い方によっては強力なドラッグになり得る。スマホ依存、スマホ中毒という症状は、ドラッグ中毒とよく似ている。
 スマホの使い過ぎは、同時にデジタル電磁波の大量被曝を意味している。朝、起きてから寝るまで、スマホを見ていればどうなるか。
 脳は情報を受け取り、反応するだけで、思考しなくなる。考えても論理的、即物的に考えるだけで、右脳―精神的な部分、感情を生み出す部分は眠ったままで、それを使わないでいるうちに固くなり、機能しなくなる。これは人間を現実世界から乖離させ、無思考、馴化に導くために普及が進められた電子ドラッグというべきものではないかと私は疑っている。誰かが明確にそう意図したわけではなくても、今起きていることは、結果としてそうなっているのだ。

 現代人の多くは右脳がブロックし、眠っている。スマホの使い過ぎが、それをさらに助長している。それは時の流れの中で、頭の病気やスピリチュアルな問題を引き起こすことになる。右脳は無条件の愛、人への愛、物事への愛、純粋な感情に繋がるものだ。どうしてスピリチュアルな問題につながるのか? 右脳が活動を弱めれば、そこに邪霊的なものがやってくる。憑依物、憑依霊だ。右脳を活用しなければ、そのエネルギーは弱まり、霊的性質が失われ、自分を守る力が弱まるからである。さらに言おう。そのため、今の若者と先祖の霊的繋がりが無くなりつつある。先祖は元より、自分の家族、母親や父親とも共振しなくなり、興味が無くなる時が来ている。
 メンタルがテクノロジーに依存し、家族から離れていくからだ。
 全てを当たり前に感じ、感謝も愛も無くなるだろう。そうなれば、どんな社会になるか。それでは人は、地球に存在する感情のない最悪のロボットと化していくだろう。

 日本でも世界でも、どうして多くの人々がスピリチュアリティから遠ざかってしまったのか。ここにスマホという数十グラムの電子機器がある。これがあらゆる情報を与えてくれる。これで十分に満足しているのに、なんでわざわざ努力、苦労してスピリチュアリティを求めなくてはならないのかと誰もが思うだろう。しかしこれは偽りのものだ。自分のエネルギーを高めるためには、スマホを置いて、自分でエネルギーを高めるために努力しなければならないのだ。
 近道はない。スマホを見ても答えはない。
 スピリチュアルといえば、オタク的、現実逃避的な趣味のようにとらえられているが、本当は違う。それは霊性の学びと言ってもいいが、人間―自分が今、意識を持って宇宙に存在していることを一生かけて学び、瞑想することである。宗教の信者であってもなくても関係ない。人はそのために生まれてきたのだ―。





 

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