「令和」という洗脳

 4月30日から5月1日にかけて、この国は世界の中で唯一、新時代が来るのだと称する異様なフィーバーに包まれた。政府の面々は得意顔で浮足立ち、メディアは日付が変わるその時に向けてカウントダウンまでして気分を煽り、NHKをはじめテレピ全局が一日中「平成から令和へ」の報道、特番一色でお祭り騒ぎ。何かといえばアッという間に一色に染まるメディアや世情を、あらためて目の当たりにしている。日本人はすっかり忘れているかもしれないが、日本から—歩外に出れば、平成も令和もない。同じ2019年の4月30日から5月1日になるだけだ。そもそも元号とは、主権者である国民の意思や意見とは関係なく、天皇の代替わりに際して国(政府)が勝手に決めて宣布するもので、それに国民が従って、有り難がるという筋合いはない。

 この度の政府、メディア挙げての新天皇即位に合わせた「令和」時代の幕開けというプロパガンダに強烈な違和感を覚える。何なのだろう、この猫も杓子も、上から下まで「令和」の到来を言祝ぐ熱に浮かされたような空疎な大騒ぎは。はっきりと言おう。みんなイカれている。完全にどうかしている。まんまと権E力の洗脳にハマっている。まるで平成の時代の政治や社会の不祥事や問題は、これで全て水に流してチャラになり、リセットされてしまうかのような気分がバラまかれている。メディアの報道は、元号や天皇制への疑問はゼロで、天皇を露骨に政治利用している現政権への批判もゼロだ。
 「平成」から「令和」へ看板を換えただけ。実は中身は何も変わっていない。安倍政権お得意の偽装、改ざんという手法だ。こんなもので、あたかも新しい時代が来るかのような幻想を持ってはいけない。

 時代は国民が切り開くもので、政府が勝手に作るものではない。
 改元、東京五輪、新紙幣という国が繰り出す政治ショーにメディアが全面協力、日本中が右へ倣えで一億総狂騒という気味悪さだ。
 この国は、いつまでこんな偽装と浮かれた祭りを続けているのか、先行きが恐ろしい。  ’
 天皇退位、新天皇即位に際し、メディアの報道は当然ながら礼賛一色。天皇個人の功績、人柄を超えて、天皇制の問題にはけっして触れない。そして○○様が連発される。多くの人は、こういう報道を見ていて、違和感も異様だとも感じていないのだろうか。
 新年の一般参賀に15万人。多くの国民にとって天皇とは、政治的権力を超えた宗教的存在、権威となっている。
 上皇となった明仁天皇、美智子皇后が高潔な人物で、「いい人」であることは認めるが、だからこそ逆に天皇崇拝に結びつきやすく、危険であるとも言える。敬愛の対象は、そのまま崇拝の対象になりやすいからだ。現に被災地訪問などで直に天皇・皇后に接した人たちはそうなっている。今回の代替わりに際しても、被災地の人々や一般の「街の声」を聞くと、天皇とは、やはり現人神的な「普通の人間とは違った尊い存在」として見ている人たちが多いようだ。
 なぜ天皇は偉いのか、メディアは気持ち悪いほどに皇族の人たちを「様」付けで呼ぶのか、自分たちはなぜ天皇は尊い存在だと思うのか、一度も深く考えたことのない人たちが、「いい人」である明仁天皇、美智子皇后を素朴に敬愛、崇拝し、それがまた天皇制の維持に大きな力を与えている。

 我々日本人とは、慈父、慈母である天皇・皇后両陛下に絶えず見守られ、励まされ、時に慰めてもらわなければ立ち行かない、心の指針を失ってしまう。日本人とはそんな文字通り天皇の赤子のような民族なのだろうか。世界中どこの国でも、大災害が起きても、天皇のように被災した国民を慰撫して回る王様や政治家もいない。それでも誰もが頑張って生き抜いている。日本人だけは天皇がいないとやっていけないのか。私に言わせれば、多くの日本人は天皇を尊敬しているというより、天皇に依存し、甘えているのだ。
 全てに対してとことん追及しない思考停止、あるいは怠慢の根本に、この国に空気としてある天皇制があるのではないかと私は疑っている。天皇制を批判できない社会は、何事に対しても批判しきれないということになるからだ。

 天皇の代替わりを見事に政治利用した安倍劇場。演出され、固められる「国民の総意」。明るく旗を振り、教育勅語の世界へ。この国は国策が行き詰まると天皇・皇后がお出ましになる。戦争も公害も原発事故も、天皇に慰められることで、美しい物語に「浄化」され、国の責任を問う声は恩赦で赦されて、終わったことにされる。
 巷では、安倍政権より天皇・皇后の方が平和憲法を大切にしているという声をよく聞く。それは現政権があまりに酷すぎるだけの話であって、安倍政権より天皇の方がいいという先に、自民党が掲げる天皇「元首」化への道を開くことにならないか。

 問題は権力(政府)の後ろに必ず権威(天皇)がくっついているということだ。天皇の存在がこれだけ浸透し、その言葉が正しいと信じていれば、むしろ安倍政権を倒せという話になりそうだが、そうはなっていない。権力を追い詰めると、権威に傷がつくことになるからだ。日本人には天皇制が骨の髄まで染みついており、天皇は間違わないという信仰があるのだ。この点で天皇制は実に優れた支配装置だ。権力と権威を引き離さないといけないが、今、怖いのは、権力が権威を持つことだ。「反日」という言葉が、天皇制ではなく、安倍政権に反対する人、権力に批判的な人に使われるようになって
いる。天皇制に反対する人を「反日」と呼ぶのも問題だが、より深刻なのは、権力が権威になってしまっていることだ。安倍政権ごときの権力だけでは、天皇という権威がなければ、付託は通用しない。
 地域のコミュニティが崩壊し、自由になったと同時に孤独になった人間は、「国」という実体としては存在しない「想像の共同体」に自らを投影してしまう。「日本人がそんなことをするはずがない」と言って、過去の戦争犯罪を否定する人々も、他によりどころがないからこそ、国家や天皇に無理に同感を作り出し、同感できない者を排除することによって自己の存在を安定させている。私たちは、天皇や皇族には基本的人権(たとえば表現の自由、信仰の自由、職業選択の自由、居住・移動の自由、婚姻の自由)がないということを、つい忘れているのではないか。生前退位の意思表示は天皇個人の人権に関する重大な問題提起だった。私たちは天皇の気持ちに理解を示しつつも、「象徴」を失うことを恐れた。そして「美しい国」を存続させるために、また別の子(天皇の長男)を簾に閉じ込めることにしたのである?。





 

表紙にもどる