トランスヒューマン(AI超人)出現 (その3)


         

肉体を持った人間よりもAIの思考を優先する社会が来る

 

 イーロン・マスクは今、“ニューラル・レース”というものの開発、生産に取り組んでいるようだ。これは脳全体を覆うメッシュ状の物質で、AIとのインターフェイスとして機能するものだ。ただ、すぐに実用化されるものではなく、これから数世代後のAIとの連動を目指している段階だ。
 ニューラル・レースは、別の装置から発信された信号を受信し、それを変換して脳に伝える。ただし、媒体となるのは神経細胞ではない。いってみれば、脳全体をデジタル化する技術である。これが何を意味するか。ただ思うだけでテクスティング―文章を書き、デジタルな方法で送信する―ができるのだ。現時点でナノテクノロジー分野にも転用され、つなぎ目が全くない形で脳とつなげることができる極微細繊維の実験が、マウスを対象として開始されている。

 こうして受ける側の体の中でハード環境を整え、外付けハード的な装置であるHMDを組み合わせれば、AIの思考や意思は遍在のものとなり、ごく当たり前の社会的常識として受け入れられる。こうして“グローバル・マインド”を媒体とした意識の共有が完成する。個々の人間よりもAIの思考や判断が優先する社会が生まれるわけだが、個々の人間には何かを強いられている感覚は全くない。先述のゾルタン・イシュトヴァンが言うように、変化のペースが一見緩やかに見えるため、実際、大きな変化が起きても分からない。

 こうして人類は、賢明なるAIに導かれ、治められ、トランスヒューマニズムの発展によって、一部の人間は神のようなインテリジェンスと能力、永遠の命さえ得るようになるのだろうか。

 ここまでトランスヒューマニズムの思想や、AIや機械との融合、科学とテクノロジーによる人間の改造…といった状況を紹介してきて、どうしても拭えない違和感と共に、どこかで見たような、聞いたことがあるような既視感を持った。思い出したのは、科学テクノロジーとスピリチュアルの融合によって、超能力開発と解脱―人間の進化を謳った、かのオウム真理教だ。前述の“ニューラル・レース”は、麻原彰晃が頭に被っていたメッシュ状の電極ヘッドギアを連想させる。無論、ニューラル・レースの方がテクノロジー的にははるかに高度なものだが、根本の思想はさほど変わらないと思える。
 かの団体はイカれた教祖に主導されたカルト団体として「最低・最悪」の烙印を押され、一方、今、世界を席巻するAI研究・開発とトランスヒューマニズムには、錚々たる科学者、有識者、研究者、企業家が名を連ね、公のお墨付きを得て、既にそれが未来の社会の絶対的選択肢であるように、「科学テクノロジーによる人間の無限の進化」が進められようとしている。

 我々は、そのようなAIや機械との融合による人間の無限の進化(?)というものを、認め、信じていいものだろうか。仮にそのような“改造”が可能だとしても、間違いなく言えることは、その恩恵、あるいは特権に与れる人間は、一部のエリート、金持ちだけ。
 無用者階級である一般大衆は端から対象にはされていないということだ。

緩やかなペースで進むAIと人類との融合

 パソコンやインターネットが浸透し始めた25年前―1990年代初頭に、それらがここまで日常生活と密着する状態を想像できた一般人は、どれくらいただろうか。おそらくは携帯電話にしても、自分とは関係ないという認識で、横目で見ていた人がほとんどだったはずだ。私もその一人であり、社会生活上、どうしても携帯電話が必要となり、使うようになったのが2006年頃のことだった。
 現在は、ケータイも死語になりつつあり、スマートフォン等のバリアブル端末が普及し、メガネ内蔵型のそれが新しく登場しつつある。ここまで来ると、ゴーグル装着によるVRとほぼ変わらない機能を兼ねていると言っていい。VRとAR、さらに進化したテクノロジーであるQRとグローバル・マインドとの組み合わせによって、世界中の人々が一つの意識を共有する時代が来るかもしれない。総進化主義、総超人化主義は、多様性を認めない一種のファシズムであり、世界規模の支配体制確立へのスローガンとしか思えない。

 HMDを使えば、世界中どこにいてもVRやARを通じてミサや祈祷会に参加することができる。映像処理技術が今より進むことは間違いないので、やがてHMD内の別の実世界で起きていることが、ヴァーチャル・ワールドこそがリアリティであるという感覚が生まれるはずだ。いや、現在においても、既にそうなりつつある。
 さらにはニューラル・レースとの親和性も高いHMDも開発されるだろう。いや、それはもうHMDと形容するのとはふさわしくない機械かもしれない。たとえば、帽子のように頭に被る。額にパッチ状の貼りつける。それだけでニューラル・レースに覆われた脳に直接働きかけるような機能を持ったものだ。人々は、こうしたものを当たり前のことのように生活に取り入れていくようになるのだろうか。

 カリフォルニア州バークレーにある機械知能研究所という組織がある。その前身だったAIシンギュラリティ研究所の所長、人工知能のエキスパート、ルーク・ミュールハウザーは、AIが人間の仕事を奪うことから全てが始まるというシナリオについて語っている。彼が語るのは、人間がAIの生贄になる世界のリアリティだ。
「残念ながら人類が望むような形でシンギュラリティ(技術的特異点)が訪れることはない。シンギュラリティは、実現した時点で知性爆発が起こり、それは人類にとって決してプラスにはならないだろう。いわば“超人AI”が生み出す世界は、人間が望むものではないはずだ」

 トランスヒューマニズムは、総超人化というコンセプトの下に進められているのかもしれないが、その一環として開発が進められている超人AIが結果として生み出すものは、ユートピアではなく、人間が今の姿でいられなくなる、見た目は平和そのもののディストピアなのだ。映画『マトリックス』三部作は、的確にその世界を予言していた。
 HMDあるいはそれより小さな装置を装着し、与えられる情報やゲーム、宗教観から幸福感を得て生きる人類の姿である。

 問題の本質は、こうした世界へ向かう流れを一つの陰謀ととらえ、黒幕が誰かを突き止めることではない気がする。それを究明したところで、この流れを止めることにはつながらない。現時点で心しておくべきことは、我々の意識の姿勢、生き方だろう。ゴーグルの中で展開される仮想の世界を現実として生きるのか。それとも、そういったものにはなるだけ触れないで、むしろ抗って生きていくことを選ぶのか。流れに流されるのは楽だし、流れに抗うことは苦しく、易くはない道だ。そして流れに抗う者は絶対的少数で、それもしばらくすると、そういう少数者もいたことも忘れられてしまうかもしれない。

 重要な情報やテクノロジーは小出しにされる。そして大きな変化へ向かうトレンドの流れは、イシュトヴァンが語るように、あまりにも緩やかなペースで進むこともある。だから、実際の変化に気づく人は圧倒的に少ないかもしれない。テクノロジーの進化によって、人間は今の姿でいられなくなる可能性がある。専門家の間でも、人間が人間でいられなくなる―人間を人間たらしめているものが失われる可能性についての議論が盛んに行われている。具体的には何が変わるのか。それは人間の基本的な概念の一つである幸福感の変容ではないか。トランスヒューマニズムによって、過去の進化のペースを全て否定する形で知能や身体的機能が、飛躍的に向上する。しかし、それと引き換えに、幸福感をはじめとする“人間であること”の要素を全て差し出さなければならない。

 心まで機械に支配されて生きるのか、それとも、機械とつきあっても、可能な限り人間らしい姿をとどめる気持ちを固めるのか。選択の余地はいくつか残されていると思うが、このままいけば世界は、超人AIによる支配・管理と、トランスヒューマニズムによって超人化した一部エリートが支配層として君臨する世界に、気がついたら移行しているかもしれない。その変化は一見、緩やかで目立たないため、ほとんどの人が気づかない。
 そんな未来社会は、どこかのSFでも度々読んだ記憶があるが、事実は小説よりも奇なりで、現実の方が下手なSFを追い越そうとしている―。


 

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