父 に 捧 げ る 詩(う た)

 2016年3月9日。春めいた日和のその日の午後、我が父・工藤由雅は、私と弟が看取る中、息を引き取った。
 享年94歳。その歳なら大往生と人は言う。

 “アルツハイマー・エイジ”だった父は、前年5月、血圧低下と摂食不良で脱水・衰弱症状が悪化し、介護施設から病院へ転院を余儀なくされた
 ベッドでの寝たきり、鼻からの吸入管による流動食。
 もうリハビリも何もない。ここに来て以来、父のベッドから身を起こした姿を見ることはなくなった。
 意識はあって起きていても、目はいつも瞑ったまま。耳元で語りかければ言葉は通じるが、入れ歯の無い口でブツブツ呟く父の言葉は、いつも聞き取れることはなかった。

 何時面会に行っても安らいだ顔をしていることは滅多になく、歯のない口を開けて苦しそうに歪めていた。
 「こわい、こわいんだー」「家に帰りたい」
 いつもしきりと訴える中で、聞き取れたのはその言葉だけだった。
 側にいて、父の胸に手を当てて“心身清浄”と気を入れながら、私は「うんうん」と答えていても、どうしてやることもできず、勝手に涙が流れてくる。
 親と子という立場が逆転して、まるで我が子のように老いた親父が愛(いとお)しい
 神様にあらためて訊いてみたかった。父が最晩年になって、どうしてこんな苦しみを背負わなければならないのですかと。
 ベッドに張りつけられたようなその姿は、まるでキリストの磔刑を思わせた。

 この老人病棟には、父と同様の寝たきり患者がぎっしり。
 皆、鼻に管を入れ、惚けたように口を開け、ベッドに横たわる。
 唸ったり、何かを繰り返し訴えたりする声は聞こえるか、会話の声は聞こえない。 その体はそこにあっても、生かされているだけの脱け殻のようだ。
 明るいフロアの中に、死へのカウントダウンが、背中合わせのように常にそこにある
 ここでの医療や薬の限界を越えて訪れる肉体の死は、敗北でも不幸の極みでもなく、苦しみと悲しみからの救済であり、神からの祝福なのだ。

 戦前から戦中、戦後、昭和と平成を生き抜いてきた齢94歳の父。
 大正生まれで、勤勉、実直な農業青年時代を過ごし、戦時中は陸軍二等兵として召集され、軍隊生活も体験した。
 高度経済成長下の北海道の炭鉱に職を得て家庭を持ち、そこで私も生まれた。
 戦前生まれの古い人間ながら、朴訥でいて温和で、誰に対しても来る者は拒まずといった大らかさがあった
 酒は下戸でタバコもやらず、生き方も性格も考え方も、私とは一見正反対のような親父だったが、話をするほど不思議とウマが合った。私は大学を2年で退め、実家など捨てたように自分の旅を続けていたが、10年後の1985年、自活していた旭川から札幌の実家に戻った。60代半ばになった両親が、細々と新聞販売店を続けていた。

 父は若い頃から地理や歴史、自然が好きで、時事問題や政治にも関心があった。昔は月面探査の「アポロ計画」や、最近の日本の小惑星探査機「はやぶさ」にも強い関心を示したりと、宇宙の話も好きで、「3.11」の時はテレビのニュースに釘付けで、老いても好奇心旺盛な人だった。
 確かに私は、その血筋を引いていた。
 父は、自分で免許を持ったことはないが、クルマのドライブと旅が好きだった。母が他界した翌年に購入した新しいクルマ―四駆セダンの助手席は、父の専用席となった
 年に何度かの父を横に乗せての長距離ドライブ。景色を見て子どもにように喜び、リラックスしている父と、これまでの来し方、縁あった人々のこと、社会や政治、原発問題に至るまで、様々なことを語り合った。

 病院から急な知らせがあったのは、6日日曜日の夕方。私が自宅で夕食を摂っている時だった。
 「お父さまの呼吸が止まりそうです。すぐ来てください、すぐ来てください―」
 食事はもう意味を失い、目まぐるしく考えが錯綜する頭を抑えながら、クルマで10分の病院へ慎重運転で向かった。

 ICU室には、昼間見た時より明らかに苦しそうに、酸素吸入マスクでやっと呼吸をもたせている親父がいた。
 血圧、呼吸数共に危険ラインまで低下し、この状態では今夜が命がもつかどうかのヤマになるという医師の見立てだった。
 アルツハイマーによる脳の萎縮が、生命維持を司る脳幹にまで及び、その機能が停止する限界が近づいているという。
 弟家族も駆けつけ、おじいちゃんの枕元に集まり、その夜は私一人が残って、別室で泊まってまんじりともしない夜を過ごした。
 朝までとうとう急を知らせる電話は入らなかった。一旦は、そのヤマを越えたのだ。

 翌7日から、親父は血圧、血中酸素濃度、呼吸数共、危険域を脱するほど一時は持ち直したものの。
 生体を維持するエネルギーの限界を知らせるように、臨終の時はそれから2日後の午後に来た。

 枕元で看取った時、親父の胸に手を当てて、“心身清浄”と気を入れながら
 心拍数を示すモニターのピーーという音と共に心拍が完全に停止し、まだ体は温かいまま呼吸が止まっていく親父を、真っ直ぐに、むしろ淡々と見ていた。その時は、なぜか衝撃も悲しみもなかった。
 それより為すべきことをしようと体が動いた。
 親父の耳元で引導を渡すように“心身清浄”と囁き続け
 「もう何もこわいことはないよ。もうすぐお母さんのところへ行けるよ、みんなが待ってる光の世界に行けるよ―」と、そんな言葉も自然に出てきた。

 「午後2時6分、ご臨終です―」
 ここではいつもあること。親父の枕元では愁嘆場もなく、何ともあっけないものだった。

 夕方、親父は葬儀社の手によって、純白の絹の布に包まれて、懐かしき我が家へ帰ってきた
 滅多に見ない目にも眩しい白布が、密やかに死者の気配を伝えていた
 白布の幕を張った寝室で、遺体となった親父は、安らかな寝顔で二晩を過ごした
 夜は、この家で親父と二人きり 白絹の死装束の着物に身を包んだ、小さく細くなった親父
 冷え冷えと霊気が伝わってくるような、その冷たくなった顔を指でさすり、頬を寄せて頭を抱いた
 お父さん、こういう形でということになったけど、やっと家に帰れたね。これでゆっくり自分の部屋で休めるね。今まで本当にご苦労様でした―。
 倒れて以来、丸2年、何もしてやれなかったことの、せめてもの言い訳に、そう言ってやりたかった

 葬儀本番の3月11日の通夜、12日の告別式と火葬
 まるで二日間の興行をこなしたような怒濤の時間
 父の実家が檀家の苫前の寺(曹洞宗)の住職が、母の時に続いて、父に「石禅実性居士」という戒名を持ってきてくれた
 親父の柩を載せた葬儀社のクルマに続いて式場入り 近親者のみ同席しての入棺の前の湯灌の儀が始まった
 余韻を残しながら鳴らし続けられる鈴(りん)の音の響きの中で、まるで眠っているような顔をして、小さくなって横たわる父の遺体が、着物によって包まれたまま、けっして肌を見せず、湯灌士の手によって静かに、厳かに清め(浄め)られていく
 肌着を付け替え、白絹の着物と紫色の内掛け、足には白足袋と白い脚胖という死に装束を着け、その体は丁重に柩に納められた
 その出で立ちは、既にこの世の人には見えない それは仏教では仏界への旅立ちの姿であるとされる

 湯灌を経て柩に納められた父の顔は、臨終の時以来最高の、安らかできれいな顔をしていた
 端整とさえ言っていいような、父のこんな凛としたいい顔を、私は生まれて初めて見た お父さん、それがあなただったのですねと、私は思わず襟を正した
 まるで何かを悟って、満足しきったようなその顔は、無言で父が残した最期の遺産だった

 18年前の母の他界の時には、倍近く集まった参列者―縁者、親戚、知人も皆、年をとり、鬼籍に入った人も多く、それでも外来者を含めて60名以上が参列した
 遠くは遙々神奈川・平塚から駆けつけてくれた、父の義理の弟(私にとっては叔父)に当たる縁深き人も
 何一つ普通の親孝行らしきことをしてやれなかった不肖の長男が、最期に、せめてもの親父へのはなむけに、無名の愛すべき、そして心から尊敬する親父―工藤由雅という人のことを、参列者御一同の前で語った
 父のことを、こうして人前で自分の言葉で語ったのは初めてのこと 自分のことは世間様にご披露できるような実績も財産も何もないが、親父の遺徳だけは、憶することなく堂々と語れる

 通夜振る舞いというのは、そこにいる一同が、半ばあの世に近いところで宴席を持っているような、不思議で懐かしい場
 子どもの頃からのつきあいの、親父と近しい縁ある人たち
 死者が納められた柩を前に、一同が飲んだり食ったり、泣いたり、笑ったり
 ほろ酔い加減で、お棺に入った故人の顔を拝みにいく人もいる
 ここでは人の死は、ただ忌むべきもの、隠され、遠ざけられるべきものとして扱われていない
 我々の生と、死とその向こうの世界が、ここで酒の肴になって共存している
 私にしては珍しく、酒と馳走と同席者らのとの語らいを楽しみ、朝まではもたず、喪服のネクタイをつけたまま、フトンに倒れ込んだ

 12日、告別式の朝。出棺を前に参列者との最後の対面と献花
 満足そうな寝顔の父の柩は、一生に一度の溢れるほどの色鮮やかな花々で埋まった
 荼毘に伏されて、まだ熱を持った砕けた白い骨の塊となって、火の炉から戻ってきた父の遺骨
 想像していた通り、手足の骨や骨盤は太く、しっかりとしており、焼かれてもほぼ残った頭蓋が大きく、ゴツイ
 どうだ、これが俺だと言わんばかりの立派なものだった

 あっけないものだ 葬儀の日以来、毎晩、親父の遺骨と私と、この家で二人きり
 我が家では、仏壇に遺影は置かない 父のそれも初七日を過ぎて外した その人の遺影というのは、霊となった故人が現世に通じる未練の窓ともなり、往くべき世界へ行けない妨げになる―
 我が家で最初に鬼籍に入った母は、生前からそう語り、その方針を実践するよう言い残していた

 父が逝ったのは3月9日、本葬が12日 3と9を足すと12となり、12という数字は、母が他界した日―9月12日に通じる
 44年連れ添った人との深い縁(えにし)は、時を超えて符号し、息子の私の目の前で一体化していた―。



 

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