パラレルワールドというドラッグ

 

 先頃、映画「スターウォーズ」の新作プレミア上映が、米・日をはじめ世界中で幕を切り、史上最高額の上映収益が見込まれるとか、メディアがその“社会現象”ぶりを重大ニュースのように報じていた。ファン、マニア、コレクターらは事前から大いに盛り上がり、人生の一大事のように、仕事を休んでまで上映会の一番乗りのため行列に並ぶ人々が溢れた。タブレット端末の新機種が発売される時の光景にも似ている。会場は「スターウォーズ」のコスチュームの人々で溢れ、さながらスターウォーズ教の信者が集う会堂のようであった。

 そこに集うファンやマニアも、それを伝えるメディアも、映画の「スターウォーズ」が、まるで現実よりもある意味リアルなもの、重大なものであるかのように、はしゃぎ、楽しそうに語っている。
 世界中で、テロや戦争、格差、貧困、etcと、様々な問題がますますカオスを深めていようと、そんなことを考えたりするよりも、「スターウォーズ」やら何やら、ハリウッドが次々と繰り出す映像の魅惑的なファンタジーの世界、パラレルワールドに浸っていたい。
 世の中で何が起こっていようと、こっちのパラレルワールドを見続けられるのなら、もう自分には関係ない。
 映画やゲーム、バーチャル映像のマニアばかりでなく、スマホの画面を日常的に見入っている一般の人々も、そういう意識に知らず知らず移りつつあるのではないか。
 見れば見るほどはまり、癖になる。これは一種のドラッグである。

 人々は、自分の国で起こっている問題を他人事のように見ている。「フクシマ」の放射能汚染問題、アメリカの戦争に参加を問われる「安保法案」問題、政府が率先しての海外への原発の露骨な売り込み、政権のメディアに対する権力の濫用…。
 一部の怒れる若者を除いて、多くの有権者は、暴走する政権を特に事もなしと、何となく支持し続けている。
 こうして2015年も、日本の旧権力は安泰のまま年を越えた。
 このまま、「関係ないし」と言って、スマホの画面を見ているだけでいいのか。そこに限りなく展開するバーチャル・リアリティとパラレルワールドに、リアルワールドを見出している人々は、自分の地域で起きていることや、新聞やテレビのニュースの政治や社会問題は、むしろ非現実的なバーチャルワールドに感じられているのだろう。

 スマホの電磁波は、体内の電気をかき乱す。その影響は小さな子どもほど大きい。人間の体内で電気は重要な働きを行っている。心電図や脳波などが体内の微弱な電流をキャッチして得られることからも、そのことが分かる。
 加えて、光と音の問題がある。四六時中、光を至近距離から見つめることの影響。さらにスマホでは遠くを見なくなることによる影響がある。また、LEDの青い光は魅惑的だが、この光の色は、脳の松果体で分泌されるメラトニンを抑制することが指摘されている。
 メラトニンは生体リズムに関わっており、そのリズムに変調をもたらす可能性がある。
 さらにLEDの青い光は、網膜にダメージをもたらし、黄斑変性症の原因になるとも見られている。
 現代日本人のスマホの使用頻度を考えると、1年365 日、それが何年間も続くという長期使用による身心への影響は、けっして見くびることはできない。

 まだ1、2歳の小さな子どもにタブレットの画面を見せるシーンをとりまぜ、若くスタイリッシュな男女が、生活のあらゆる場面でスマホやタブレットを格好よく操り、その画面から次々と魅惑的なワンダーランドが展開されていく―といったCMを見せられると、クラクラしてくる。これからは小さな子どもや赤ん坊にさえも、スマホは当然の必需品と言わんばかりだ。2歳の子供にスマホを持たせれば、どういうことになるか。

 誕生してから15、16歳頃までは人としての知性、感情の形成期であり、霊的、精神的、肉体的バランスを取るために最も重要な時期だ。2歳の子どもにスマホを持たせれば、こういった知的、霊的、肉体的な人としての成長のプロセスを阻むことになる。さらに生化学組織の活動に変化を与えることになる。それはスマホの発する電磁波の影響によるものだ。自意識が明確になる8歳から10歳になる頃には、子どもは道を見失うようになる。一日中ゲーム漬けになり、スマホやパソコンから離れることができなくなる。もう子どもではない。スマホ、あるいはパソコンによりプログラムされた存在と化す。
 ネット大国の中国や韓国の例を挙げるまでもなく、日本でもそんなスマホ依存の子どもたちが増えている。その責任者は誰だろう。
 それは家族や学校、法律だ。政府は携帯電話、スマホの濫用を防止するために何の手立ても講じていない。逆に政策で携帯電話会社を支援している。そして家族―親は、子どもに最先端のテクノロジーの中で生きてほしいと思っている。小さな子どもにケータイを与えれば、子どもの人生に何をもたらすか、社会全体がもっと知るべきだ。
 スマホ、タブレットというのは一種の電子ドラッグであるという認識を持つべきである。それも社会公認の。電子ドラッグならテレビやビデオ等、以前からあった。しかし、スマホ、タブレットはポケットに携行できるパーソナルな物品であり、常に目や耳に至近距離で使うという特徴がある。電磁波の影響度は、テレビやビデオの比ではない。

 誰もが常に手にタブレットを持って、生活のあらゆる場面でそれを見てばかりいる社会。朝のラッシュ時、街を歩く人々は、ほぼ一人残らず、スマホを手にして、さらには使用しながら歩いている。
 人々は、いつしかすっかりそれに依存し、何より大事な必需品にしてしまっている。そして、むしろ器械に使われ、乗っ取られてしまっているかのように見える。
 人間は、端末として器械に酷使されている有様だ。
 それは同時に、やたらとバーチャル・リアリティー―パラレルワールドを開いてしまう結果を招いている。

 ケータイ、スマホの普及は、同じように思ったり、考えたり、行動したりする大衆意識、集合意識をいっそう広め、加速させる役を果たした。
 特に日本は、常に自分も他人と同じように考えなくてはならない、それから外れれば自分はおかしいのではないか、悪いことをしているのではないかと思う。そういうマトリックス・コントロールが最も強い国だ。
 全人類一人一人がスマホを持つ世界(同時に全人類がその位置を把握される社会)―それこそが待ち望まれた素晴らしき新世界なのか? それは人類の意識をコントロールし、リアルワールドから目を逸らさせ、仮想現実―パラレルワールドに浸らせ、人類の真の意識の進化や、アセンションというプロセスから逸脱させようという巧妙なマトリックス・コントロールの一貫ではないのか。

 今の若者は、2人に一人は酒は飲まないという。酒は飲まない、旅には出ない、クルマなんかいらない、恋人もいらない、セックスなんか面倒だからしたくない。それよりも手元にスマホがあれば、ゲームやバーチャルワールドに浸って、満足していられる。今やそういう精神に至っているのだろう。
 今の若者は、小、中学生の頃からスマホを持ち、使っている。若者たちが、旅とかクルマとか、恋愛やセックスとか、生身を使った面倒でシンドイことを敬遠し、欲望も示さなくなり、集団的に内向化し、保守化していった傾向と、ネット、ケータイの普及は、同調するように比例して上昇している。

 タブレットのCMでは、世界を放浪旅行している若者も、なくてはならないツールとして、スマホを持ち、使っている。どこへ行くにも、何をするにも、タブレットを持たないなんて、ありえないという世界だ。今や冒険家から一般の旅行者まで、スマホを持たない旅人なんて、もう絶滅種なのか。
 それでも私は敢えて言いたい。若者よ、一度、スマホもケータイも置いて、旅に出てみろと。別にそれで命を取られるわけじゃない。
 つい一昔前まではそれが当たり前だった。1980年代までのニッポンでは、ほぼ誰一人、ケータイやタブレットPCなど持ってはいなかった。
 現在、既にそれが津々浦々まで空気のように浸透しているこの国でも、個人で、しばらくスマホの類を一切置いて、スッピンの身で旅してみれば、それから離れていること、使わずにいることが、どんなに清々することか分かるだろう。




 

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