日記5

体験学習 “虚”を学ぶ    早苗NeNe



自分がいつごろから 人生とは体験学習の場だと認識したのか、いろいろな経験をす
ること、すなわち体験によって成長してゆくのが人間の真の姿だと思うようになった
のか定かでない。多分当然のことのように生まれた時から私の潜在意識にプログラミ
ングされていて、ある程度大きくなったら自覚できるようになっていたのかもしれな
い。その認識に従って今日までの52年間、私の人生は波乱万丈盛りだくさんの楽し
い体験が詰まったものになった。その中でもひときわ大きな体験としてショウビジネ
スの世界、芸能界がある。

人間にとって12歳から22歳までの10年間は肉体的にも子供から思春期へと移行
してまさに青春時代と総称される特別な時期だ。その10年間、普通の少女が中学か
ら高校そして大学で学ぶように私は芸能界を学んだ。まずは12歳からの3年間、テ
レビメディアが高度成長期とともに日本の家庭に進出し始めたそのとき、オーディ
ション番組に合格した私は週1回の録画取りに麹町の某テレビ局に通うことになる。
電気屋の店頭で力道山のプロレス中継にまだ人だかりが出来ていたころのことだ。そ
の3年間でテレビカメラの前で物怖じせずに振舞う度胸と日劇などの大きな舞台上で
の初歩的な動き方を学び、15歳からはレコード会社とのレコーディングに伴う作業
と、ステージで演奏をしてくれるバックバンドとの呼吸の合わせ方などを学んだ。そ
して大学進学するように18歳からは一人前の歌手として地方巡業や、音楽番組など
に出演して大ヒットも飛ばした。やがて21歳を過ぎて必然的に芸能界大学を卒業。
楽しくエキサイティングな体験学習だった。微分積分や古文、漢文は学ばなかった
が、着せ替え人形のようにどんな洋服を着せられても好き嫌いを超越する術を学んだ
し、列車や車の中でストンと眠りに落ちる技術も習得した。だがなんといっても一番
深い学びはいろいろな言葉を駆使して無名の少女をスターに仕立て上げるプロセス
を、創造の真髄を自分自身がまな板の上の鯉となり実体験したことによって体感、理
解したさまざまな感情的味わいだったように思う。

歌のうまい女の子が回りの創意によって、イメージ付けをされ、ストーリー性のある
カラフルな粉をまぶされて、魅力的な商品として売りに出される。いつしか彼女はそ
れらのキャラクター付けを自分のものとして生きてゆく。“豚もおだてりゃ木に登
る”ということわざ通りプロデューサーやディレクターに誘導されて高みへと登りつ
めてゆく。もちろん本人の中にそれらの要素がなければ誰も引き出すことは出来ない
ものなのだろうが、私の場合デュエットを組んでいたことと相方がボーイッシュない
でたちをしていた事もあって“レスビアン歌手”という過激なイメージ付けから“愛
の妖精”というファンタジックなものまであった。だが私は良いスタッフにも恵まれ
て享風漫歩だったにもかかわらず21歳のときデュエットグループ“じゅん&ネネ”
を解散するという形で自ら高みへの道から降りてしまった。芸能界の大学院に残るつ
もりはさらさらなかったらしい。

まばゆいスポットライトという特殊効果の中、めくりめくような恍惚感に酔って無我
夢中で日々を過ごしていた私はある日ふと醒めた。具体的にはヒット曲を飛ばすため
の努力に対する興味への喪失だった。私の向上心や自己顕示欲はもっとビックスター
になりたかったのにもかかわらず、急に毎日がつまらなく思えてきたのだった。刺激
的な日々はそれ自体が日常になると倦怠を生み出す。私は自分の内側に生じた亀裂を
当時はどう形容すればよいのかわからなかった。ただもっと他の世界を知りたい!の
一点張りで周りのスタッフの「なぜ辞めたいのか?」と言う疑問に応じていたのを覚
えている。

50歳を過ぎてやっと当時自分の内側に生じた亀裂が何だったのか、的確な言葉を見
つけることができた。私の中の“虚像と実像”が分裂してしまったのです。競争原理
と共に虚と実が混沌と合いまみれている芸能界で私自身の実態がまったく伴わなかっ
たための落伍だったのだ。だいたい二十歳そこそこの娘が新幹線のグリーン車に乗
り、どこへ行ってもちやほやされること自体が特殊なのだ。気分の良い待遇に満足感
と倦怠感を覚えながらも等身の私は未熟な女の子だった。私の内側は自分の実態が華
やかなスターとは裏腹な卑小なものだとの劣等感に悩まされていた。何も芸能界だけ
ではない、人間として自分の内側が外側に見合った内容を備えていなければ嘘になる
のは当然のことなのだ。中身貧相な上げ底の菓子折りにはなりたくなかった。だが自
分が“虚”というものの本質を理解して、それらと殆んどそりが合わないことを明確
に自覚できるようになったのはつい最近のことだ。やはり体験学習をしてもそれを咀
嚼した後で自分の中から答えを引き出すにはそれなりの時間が必要なのだろう。「私
は虚構の世界、そのうえ人を蹴落とさんとするむき出しの競争心があふれている場所
には住めない。」10年間の芸能界体験学習を通して私が理解したことはこの言葉に
つきる。

じゅん&ネネ”解散から30年。現在私はハワイのマウイ島のカレッジで4年前から
留学生生活を体験している。これが又なかなかスリリングで面白いのだ。英語の授業
なのでふっと気を抜くと先生の話についてゆけなくなる。入学したてのころの授業に
は必ず机のうえにカセットを置いて先生の講義を録音していたものだった。前学期の
天文学の授業は私の知的興味を十分に満足させてくれるものだったし、英作文の授業
では自作のショートストーリーがクラスから選ばれて大学出版発行の短編集に組み込
まれた。

留学して一年が過ぎたころマウイ島のハレアカラ山頂にご来光を拝みに行った私はハ
イキングコースで不思議な鳥に出会った。山鳩にしては大きく、キジのわりには首が
太かった。帰りがけに寄ったビジターセンターで展示されている写真の中から自分が
出会った鳥を見つけ写真の下に書かれている名前を呼んで絶句した。ネネ(NeN
e)と書かれていたのだ。そのとき初めてハワイの州鳥が“NeNe”という名のガ
チョウで 絶滅の危機にさらされていることを知った。1778年キャプテンクック
がハワイ諸島を訪れる前までは2万5千羽以上のネネが全島に生息していたが、西側
の文化の導入とともに減り始めて今ではマウイ島のハレアカラ山頂付近、ハワイ島、
カウアイ島の3島にしか見られなくなったしまったという。1949年に法的に保護
されることが決まり、その後米政府より絶滅寸前種に指定された。1991年には約
5百羽の野生ネネが観測されている。  ネネは人を疑うことを知らない鳥でゴルフ
場にも巣を作ってしまうと聞いた。人を疑わないで生きてゆく人生が一番素敵な生き
方だと思っていた私は、人を疑うことを知らないが故に絶滅していってしまうその鳥
が象徴しているやるせなさに打たれた。私のハートの奥深く普段は静かに流れている
炎にそのやるせなさの矢が届いてしまったのだ。そしてその場でもう一度自分がネネ
(NeNe)という名前で歌を歌っていくことを決心していた。

弱肉強食、人類独尊、経済優先、これらの言葉を鵜呑みにして発展して来た人間社会
の虚が地球上のすべての命を蝕んでいる。ああもう少し大人になりたい。せめて他生
物に迷惑のかからない生き方が出来るようになれるまでに成長したいと心から思う。


*この文章は人権関係の雑誌のために書かれた原稿です。「日記」コーナーに載せるのは適当かどうかわかりませんが、関西ツアーが終わってマウイに帰る寸前の忙しい時期に書かれたものです。(2002.6初旬)


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