2002年3月発刊


 「無条件に人を愛してゆく」とは、いったいどんなことなのか。いったいどんな人間関係が無条件の愛なのか。男と女が出会って恋愛関係に入り、その後、無条件の愛に移行してゆくことは本当に可能なのだろうか。そのすべての疑問に自分自身の体験を通して答えてゆくことが、今この時代を生きている自分の命の証しにつながる。
=本文より=


 “熟女少女”で書きたかったエッセンスをひとつピックアップしてみると、この文章になります。さすがに学研、ちゃんと本の帯の裏にこの文章だけを抜粋して載せてある。
 無条件に人を愛してゆくことの難しさ、あふれるような愛を妨げる心の動きが自分の内側にあるとき、私は苦しみを覚えます。そしていまだにその苦しみの源を明確に認識して、私自身の愛したい心を妨げているものの実態を取り除く方法を見つけておりません。ある本ではそれを分離と呼んでいました。連帯感の欠如という意味なのでしょうか。又誰かはそれを恐れだといっていました。なんとなくあたっているような気もします。でもまだ私の中で明確ではありません 何度も同じような感情体験を繰り返して少しずつ理解し取り除いてゆくものなのかもしれません。自分が相手から愛されていないと思っている時に、その相手に対する愛着を感じてしまうのは本当にくるしいものです。愛されていないと思うことをやめればいいのですが。
 離婚して夫が家を出て行ってから、私はよく夢を見ました。パーティーか何かで彼が恋人と仲良くしていて、それを同じ会場で疎外感に打ちひしがれながら見ている夢です。現実にそんなシーンは一度も起きてはなかったのですが、その夢の持っている生々しいリアリティーが目覚めた後も一日中付きまとって苦しみました。誰の夢でもありません。私が見ている夢なのです。自分の内側から湧いてくる心象風景に悩まされてのたうち回っている私って、いったい何なのでしょう。こんな感情は嫌だ、もう沢山だ!と思ってもそこから逃げられない苦しさは言葉で言い尽くせません。自分以外にその感情から抜け出す術を知っている者はいないのです。私は自分の日常にかかわってくる出来事はすべて必然だという世界観を受け入れています。極端に言えば全部自分が体験したくって引き寄せているのだ、と思っているのです。そしてその出来事にどんな感情的意味合いを与えるかは私の自由です。それにもかかわらず自分の感情に振り回されて中心を保っていられない。遊園地で自からすすんで乗った乗り物に目を回し、気持ち悪くてもどしそう。誰にでも一度や2度そんな経験があると思いますが、疎外感、惨めさ、自分がないがしろにされている気分というのは味わい過ぎるとひっくり返ります。
 22年間連れ添った前夫に恋人ができなければ、私は八丈島を出てMAUI島のカレッジに行くこともなく、“熟女少女”の存在もありませんでした。私は今、この現在の自分を肯定しています。そして現在の視点から見たとき、その恋人は私を助けるために、私を又新たな人生の冒険に旅立たせるために現れてくれたソウルファミリーの一人だと心底思えるのです。いつの日か彼女が私の前夫と結婚する以前の独身時代のころと同じように、何のわだかまりもなく私に示してくれていた友愛の情を又取り戻してくれる日が来るでしょう。私は一度愛した男性を、他の女性に心を移したからといって嫌いになることがどうしても出来ません、だからこそ未来のある日に彼と彼女と私の3人がオープンに仲良くしあって、3人の関係性を明るく肯定してゆける日が来ることを知っているのです。いつ来るかな、そんな瞬間が。今世かな、来世かな。
 ところで“熟女少女”にはまだ続きがあります。MAUI島で2度目の結婚をした私は、今度は前夫ならぬ今夫との愛情関係の中でまるで炎の中を通り抜けるような感情の坩堝にとらわれて、正にハワイの火の神“ペレ”のエネルギーに触れてしまったようです。きっと1、2年後には“熟女少女”続編を書き終えて火傷の痕を癒していることでしょう。

リアルファンタジーを生きる
私たちが住んでいるこの世界がすべて変化、流転する幻想なら
私は私の見たい夢を、幻想を、自分の人生として生きる。
愛と笑いと、冒険と安心がフルに詰まったハッピーエンドの幻想を
少女のころに見た夢を、熟女の知恵で体験してゆくの!!

心の中に熟女が住んでいる少女と少女が住んでいる熟女に読んでほしくて、私の内側のリアリティーを分かち合いたくて書きました。是非読んでください。

『熟女少女』早苗NENE著/学習研究社/¥1400税別


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