表紙

イベント

金子亘の作品

近藤直子のページ

リンク

リコーダー



◆伝統と科学の融合を目指して

「化学屋」の職人的仕事

 味、深み、温かさ、親しみ…。多くの伝統工芸品を評する際、頻繁に使われる言葉
だ。そして、私たち日本人にとって、きわめてなじみ深い感覚でもある。しかし、
「深みとは何か?」、「なぜそう感じるのか?」と問われとしたら、多くの人は戸惑
うことだろう。
 このような伝統工芸の代表分野である、伝統的染色法を科学的に解明していこうと
いう人がいる。京都工芸繊維大学の上田充夫教授である。自称「根っからの化学屋」
という上田教授の経歴は、かなり職人的だ。大学院を卒業後、大阪市立工業研究所の
染色研究室に入所。そこで染色関連企業から持ち込まれる数々の問題の原因解明と改
善対策、規格検査にあたる。
 「大阪、特に船場のあたりは、アパレル業界や繊維業界の大企業の本社が集中して
います。だから、アパレルや繊維に関する情報も集中する。その情報の中に含まれる
のが、商品に対する数々のクレーム。会社内で処理できない問題が工業研究所に持ち
込まれてくるのです」。
 一番多いクレームは色落ち、次に、肌のかぶれ。単なる色落ちでも、その要因は
様々。洗濯による色落ち、太陽光線による色落ち、汗による色落ち、ハンドバックや
ベルトで擦れることによる色落ち…。一つが解決できたとしても、別な要因による色
落ちが起こったりする。すべてが解決できたとしても、今度は肌がかぶれたりする。
 染色業界は、アパレル業界と繊維業界という二大業界に挟まれた谷間の業界で、大
半が中小企業。しかし、製品として最も高い付加価値を上げる業種でもある。私たち
が普段身につけている衣料品には、綿、レーヨンなどの素材しか表示されていない
が、肌に直接触れている布の表面には、柔軟剤や変退色防止剤などの様々な加工剤が
のっている。布は染色を経てドラマチックに変身する。しかし、最もリスクの大きい
工程でもある。
 「衣料品は肌に直接身につけるものなので、安全性などの多くの条件をクリアしな
いと商品にはなりません。しかも、化学染色によるものは工業製品なのでJISの規格
が非常に厳しいのです」。

色から文化が見える

 日本の規格は世界一厳しいという。これには次のような理由もある。
 ヨーロッパ製の衣料品は人気が高い反面、色落ちに関するクレームも多い。フラン
ス製のネクタイの色が汗で色落ちしたという例もある。しかしよく考えてみると、湿
度が低く、気温も低いヨーロッパでは、背広姿で汗をかく機会はほとんどない。高価
な衣装は特別なパーティの時だけ着る。洗濯もほとんどしない。つまり、国による規
格の差には、衣料品の品質の差だけでなく、衣料をとりまく環境と文化の差もあった
のだ。
 「日本の染色メーカーが、アメリカへ輸出するために研究を重ねて開発して染めた
布をいざ輸出してみると、まったく受け入れられなかったりすることがあります。日
本人にわかる微妙な色の加減が、アメリカ人には通用しないのですね」。
 国際的な違いだけではなく、地域的な違いもある。例えば、京都の人は色にうるさ
いと言われるが、その中身は「色落ち」ではない。「色の深み」にうるさいのだ。
 「同じ研究室で、『色の感情マップ』というものを作成している研究者がいます。
色を見てどのように感じるか、色ごとに並べてカラーチャートをつくるのです」。
 明るいと感じる色、暗いと感じる色を、感じ方の度合いによって並べていく。西欧
人の場合、色の明度に沿ったきれいな並び方になる。明度の高い色ほど、明るく感じ
るわけだ。ところが、日本人の場合、色の明度と比較すると歪んだ並び方のマップに
なってしまう。
 「日本人の場合、『明るい・暗い』という感覚の中に、『派手・地味』とい感覚も
含まれているです。つまり、色を表現するときに使う言葉の差が出てきたわけです。
論理的な西欧の言語と、あいまいで微妙な日本語の差かもしれません」。
 優秀な染め屋は、優秀な社会学者であり、文化人類学者であり、言語学者であり、
心理学者であるかもしれない。そして、科学者である上田教授も、染色を通じて新た
な領域に踏み込むことになった。

伝統と科学の融合

 江戸時代、徳島藩の藍染めのための染料製造法は、門外不出の秘伝とされていた。
現在、徳島県の重要無形文化財に指定されている藍染めによって染められた高価な布
地が、上田教授の研究室にある。上田教授が取り組み始めた研究とは、その藍染めの
味や深みの分析。新たな領域は、伝統的な領域であった。
 「味や深みを、科学的に定義することはできません。科学的じゃなくても難しい。
でも人間は、なんとなく良い、断然良いという具合に、味や深みを感じ、判断できる
わけです。その判断の理由、人工的なものと伝統的なものの違い、これを科学的に分
析していく研究です」。
 合成藍料は、天然藍の分子構造を化学的に合成したもの。つまり、分子構造では天
然藍も合成藍もまったく同じことになる。しかし何故か、味や深みで違いが生じてし
まう。上田教授によると、分子が繊維にのっている状態が異なっている可能性が高い
という。分子の位置、数、深さなど、染まり方によって色は微妙に変化する。伝統的
な染色法では人間が見て最も良いと感じられる位置に色素が定着していると考えられ
る。しかし、これは無数にある要因のうちのたった一つにすぎない。
 「科学が誕生して以来この100年間、科学は研究しやすいことばかり対象にしてき
ました。その結果、月に行くことすら可能となった。でも科学は身近にある難しい
テーマを置き去りにしてきたのです。科学がつくったものは伝統的染色の類似品の大
量生産にすぎません。伝統的なものに真正面から取り組んでこなかったのです。味や
深みという感覚的で伝統的な領域は、科学にとってあまりにも難しい領域だったた
め、一番最後に残してきたのです」。
 奥深い研究が始まった。現在、上田教授は他大学の服飾美学などの文科系の研究者
たちと、感性に関する共同研究も行っている。伝統的なものと科学的なものの間に
あった溝が埋まりつつあるのだ。
 「伝統的なものを科学的なものにすべて置き換えているのではありません。今の時
代に求められていることは、両者の融合なのです」。