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なまえのある家「Rupa」

第五回 秋晴れの縁側会議

 秋晴れの朝。雲ひとつない青空。楽しそうに鳴く鳥の声にまじって、家の表からも裏からも、四方から稲刈り機の低い音が響いてきます。夏が終わって寂しい気分になっていた私達の気持ちを、このところずっと慰めてくれていた黄金色の稲穂も、とうとう刈り取られる時が来たのです。山の辺あたりで色づく柿も、心和む奈良の風景。兼業農家にとって、手間ばかりかかって、少しもお金にならないという農業。それでもお米や果実を細々と作って、秋の豊かさを感じさせてくれる地元の人達に感謝の思いが湧き起こってきます。
 押入れにしまい込んでいた大量の来客用の布団をすべて出し、久しぶりに南側の縁側に広げ、日に当てました。仏壇の扉も、床の間の飾り扉も、すべて開け放して、内にたまった空気を外に出しました。秋の風がすみずみまで吹き込んだのか、家の中も秋の景色に早変わり。薄黄色の光が、襖の傷や桟のサビにまでうっすらと差し込んでいます。畳に寝転がって間近に家のほころびを観察していると、夏には見えなかったその無造作な傷跡が、意外と味わい深いものに見えてくるから不思議です。おだやかに微笑む村のお年寄りの顔のように、やさしく…。

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 こんな静かな世界なのに、私の内側はとりとめのない思いでいっぱいでした。最近の戦争を繰り返し告げる、にぎやかなテレビとそっくりです。テレビから、多くの人々の悲しみと怒りが伝わってきます。その思いが、また別な思いを生み出します。テレビは、戦争に関して、原因以外のあらゆることを報じていましたが、そのほとんどが否定的な想像からくる、仮想的であいまいなもののようでした。その点が、一番私に似ているのかもしれません。自分自身が作るものに、人間は多大な影響を受けています。自然がこれほど美しいものを与えてくれているのに。

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 かつて私は、戦争の原因を宗教や人種、国、経済だと思っていた頃がありました。問題を見るにあたっては、多くの知識が必要でしたが、それ以上に、悲劇的な想像も必要でした。静止画像のように、時間が流れても変わらないイメージ。反対に学校の授業では、「平和が大切」という言葉を数え切れぬほど聞かされる。これにも知識と連想が求められました。頭の中は、いろんな思いでいっぱい。どうしたら戦争をなくすことができるのだろうか、どうしたら「悪い奴ら」を改心させることができるのだろうか、どうしたら…。
 しかし、今の私が言うことができるのは、あらゆる戦争の原因は私自身である、ということだけ。
 人からの批判に対して、それ以上の反撃に出る私。人を許さない私、矛盾を見て見ぬふりをする私。あらゆる不安から我が身だけを守ろうとする私。身近な人々を大切にしない私。集団に帰属することを求める私。形式や信条でごまかす私。自分をよく見せようとする私。この私の延長線上に、大規模な戦争があると思っています。テレビに登場する戦争関係者のほとんどが、内なる私にそっくりな部分を見せてくれているようで、人ごとではすまされないものを感じるのです。戦争だけでなく、多くの事件も同様。

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 頻繁にヒーラーを招いて自宅でワークショップを開催していた友人からかかってきた、「ワークショップを止め、自分自身で内なる自分を見つめながら日常を大切にしていく」という内容の電話を終えて、また縁側に寝転がりました。
 多くの精神世界関係者が語る言葉は、内なる戦争や事件を解決するためのようですが、それは救援物資でしかあり得ないのでしょう。一人一人の中にある、十人十色の解決策は、日常生活の中で自分自身が見つけていくしかない。戦争をなくすために私ができること。それはまず、恐れを捨てて、あるがままの私を見ること…。
 縁側に寝転がって、とりとめのない思いの多くを流しながら、全人類を代表する一人だけの会議が終わりました。制度も条約もいらない、武器もプラカードもいらない、敵がいないのですから。ただ、自分自身から逃げないこと。日常生活の中で真実味を失う、多くの思想。どんなに拙くても、自分の足で歩んでいきたい。扉を開けて、光と風をあてよう。
 一段落つき、外の薄黄色の光を見上げて立ち上がった途端、「畑で穫れたサツマイモの焼き芋ができたよ」と呼ぶ、ワタルの声が聞こえてきました。
 昨日のケンカを許してくれていたのです。

(イラスト=金子亘)


なまえのない新聞No.109より