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改 ● なまえのある家「わのわ」


心のふるさと、柳生

 

 昨年来、地域の農産物で加工品を調理している、ある高齢者グループを取材させて頂いています。自給自足の時代、薪を燃料とした生活を体験してこられた70歳代の逞しい主婦たち。キビキビと動く様はとても美しく、常に何らかの仕事を見つけだしては体を動かし、少しの間もじっとしていません。昔のいろんな智恵を教わり、手伝いながらの、楽しい井戸端会議。
 でも先週の取材はいつもと様相が違い、先にTV取材が厨房で撮影中。さっさと取材を終えた一行は敬意も感謝も挨拶もなしに撤収。取材陣が帰ってホッと一息つく、オッチャンとオバチャンたち。その日、私と初対面の主婦がお一人いらっしゃって、ため息混じりに一言。「あれ、お嬢さんはテレビの人やなかったんやな。あ〜、良かった。『雲の上の人』じゃなくて!」
 「雲の上の人」という言葉を聞いて、切ない気分になりました。おおらかな笑顔、どっしりした存在感。母なる強さのすべてを備えもつ彼女たちが大好きで、胸に飛び込みたいぐらいに愛を感じているのに、そんなこと言わないで。家族を慈しみ育んできた、逞しい母たち。人知れずこの島国を支えてきた、笑顔。「ふるさと」を感じさせてくれる村人たちが、大好き。その先人たちを育んだ自然、大地が、大好き。

 ところで昨夏、私は離婚しました。社会に対するストレスや私への妬みなどが原因となって魔が入った元パートナー。 家族のためと言いながら、過去世の流れもあってマヒしてしまっ たのか、なぜか不条理な拘束状態を受け入れ続けていた私。沖縄から彼が転がり込んできて以来、心の違和感に蓋をして(私が何かをしてあげるないと)という義務感を常に持ち続けてきました。
 試行錯誤の試みも功を奏さず、勇気をもってパートナーシップからの卒業を考え始めた昨春には、事態はかなり悪化。私の身にも危険が及ぶこともあったため、彼の幸せを祈りつつも、息子を連れて私が家出するしか道は残されていないように思えました。しかし幸い多くの奇跡が重なって、数ヶ月後に離婚届け提出が実現。
 ここ数年、彼はすべてのものに怒りを感じていました。感情のはけ口を私に向けたのですが、魂レベルで本当に傷ついていたのは、私ではなく彼でした。彼に必要なのは、怒りの奥底にある、本当の思いを見つめて受け入れ、自分自身を許すこと。私を傷つけようとして、ますます自分の魂を傷つけてしまうという悪循環を断つためにも別離は必要でした(表層意識の彼は絶対に認めませんでしたが)。本当に彼を助けることができるのは、彼自身。今は彼の魂に語りかけるのみです。もちろん私の表層意識もまだ完全には癒されていない部分があります。男性の罵声を耳にしたり、彼が所有する同じ車種の車を見ると、今だに背筋が凍る思いです。だからこそ私自身も「勇気をもって」自分自身を許し、本当の私自身として生ききることを通して、巡り巡って、彼の人生が佳き方向へと向かうことを祈りたいのです。

 さて、東山中(大和高原)を離れる日が近づいてきたのに、地元のみんなの顔を見ていると泣けてきて、どうしても別れを報告できません。一時的な別れと言えども、かわいがってくださった古老たちの笑顔を目の前にすると、どうしても言えない。この地の自然、空気、人々…、すべてを愛しすぎてしまったのです。いつも刺激的で穏やかで、いつも静かで賑やかで。言葉には表現できない多くの悦びを与えてくれた、東山中の大地。 別れを言い出せないまま、引っ越し予定日が数週間後に近づいてきた9月のある夜。ついにパートナーの感情が飽和状態に達し、かつてないほどの生命の危機がさし迫り、急遽、翌朝、子どもと共に柳生を脱出せざるを得ない状況になってしまいました。さらなるハプニングが起こりつつも、駆けつけてくれた友人や「やまんと」仲間たちの連携プレイに助けられて最低限の荷物をまとめ、息子の安全確保を第一に、東山中を降りたのでした。機転をきかせて最大限に助けてくれた友人たち。本当に有り難さが身に染みました。
 でも結局、お世話になった柳生の方々に挨拶する間もなく姿をくらますという、最悪の事態に。何も言わず出てしまった私を、どうか、どうか許して。でも絶対に、柳生、東山中への恩返しは続けます。
 避難生活の後、秋に引っ越した先は平坦(奈良盆地)でしたが、心はいつも東山中。心配した柳生の方々が、どうにか私の携帯番号を調べて連絡をくれたり、こちらから電話を入れて涙ながらの事後報告をしたり。温かな手をさしのべてくれて、「大丈夫。アンタのことは信じとる。絶対に戻ってきいや」と励ましてくださった東山中の方々。私の方も、柳生を出てすぐ、東山中に帰る準備の一環として、車の運転など、元パートナーによって長年、禁止されていたことを次々と再開。息子の新しい保育園には、「春に東山中に戻るので、制服を貸してください」とお願い。

 ところで二〇一〇年の「柳生さくら祭」は特別企画がてんこ盛りの予定でした。なので実行委員会会議は、例年より早く始めることになっていました。柳生脱出後すぐに会議招集の電話を頂いたものの、用事が重なって昨年内の会議には出席できず。何よりも、柳生に暮らす元パートナーの動向が怖くて、実際に柳生に足を踏み入れるのには、相当な勇気が必要でした。
 でも、とうとう年初の企画会議には参加可能となり、意を決して馴染みの奥座敷に向かいました。(電話ではいつもの調子で声をかけてくれてたけど、何も言わずに出て行って、みんな本当は怒ってるんじゃないかな。ヨソ者の未熟さに、呆れてるはず。今さら、のこのこ会議に参加しても本当にいいのかな)。いろんな思いをふり切って、勇気を出して、ふすまを開けた途端。
「おお!来てくれたか」「よう来た、よう来た」「元気そうで何よりや。良かった、良かった」「近藤さんがおらんかったら、祭ができひん、って、ずっと言い合ってたんや」。懐かしい顔が、涙で滲んでよく見えません。「さあさあ、真ん中に座り」と、お茶を一杯。温かで素朴で、滑稽で和やかで。いつもの、ほほえましい会議が始まりました。魔法のようにリラックスさせてくれる、久々の地元ネタ。東山中を離れ、東山中を思い続けた、激動の3ヶ月間。そして今、何もなかったように、心を開いて話をしている私。夢を見てるんじゃないよね。
 大笑いの下、会議が終了。帰る準備をしようとしたら、突然、さらに奥のふすまが開きました。隣室の座卓に並んでいたのは、湯気たつ土鍋。「今日は実行委員の新年会やで。あ、言うの忘れとったかな」。貧乏な実行委員会のこと、今まで一度も新年会も忘年会もなかったはず。「会費はいらん。せっかく久々に会えたんやから、ちょっとでもいいから宴に参加してや」と、口々に引き留めモード。せっかくだから少しだけ、と座ったら、「前に住んでた家が空いてるから、入り」「ワシらんとこは、部屋がぎょうさんあまってるから、居候し」「そういえば、あそこの家も空いてるで」「炭焼の爺やんが、近藤さんに会いたがって、いっつも訊いてくるんや」。またしても視界が滲んできました。
「柳生は心の故郷。第一の故郷やって、いつも思ってる」と、やっとのことで言うと…。「故郷に第一も第二もないやろ。アンタの故郷は、ここや!」「そうや、故郷はここやで!」
 個性丸出しで、おおらかで、とんでもなく楽観的で、底抜けに温かく、かたい絆で結ばれた、この地の遺伝子をもつ方々。この無名の方々を、私は心から尊敬し、心から誇りに思います。どんなマスターよりも、どんな有名人よりも、泥まみれになって愛する大地に根を伸ばす、この名もなき方々に認められ、笑顔で受け入れられることの方が、私にとっては名誉であり、価値のあることです。だから、今から羽を広げるけれど、自由に羽ばたくけれど、雲の上には、乗りません。
 神さま仏さま、こんなちっぽけな私に、こんなにも大きな幸せを与えてくださって、本当にありがとうございます。ちっぽけになったおかげで、本当に気づくことができました。伸ばした羽は大きかった。春、東に帰ります。日月出づる処へ。


名前のない新聞 No.159=2010年3・4月号 に掲載