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なまえのある家「Rupa」


黒潮が運んだ発酵文化、柿の葉寿司

 寿司発祥の地は、中国雲南省南部や東南アジアのメコン川流域。紀元前五〜三世紀の中国の文献には魚の塩漬けの「鮨」が登場し、三世紀の辞書には塩と米で醸した「鮓」が紹介されている。これは稲作農耕民が水田周辺で獲った魚を塩漬けにし、ご飯を糠床にして発酵させたもので、日本の「なれ寿司」にあたる。数カ月から数年かけて長期発酵させるため、ご飯はどろどろに溶けて食べられない。近江の鮒寿司のように、ご飯を除いて魚だけを食べる。発酵した魚は独特の酸っぱさがあり、故に「酸し」、寿司と呼ばれたのだ。
 当時の寿司の必須アイテムは、深めの容器と重石。鮒寿司と同様、容器の中に魚とご飯をサンドイッチ状に重ね、何層にも詰めて最後に重石をおく。日本には稲作技術とともに伝播したと言われ、奈良時代の文献が初出で、平安時代には各地から朝廷に納められた献上品としての寿司が数多く記録されている。室町時代に入ると、ご飯も食べられるように熟成を数カ月以内で止める「生なれ寿司」が主流に。さらに塩魚の切り身を入れた押し寿司(箱寿司)も登場。そして江戸時代、変化は急速に訪れた。発酵期間を短縮するため、糀や酒粕、酒、酢などを促進剤として加えるようになったのだ。麹に野菜も入れた飯寿司も生まれた。やがて、短時間の熟成だけですぐに食べることのできる「早寿司」が江戸で誕生。ご飯や魚に酢を加えたもので、発酵ではない酸味が当初は邪道とされたが、江戸時代後半には各地に広く普及した。当時、流行ったのは箱寿司で、握り飯に魚の切身をのせ、取り出しやすいように笹の葉の仕切りを入れながら並べて重石をかけるもの。それでも江戸っ子は待ちきれなかった。ついに重石がとれ、桶に握り寿司を並べるだけになったのは江戸末期のことだった。

 江戸時代に生まれたという柿の葉寿司レシピは、生なれ寿司から箱寿司に変遷する間に確立したのだろう。握り飯に塩鯖の切り身を乗せて渋柿の葉で包み、箱の中に何段にも重ねた上から重石をする。鯖は熊野灘で獲って浜塩で締めたもので、七月の夏祭りの食卓に欠かせないものだった。今は酢飯を使うが、当初は塩飯を大きめに握って長期間発酵させたという。特徴は食べやすいように葉で包むこと。東吉野では、柿の葉ではなく朴の葉で包む。岐阜の朴葉寿司、大和高原や伊賀・名張地方の朴葉の握り飯(ほがしわ弁当)やフキの葉で包んだフキ俵、高菜で包んだ熊野の目はり寿司など、山里では、天然のサランラップとも言うべき葉の利用が広く行われていたようだ。仕切りも兼ねて1枚や2枚の葉で軽く包んだ寿司は、重石をかけることによって、くっきりとした形がつく。
「昔は丸い桶に詰めてたんで、丸っこいのとか、三角のとか、いろんな形がありましたよ」
と微笑むのは吉野町のHさん。かつては長くて一週間近く熟成させたが、今は一晩か二晩ほどで食べ始める。鯖に使う塩が多く、重石が重い方が保存がきく。今は塩も重石の重さも減って寿司が柔らかくなる一方、一週間近くかけて食べ続けていた賞味期間が、3日間ほどに短縮された。
 でも準備するときの気持ちは、ずっと変わらない。以前は一度に五升ほど炊いて一家総出で作ったというHさん。夫婦二人暮らしになった今でも一升は炊く。親戚を訪問するときや、客人のもてなしに、折々の手土産として「お嫁に出す」のだ。会う日を心待ちにして塩鯖に塩を打ち直し、食べる人の顔を思い浮かべて、一つ一つ丁寧に包む。「週末には息子夫婦が帰ってきますからねえ」と、輝かしいばかりの笑顔。もてなす過程そのものが、喜びになるという幸せ。会えて良かった、これからも元気でいてほしい。そんな思いが染み込み、醸される寿司。贈る人と贈られる人との絆は、あまりに美しい。
 中国雲南省のチョアン族では、長男が生まれると百匹ほどの鯉でなれ寿司を仕込む。長男は折々の節目に、その寿司を一生かけて少しずつ食べる。最後の節目はお葬式。一族の思いを一つにして漬け込まれ、魂が旅立つまで人生とともに熟成し、子孫へと託される寿司。仕込みからふるまいまで、寿司の熟成が記念すべき節目と重なって、最高の贈り物となるのだ。
 心こもった食物は、忙しい日常にも節目を感じさせてくれる。「柿の葉寿司を食べる数日間は、晴れやかな気分でした」と言うのは下市町出身のKさん。柿の若葉が出る5月から、葉が固くなる直前の8月のお盆まで、農繁期や来客を見越しては折々に柿の葉寿司を作る。もっとも多忙なのは田植えで、親戚や近所からの助っ人が集まっての共同作業となる。そんな慌しい時こそ、柿の葉寿司の出番。「さあ作るで」との意気込みで、家族総出で準備開始。大量に炊いた酢飯を子どもが団扇で扇ぎ、女性陣が握る。寿司を大箱にきっちり詰めるのは父親の役目。最後に重石を置いたら、ほっと一息。皆で作る作業はなんだかんだ言って楽しいもの。熟成後しばらくは食事の心配をしないでいいのも嬉しい。そうやって迎えた田植えの数日間は、朝、柿の葉寿司と柏餅をもって出かけ、夕方まで帰らない。足に泥をつけたまま、手だけ洗って昼食をとる。葉で包んでいるので箸も椀も不要。老若男女みんなで土手に座って食べる。「昔は子どもも女性も重要な労働力。手植えだから大変なんですけど、嫌だと思ったことはないです。なんだか楽しかったですね。みんなの顔が見えて」。
 田の神を祀り、豊穣を祈って唄を歌いつつ手植えしてきた古の日本人。農家にとって重要な作業である田植えは、日常の中のハレとも言うべき華やいだ空気に満ちていた。豊穣のためには、神や御先祖に喜んでもらうのがいい。それには皆で和して楽しむのが一番。手伝い人へのもてなし、予祝としての御馳走。そんな晴れやかな田植え仕事の輪の中に、柿の葉寿司はあった。人と人、人と神をつなぐハレの日の時空。寿司はまさにハレをもたらす食物だったのだ。
「本当は明日の方がおいしいんですけどね」と、置いたばかりの重石を外してHさんが寿司を出してくださった。十日ほど前から鯖の塩を漬け込み直し、私たちを待ってくださったHさん。御主人は、朝から手作りのカキモチを炭火でじんわり焼きながら。柿の葉寿司もカキモチも、どんな言葉よりもお心を感じさせてくれる滋味にあふれていた。手間隙をかけることが苦労ではなく、むしろ喜びにつながること。思いやりの心を形にできること。柿の葉寿司は、そんな幸せな人々が作ってきた、エネルギーに満ちた食物だ。熟成されるのは、幸せを分かち合う心。それこそが、尊き神性なのかもしれない。


アジア食堂 Rupa からのお知らせ

 奈良盆地の東、奈良、三重、京都に広がる山間部は奥大和・元大和であり、巨石に関連する聖地や縄文遺跡が数多く存在しています。このエリアにご縁を感じる方には、お話をお伺いして、関連すると感じられる地へご案内します。宿泊も可能です。お気軽に遊びに来てください。 rupa@kcn.jp  0742-94-0804


名前のない新聞 No.149=2008年7・8月号 に掲載