イベント案内/報告

金子亘の作品

近藤直子のページ

リンク
リコーダーのページ


なまえのある家「Rupa」

大いなる和に輝く、火の花


金子 亘

 針のようにか細い線香花火から、世界一と謳われる四尺玉の打ち上げ花火まで、人の心をとらえて離さない火の花々。日本人にとって花火とは何なのか。消え去る火の粉が語りかける、永遠なる思い。夏の風物詩、花火の道程を辿ってみたい。
 花火の原料は火薬である。火薬は、生命を奪う武器にもなれば、心を奪う芸術にもなる。日本の庶民にとっての火薬は、時代を超えて多くは後者だった。海外で思い思いに鳴らされる春節のけたたましい爆竹ではない。それは何よりも、微かな煌めきに胸ふるわせる撚り花火であり、貴賤群衆が一同に息を飲む光の晴れ舞台であった。近代以降、世界一と表されてきた日本独自の繊細かつ華麗な花火。意外にも、その歴史は短期間に花開いた。
 花火の登場は、鉄砲、つまり火薬の伝来以降であるが、明確な発祥時期は定かではない。はっきり文献に登場するのは、徳川家康が江戸城内で明人に揚げさせた手筒花火である。竹筒に火薬を詰めて火の粉を噴く、いわゆる立火。現在のように発色剤もない時代のこと、華々しいものではなかっただろうが、筒から吹き出す火の光と動きに目を見張ったに違いない。
 以後、花火は急速に流布、約30年後には町中での花火や火薬製造を禁止するお触れも発布。が、続出する御法度もなんのその、潜在的な日本人気質の発露とばかりに、江戸時代、まさに花火熱に火がついたのだった。
 その火付け役となったキーパーソンが大和にいた。山深い篠原村(現・五條市大塔町)の木地師一党の集落に生を受けた、弥兵衛という男。五條の火薬製造所での奉公を経て、江戸に上り日本橋で小さな花火屋を構えた。現在も連綿と十五代も続く「鍵屋」の始まりである。弥兵衛が考案したのは、火花が飛び出す手持ちの花火。これが飛ぶように売れ、創業の年には幕府御用達の花火師となり、江戸の花火市場をほぼ独占したという。
 河口以外での花火が禁止されていたこともあって、夕涼みがてらで花火を楽しむ人々で賑わった大川(現・隅田川)。この川開きの花火が毎年の恒例行事になったのは一七三二年以降。前年の飢饉と伝染病による犠牲者の供養と、悪疫退散を願っての水神祭が初めである。この時の花火は鍵屋による立火と仕掛け花火。この川開き花火を契機に、大名おかかえの火術師はノロシの花火への応用を研究し、鍵屋などの花火師もノロシをヒントに大花火に挑戦するなど、花火は大いに発展を遂げることになる。
 川開きの大花火が一段と盛り上がりを見せるようになったのは、一八〇八年に鍵屋の番頭の清七が独立して「玉屋」を開き、鍵屋と技を競い合うようになってから。両国橋をはさんで上流では玉屋が、下流では鍵屋が陣取り、納涼舟や水茶屋の客がお金を払って花火を打ち上げさせた。どちらの花火屋のものかを紹介する意味もあって、「かぎやー」、「たまやー」の威勢良い掛け声が川面で叫ばれた。両国橋には見物客が鈴なり、花火はまさに夏の風物詩となったのだ。
 時代が下った幕末動乱期。安政元年の前後数年には休止された大花火であるが、明治元年には即座に復活。花火開発への情熱も再燃し、鍵屋の十代目弥兵衛は苦労の末、丸く開く花火の開発に成功した。明治初年、ここに日本独特の球状の打ち上げ花火が誕生する。

 この国の花火には、何かをお膳立てするための演出道具とは言い切れない何かがある。花火は主役そのものであり、人々はただ花火を愛でるためだけに、老いも若きも魅せられたように闇へと向かう。そこには、単なる娯楽と呼ぶにはあまりにも深淵な何かがある。
 イザナミのホトを焼いて生まれた火の神カグツチは、父であるイザナギに切られながらも、血の滴りから数々の火の神を生み出す。火にまつわる古事記の神話は、生死の神秘を端的に表している。木や石を打ち擦りながら、つまり母なる自然を破壊しながら、再生のエネルギーをもたらす火。先述した玉屋であるが、実は一代限りで江戸から姿を消している。原因は花火製造中の失火。町並み半丁ほどを焼いてしまう大火事を起こした罪により、江戸追放の重罪が課せられたのだ。代々、稲荷を信仰していた鍵屋。鍵屋稲荷の使いは、玉と鍵をもつ雌雄の狐である。鍵屋から独立する際、雌の稲荷の玉を与えられたことで名付けられた玉屋。火を生じて江戸を追われた玉屋は、カグツチを産んで常世へと追われたイザナミを連想させる。鍵屋だけの花火となっても気っぷ良く掛けられる「たまやー」の声。そこには、母なる玉を忘れ得ぬ子さながら、思慕の情すら感じられる。
 ところで海外の花火は筒型のため球状にはならず、さほど広がらない。方や日本の花火は、火花が四方八方に広がり、どこから見ても丸く球状に開く。そして中心の芯がもっとも明るく輝く。この特徴は、日本人の火に対する古層の潜在意識をあぶり出しているのかもしれない。一見相反する、かそけき線香花火と、大地を揺るがす打ち上げ花火。矛盾を感じることなく、私たちはいつも両者を愛しく感じてきたはずだ。
 その火の粉を浴びると災厄が除かれるという、東大寺お水取りの籠松明。正月過ぎの「とんど焼き」で、巨大な炎に火縄を入れては種火を持ち帰る人々。聖なる火は際限なく分かたれて、花粉の如く人々の霊魂に受粉する。カグツチの血の一滴一滴に、核となる聖火の分身としての霊力が等しく備わっている。常世から祖霊が帰る、盆にほど近い夏。闇に放散される火の粉は、幽玄不二の世界を現出させる。櫓を中心に輪になる盆踊りのように、あの世とこの世を超えて強まる霊魂の絆。新たなる再生の活力を付与する、大輪の花。巨大であればあるほど、末端の微少な火の存在も重要となる。大元の火は、小さく分断されるほどに枝葉が広がり、その恩恵を受ける人々を増やしては一体感を強める。どんなに小さく束の間であろうとも、すべての火花は等しく価値のある、大切な存在なのだ。
 大いなる和のもと、神は細部に宿り給う。

参考文献
細谷政夫・細谷文夫『花火の科学』東海大学出版会


アジア食堂 Rupaからのお知らせ

 奈良盆地の東、奈良、三重、京都に広がる山間部は奥大和・元大和であり、巨石に関連する聖地や縄文遺跡が数多く存在しています。このエリアにご縁を感じる方には、お話をお伺いして、関連すると感じられる地へご案内します。宿泊も可能です。お気軽に遊びに来てください。  rupa@kcn.jp 0742-94-0804


名前のない新聞 No.143=2007年7・8月号 に掲載