89.  大麻を放棄した男

 初めて大麻を吸い、その多幸感や浮揚感に感動し、夢中になって体験を深め、堪能し、愛好するうちに、警察がヤバイとか、ブツが手に入らないとか、酒の方が良いとかの理由で、次第に大麻を「卒業」するというのが、オールドヒッピーのパターンだった。
 ただしこの卒業は放棄ではない。放棄とは掌中の玉を自らの意志で捨てることだ。従って大麻を放棄したヒッピーなどいない。私の知る限り、大麻の至福を体験しながら、大麻を放棄した人間は一人しかいない。
 その男ヨコとは故郷の飛騨高山でハタチの時に出会った。私は昼間は製陶所に勤めながら、夜は市民サークルで絵画デッサンをやっていたが、ヨコもそのメンバーだった。私は土着の飛騨人だが、ヨコは父親の仕事で数年間高山に滞在していた関東系のヨソ者だった。     
当時は若者の国内大移動が開始される高度経済成長直前だったから、山国の学校ではヨソ者はクラスに1人いるかどうかという状況だった。ヨコと私は同級生だったが、中学も高校も学校は別々だった。約1年の交遊の後、再会を誓ってヨコは東京へ、私は京都へ巣立った。
 60年安保の年、街道似顔絵描きとして横浜に赴いた私は、ヨコの自宅を訪れた。そこは数人の人夫が宿泊する飯場を兼ね、父親は土建会社の社長だった。63年に高円寺の向かい同士の下宿とアパートに住みつき、一緒に美術研究所に通ってデッサンに励んだ。器用で描いていた私に比べ、ヨコは地味だが基礎を踏ま えた正確なデッサンをしていた。
 その翌年、女子大生の恋人ができやがて結婚話に及んで、ヨコは横浜の家業を継ぐために、結局は絵の道を捨ててしまった。私はライバルにふられた感じだったが、そのころ新宿ビートニックからドロップアウトを迫られていたから、ヨコとの訣別が後押しになったともいえよう。
 ヒッピーブームの波に乗り、放浪中の私は約3年振りに横浜のヨコを訪ねた。業界の試練にもまれ若社長なりの風格をつけたヨコに私は「休みの日にでも吸ってみな」と、大麻をプレゼントした。
 それからしばらくしてヨコを訪ねたところ、彼は大麻の包みを出して「1度だけ試したがもういらない」といって返した。その理由は「先日女房が喧嘩して家出したので、このチャンスにと大麻を吸ったところ、ものすごく効いてハッピーになった。ところが突然女房が忘れ物をしたといって帰ってきた。オレは喧嘩を したことなどすっかり忘れて、玄関に出迎え『やあ元気か!そうか、そうか、良かった、良かった!』と抱きついたので、女房が『ふざけないで!』と怒った。それを見たら可笑しくなって笑いが止まらないんだ。参ったよ!」とのこと。
 そして「大麻は感情のコントロールを不可能にする。これでは人を使えない。人を使えなくては社長は勤まらない。だから2度と大麻に手を出さないことに決めた」という。ひょっとしたら、大決心をして捨てた絵の道をやり直したくなるような危惧を感じたのかも。いずれにせよヨコは決然と大麻を放棄したのだった 。
 ヨコはその後、土建業界で実力をつけてのし上がり、PTA会長やライオンズクラブ会員など社会的名士となった。時々気まぐれに訪れる私を酒肴でもてなし、たっぷり路銀をはずんでくれた。ある時、息子たちが目の前で大麻を回し吸いしたが、ヨコはやっぱり吸わなかった。
 バブル崩壊時には会社が倒産、銀行の膨大な借金以外は全てを清算し、従業者の失業手当や子供たちの自立資金など配慮し、自宅とロールスロイスを捨てて、老母と妻を連れて夜逃げした。
 しかし間もなく発覚したが、その風格を買われて中国と日本の合併会社の社長に抜擢されて上海へ。引退後は指圧師になり、指圧治療の会社を築いて社長になり、今年の年賀状によればバリバリの現役で働いている。
 かくて40年余、大麻を放棄して社長を続けている男と、大麻を吸ってヒッピーを続けている男という対照的な人生、これもまた大麻をめぐるドラマである。 
                               (10.1.9)      ポン


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