86.  「友愛」はアメリカより北朝鮮が先だ

 

 アフガニスタンで「正義と尊厳」のために戦争をやっているノーベル平和賞のオバマ大統領が近く来日する。鳩山首相は「友愛」のため戦争に協力させられるのだろうか?
 来年2010年は日米安保条約の制定60周年である。日本が従属的な日米同盟を対等なものにするためには、アジアを味方につけねばならない。それなのに隣の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に対して、自民党政権は「拉致問題の解決なくして国交正常化なし」として、経済制裁を強化して対話を閉ざしてしまった。そこで北朝鮮は核実験やミサイル発射などで脅迫する。
 かくて「北朝鮮が攻めてくる」というマスコミ仕立ての被害妄想もあって、民衆は日の丸ナショナリズムを煽られ、ますますアメリカの核の傘にしがみつくありさま。これでは「核兵器廃絶」も日米同盟の子守唄である。
 来年はまた日本が朝鮮を植民地支配して100周年である。戦前の35年間に、創氏改名、土地の収奪、強制連行、従軍慰安婦、徴兵と徴用などあらゆる悪行、蛮行を重ね、戦後になっても64年間、北朝鮮に対しては何の償いも謝罪もせず、責任を取っていないのだ。
 民主党連立政権の新たな外交政策は、先ず北朝鮮への経済制裁を解除し、対話路線を復活させ、過去の歴史と向き合い、誠意ある謝罪と償いをして、国交正常化による拉致問題の解決を図ると同時に、40年前、日朝間の橋渡しをせんものと、「よど号」ハイジャックで北朝鮮へ亡命した元赤軍関係者らの帰国を実現すべきである。
 日朝関係の悪化する中で「よど号」関係者と家族の帰国は、今年1月で子供たち20名全員と母親、父親の計26名が終了。残るは「よど号」本体の4名と女性2名の6名のみとなった。しかし日本の警察当局はこのうち3名を「誘拐罪」の容疑をでっち上げて指名手配し、帰国のハードルを高くしている。このハードルのある限り、北朝鮮側は亡命者たちを庇護し続けるだろう。
 新政権の国家戦略は先ずこのハードルを外し、「よど号」関係者6名の帰国の橋渡しをして、北朝鮮との対話を再開し、国交正常化を経て、鳩山ビジョンの「東アジア共同体構想」を実現していくこと。然る後に、日米同盟を対等化し、沖縄から米軍基地を撤退さすべきである。
 
 このたび「よど号」関係者の帰国支援センター「かりの会」の機関誌『かりはゆく』の編集部から「あれから40年、思い、あれこれ」というテーマで原稿を依頼されたので、初めて自己紹介を兼ねて寄稿した。以下に全文を紹介しておきます。

    ── あれから40年、思い、あれこれ ──
        [縁もゆかりも明日のジョー] 

 「我々は明日のジョーである」と言い遺し、赤軍派9人組が「よど号」をハイジャックして、北朝鮮へ消えたということを私たちが知ったのは、事件から何日か後のことだった。
 なにしろ沖縄返還までトカラ列島ではテレビが映らず、新聞は週1便程度の連絡船によるしかなかったのだから。
 今から40年前の私たちは、絶海の活火山島諏訪之瀬でヒッピーコミューンを営み、サイケデリックな意識変容実験に挑んでいたのだ。従って「よど号」事件に、革命のリアリティなど感じるはずがなかった。
 高度成長路線を突っ走るモーレツ日本に、アンチを唱えながらも、60年代の全学連から全共闘への新左翼運動と、ビートからヒッピーへのカウンター・カルチュア運動は、その発想から行動までがことごとく相異し、お互いに「縁もゆかりもない連中」だった。
 しかし、それから3年後沖縄返還による本土大資本による琉球弧侵略・乱開発の波は、ヤマハレジャーランド計画として諏訪之瀬島を襲い、コミューンは解体。私たちは東京を拠点に「ヤマハボイコット運動」を展開した。
 楽器のヤマハには音楽で対抗しようと、アングラ・ロックミュージシャンによるフリーコンサートを連発、ボイコットを訴えた。この運動で知り合ったあるミュージシャンから「よど号グループ」の中に、かつてのバンド仲間がいると聞き、多少の縁があることを知ったが、左翼アレルギーは強かった。
 75年に私たちは奄美大島の石油基地計画の現地に、無我利道場というコミューンを築き、戦う島人たちと反対闘争を担った。この住民闘争を通して、私たちは否応なく共産党や社会党などの旧左翼、関東奄美青年同盟などの新左翼と共闘し、更に沖縄、九州、三里塚などの地域闘争や市民運動にも連帯、交流の輪を拡げ、左翼アレルギーを克服した。
 しかし住民闘争も市民運動も非暴力が原則であり、過激武闘派とは一線を画していた。ところがバクトリ(爆発物取締法)で指名手配中の女性を、無我利道場で匿ったことが起縁となり、やがて彼女が逮捕され、私も警視庁に逮捕された。
 奇しくも天下の悪法バクトリ制定百周年の84年、私は東京地裁にてバクトリ違反で執行猶予付きの有罪判決を受けた。そこで私は東京に留まり、バクトリ救援会に加入し、東アジア反日武装戦線や道庁爆破事件の死刑囚や重刑囚と面会し、折から控訴審判決を前に、支援、救援運動の盛り上がりを手伝った。
 一方、奄美の石油基地闘争は勝利し、徳之島核再処理工場計画はダミーと判明した。私はアメリカ先住民運動の要請により、奄美を出て30年ぶりに飛騨高山にUターンし、故郷の聖地位山に、ナバホ族のメッセンジャーを迎え、母なる大地に祈る集会を催した。
 私のUターンを前に、救援連絡センターの山中幸男事務局長から「北朝鮮の『よど号』グループと文通してみないか」と勧められた。そこで昔「よど号」グループの一人とバンドを組んだというミュージシャンから「若林盛亮」の名を聞き、彼あてに手紙を出した。
 それからしばらくして、奥飛騨山中の村営バス終点付近の小屋の壁に、色褪せた選挙ポスターとならんで、「国際指名手配 田宮高磨」の笑顔のポスターが貼られていた。
 還暦の翌年、私は呼吸不全から酸素吸入器付きの身となり、21世紀開幕と同時に飛騨を出て、娘たちの世話になりながら関東平野の片隅に独居、もはや煙を吸えない肺ながら、ライフワークの大麻解放運動を続けている。 
 若林君の手紙にはいつも末尾に「会えるその日を楽しみに!」とあるが、海外旅行の不可能な私にとって、「明日のジョー」に会える楽しみとは、何を意味するのだろうか?
 とはいえ、いかに不遇な出会いであれ、縁ある者とのめぐり会いは祝福である。それはお互いの人生を鼓舞するだろう。
                              8月28日
                                ポン(山田塊也)
(追記)
 若林盛亮君が所属していたバンドは「裸のラリーズ」。74年のヤマハボイコット運動のコンサートでは常連だった。暗くハードな演奏はバツグンで「御殿場花まつり」ではトリを勤めた。しかしリーダーの水谷たかし君と私は個人的なつき合いがなく、75年以降は交流が途絶えた。一時は坂本龍一などと共演していたようだが詳細不明。
                                   09.10.28


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