6.インドの大麻道(上)

 わが国で初めてマリファナ・パーティが開かれ、私たちT新宿ビート族Uがフレンチビートの持ち込んだマリファナにぶっ飛んでから40年の歳月が流れた。勿論1966年以前にも、米軍基地の労働者やジャズマンなどが個人的には体験していたが、運動集団としてのマリファナ・シーンは新宿に始まったのだ。
 そこで日本における「マリファナ一世」である私たちは、マリファナがわが国にも昔からあった大麻であることを知ったのだが、吸う文化のなかった日本では研究の術がなかった。
 従って私たちの大麻やLSD、サイケデリック、変成意識などの情報や知識は、もっぱらムーブメントの中心であるカリフォルニアからの輸入に頼った。ところが唯一の別ルートがあった。それは日本ヴェーダーンタ協会が発行している月刊小冊子『不滅の言葉』に連載されていた「ラーマクリシュナの福音」である。(注)
 ラーマクリシュナは19世紀後半、西ベンガル地方の伝統的精神風土から生まれた近代ヒンドゥ教の最高の聖者である。彼は正規の教育を受けなかったので文盲だったが、ヨガの修行によって日常的にサマディ(三昧)に没入し、あらゆる人々に自らの教えを語り、多様な宗教の同一性を説いて、後世に多大な影響を与え、「第二の仏陀」とまで言われている。晩年の会話を収録した『福音』では、たびたび例え話の中で大麻にふれ、それを霊性を高めるものとして、ポジティヴに語っている。

  「人は霊性の修行を実践しない限り、聖典の意味を理解することはできない。口       
 先で『大麻、大麻』と言ったところで何になろう。大麻を肌にこすりつけても酔い  
 はしないだろう。それを飲まなければだめだ」

  「ある人は大麻を吸うためにたびたび修行者たちのところへ行く。大勢のサドゥ
 が大麻を吸うだろう。在家の人たちは彼らのそばにいて大麻を準備し、おさがりを 
 相伴するのだ」

  「在家の人は例えどのような職業についていても、時々サドゥたちと一緒に暮ら
 すことが必要だ。人はもし神を愛していればおのずからサドゥとの交わりを求める 
 ようになるものだ。大麻吸いを例にとろう。大麻吸いは大麻吸いと仲間になりたが
 る。吸わない人を見ると伏目になって行ってしまうか、そうでなければ片隅に身を
 隠してしまう。ところがもし大麻の常習者に会えば彼の喜びはたとえようもない。
 二人はたぶん抱き合うだろう」(笑)

 サドゥというのは世俗を放棄し、過去を断ち、托鉢をしながら聖地を巡礼し、ヨガを修めて神との合一をめざす出家修行者のこと。大麻は彼らにとって瞑想と儀式に不可欠の霊薬であり、それは在家の人々のバクシーシー(喜捨)によって賄われていた。
 多神教であるヒンディイズムには沢山の宗派があり、サドゥの大麻道には正系も異端もないが、大麻の守護神が破壊神シヴァであり、その呪文が「ボン シャンカール」であることは全てのガンジャ吸いが認めるところだ。

 [初めてのインド 71〜72]
 大麻を吸えば吸うほど、私はラーマクリシュナの言葉に感動し、納得し、ついには信仰し、大麻文化の発祥地インドへ行って、サドゥという人種と一服やってみたいという気になった。ラーマクリシュナの時代から1世紀を経ていたが、いまだインドには大麻道のグル(導師)のようなサドゥがごろごろいるというヒッピー情報もあった。
 実のところ私が初めてインドを訪れた70年代初めの頃は、まだガイドブックも地図もなく、ヒッピーたちのクチコミだけが頼りだった。マレーシアのペナン港から船で一週間、マドラス港から上陸した私と彼女は、早々と公園のホームレスたちに歓迎されてガンジャのイニシエーションを受けた。チロムが回る間、数名の少年が見張りに立っていた。
 カルカッタでは祭りの日、下町の広場で太鼓のコンサートを見物していたところ、町内会長らしきおっさんが近づいて来て、そっとチロムを渡すと「ジャイ マー!」と言ってマッチを擦ってくれた。マーは母なる女神カーリーのこと、カルカッタの名の由来でもある。
 ヒッピー全盛期とあってカトマンズはどの茶屋もレストランもロックが鳴り響き、大麻の煙が渦巻いていた。ガンジャ・ショップには国王の推選状が掲げてあって、ガラスケースにはネパール各地のガンジャ、チャラス、オピウムなどが陳列されているなど、まさに大麻王国だった。これに対してインドの場合は既に国際条約による大麻の規制を受けており、ガンジャ・ショップは州立の専売公社が経営していた。しかし1級品はブラックマーケットにしか無かった。そこでプッシャー(密売人)とヒッピーとの掛け引きが行われるのだ。州によって取締まりの相違はあるが、ガンジャは庶民生活の中にそれなりの地位を占めていた。
 独立後4半世紀、西洋化の進んだインドでは、上流階級はシガレットとスコッチ。大麻は下層底辺や犯罪者用のいかがわしい物として差別されていた。しかしそのいかがわしさの中に精神文明のエッセンスがあり、宗教もまたサドゥの巡り歩くそこにしかなかった。
 悠々たる大河の畔や大樹の陰で、都会の公園や田舎の茶屋で、サドゥを囲んだ地の民と旅人ヒッピーたちがチロムを回す心のなごむ風景を見た。思えばあれが、旧き良き時代の最後の残照でもあったか。そこで旅人は憧れのサドゥとチロムを交しながら、このような不思議な人種が野良牛と同じように悠々と生きている優雅な国に、深い畏敬の念を覚えるのだった。

 [サスケのグル]
 サドゥと在家信者と大麻という三位一体の原基形態について語っておこう。この話は初めてゴアへ行った時に出会ったTサスケUという日本人ヒッピーから聞いた話である。サスケはしばらくサドゥの弟子について、大麻道を修めたのだった。
 サスケのグルは山を越え、荒野を渡り、村や町にたどり着くと、一番見晴らしの良い場所を選び、そこに坐って終日ラーマ神のマントラを唱えているそうだ。住民たちはサドゥの存在に気づき、その風格を評価し、やがて悩み事を抱えた男が恐るおそる相談に近づく。するとサドゥはガンジャとチロムを持って来いと言う。
 悩める男が注文の品を買い求めて戻って来ると、サドゥはガンジャを掌にとって揉み、素焼きのチロムにつめると吸い口に濡れた布を巻いて両手で身構え、マッチを擦るよう促した。男がマッチを擦ると同時にサドゥは「ボン シャンカール!」と唱え、深々と吸い込んだ。チロムは男に渡され、吸われ、再びサドゥに渡り、ガンジャが補給され、両者の間を3度、4度交換された。
 ガンジャの煙りと香りが立ちこめ、陶然と効いてきた頃サドゥの誘導に乗って、男の悩みは煙と共に吐き出される。それは事業の破産であったり、子供の死であったり、女房の浮気であったりと、世俗の不幸に限りはなく、人間の煩悩が尽きることもない。今まで決して他人には語らず、独り悩んで来たことも相手が世俗を超越したサドゥであれば、ガンジャの乗りも手伝って、堰を切ったように思いが奔流し、心の内を涙ながらに押し流し、ついに語る言葉も尽きた放心状態の時、静かに聞いていたサドゥが突然手にしていたチロムを地面に叩きつけた。
 「パチーン!!」と素焼きの破片が飛び散る中で、「アッ!?」と驚く男の虚を突いて、サドゥが怒鳴る。
 「いったい、おまえをそのように苦しめておるのは何者じゃ? 誰がやっておるのじゃ?」
 度肝を抜かれて呆然としている男に、サドゥは静かに優しく、しかし皮肉な微笑を浮べて囁くのだった。
 「いいかな、それらはみんなラーマがやっておられるのじゃ。全てはラーマの思召しなのじゃ…シュリー ラーマ ジャイ ラーマ ジャイ ジャイ ラーマ…」
 しばらく呆然とマントラを聞いていた男も、やがてつられるようにラーマの名を唱え、手を拍ち、クスクス ゲラゲラと笑い出し、ついには歓喜の涙に濡れながらマントラを歌い、狂ったように踊り出すのだった。
 何処へ行っても、誰を相手にしても、どんな悩みに対しても、サスケのグルはこのワンパターンで対処し、解決した。簡単なようだが、相手の悩みを聞き終え、使い捨ての素焼きのチロムを叩き割る絶妙のタイミングこそが、この大麻道の極意なのだとサスケは悟った。そのサスケは今は何処でどんな大麻道をやっているやら。姿を消して30年来の音沙汰なしだ。
 カースト体制からドロップアウトし、「アウトカースト」という不可触賎民(アンタッチャブル)の視座を得ることによって、サドゥは路傍のカウンセラーとして崇められ、ヒンドゥ教の霊的な教師になっていたというパラドックスこそが、ヒンドゥ・システムを支えて来たのである。そしてこのサドゥと在家信者と大麻という三位一体が崩壊した時、インドに何が起こったか?
 余談ながら、旧バラナシ駅前の陶器屋には小型で素焼きのチロムが小山のように積み上げられていて、「この聖都では子供までガンジャを吸うのか?」と、旅人の度肝を抜いた。その素焼きのチロムがチャイ用の素焼碗と同じように使い捨てだと知ったのは、サスケの話を聞いてからだ。

 (注) 日本ヴェーダーンタ協会  神奈川県逗子市久木4−18−1  電話0468−73−0428


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