56. 「山水人」を祭って

 台風一過の9月20日、昨年と同じカツの車で朝8時半に出発、中央、名神と高速を飛ばし、ビワ湖北岸を経て、朽木村の祭会場に到着したのが5時半、9時間の道中だった。
 朽木サンガ・ファームの母屋で、主催の祖牛と、事務局長の一本に挨拶、8月末に祭がオープンして3週間、レイヴ・パーティなどの警察トラブルもなく、順調に進んでいるようだった。スタッフのうち、ロクローはいたが、タカちゃんがいなくてがっかり。
 母屋の隅の小部屋に、酸素吸入器が設置してあり、今年もそこが4日間のポン用ベッドルームだ。母屋の前の広場は昨年はぬかるみだったが、今年は土を固め、テントを張って、スタッフと客人用の共同食堂になった。近くでは焚火を囲んで、中野のオッチャンやナナオ、そしてリーさんもいた。
 谷川を遡ってステージ会場までの小道には、様々なバザールが並び、杉林の中はテント生活で賑わう。巨大なステージ広場の正面に構えたアキの「カフェ・マヤ」には、先日閉店した「ほら貝」の看板が飾ってある。「花フェナ」のサッちゃんに会って、焼酎を一杯やっていると、四国のモク、ナダ、トシなどがやって来て、これから「ふんどし学会」がキャンプファイヤーに点火するという。暗くなる頃、数10人の裸男のタイマツ・パフォーマンスは仲々迫力があった。
 ステージでは久々に見る虫丸と姫の舞踊が、公成さんの音と共に良かった。そして伊藤耕の迫力ある声は久しぶりだ。プンプンたる不良臭さが筋金入りのロックンローラーを感じさせる。久しぶりと言えば、渡辺眸さんに会った。「ヤマハボイコット運動」の時、諏訪之瀬島の写真を撮ってくれたカメラマン、只今京都で個展開催中とか。
 今夜はオールナイトと聞いたが、9時前に雨が降り出したので、モンの歌を途中まで聞いて母屋に帰った。

 21日は1日中雨だった。母屋からステージまでの道はぬかるみとなり、長靴を持参していて助かった。しかしヨシダミノルさんは雨の中で絵の展示をしていた。
 昼間はカフェ・マヤに坐って、訪ねて来る人たちと話した。サヨコ、イサム、キヨシ、コマツ、ジャン、ウッチャン、アク、など…。
 夕方6時半、ポンの詩の朗読、ついでに『週刊金曜日』9.26号に投書したエッセイ「大麻汚染と神宮大麻」を朗読し、説明を加えた。マントラ「シャンカラ・シヴァ」は約2年ぶりに、せいかつサーカスの鳴物入りでやった。
 せいかつサーカスの後、ビンとサユリ一家の「THE FAMILY」が、「ハラ・ハラ・マハデーヴァ」の讃歌を歌ったのは懐かしかった。彼らとは16年前、娘たちとインドを旅した時、カルカッタで出会っているのだ。

 22日朝方、場内ラジオ局に案内され、昨夜ステージでやった通り、大麻詩の朗読と大麻の話をした。今年の「てのひらまつり」では、大麻詩の朗読や大麻の話は、自己規制せざるをえなかったのと比べると、山水人における発言の自由、祭り主権の確立は大きな勝利である。
 午後のステージではランキン・タクシーが大麻について正論を語り、大いにうけていた。こういう確信犯的な芸達者をパクったら、大火傷をすることくらい権力も知っているのだろう。今年は同日、立山(富山)と吉野(奈良)で祭りが重なった。吉野ではドラマーの森たけちゃんが大麻でパクられた。
 夜の部は母屋近くの文殊院というイベント会場で、ザ・ファミリーの「バジャン」があり、誘われたので一緒に「シャンカラ・シヴァ」のマントラと、「ハリ・クリシュナ」「ハラ・ハラ・マハデーヴァ」などの讃歌を唱った。シャンカラ・シヴァは始めと終わりに2度唱ったが、自分でも驚くほど大きな声が出た。なにしろ家で唱える時は、近所への遠慮もあって、小声で数分間唱える程度。こんな大声を出すのは祭りのステージ以外にない。まさに1年ぶりの絶唱だった。酸素吸入器などウソみたい。(笑)

 23日は快晴秋風、ぬかるみは見るみる乾いた。ステージ広場で開店中のアーチとミズエ、ミネとケージの店に坐ったりしてよもやま話。午後は文殊院で、85歳のナナオに対して、70代のポン、60代のサワ、50代のボブが問いかける座談会。きのう今日の記憶は定かでないが、昔のことは良く憶えているナナオは、戦時中は鹿児島の出水空軍基地のレーダー係をしていた。沢山の神風特攻隊を見送ったが、誰一人として「天ノーヘー下バン歳」などとタテマエを言う者はいなかったという。この対談は『なまえのない新聞』が録音を取ったので、いずれ内容を伝えてくれるでしょう。
 さて、長丁場の山水人のラストステージ。夕方、ボブの歌は、ナナオ、ナーガ、サワなど長老たちの詩に作曲したものを特集。ポンの詩は「ローリング・ドラゴン」と「ひょうたんポン」の2曲。そのあとナナオの詩の朗読は渋く決まった。リクエストしておいたフリーソングは出なかった。忘れたのだろう。
 ステージ前の広場には櫓が組まれ、盆踊りの歌者2人と太鼓1人が登場し、地元の盆踊り歌を唱ってくれた。2人共年配の男性だが渋い声に小節が効いてさすがだった。踊りの指導も地元の婦人達が参加していたようで、スタッフの中には踊りを覚えた人たちも沢山いたようだ。朽木サンガ・ファームを通じて、朽木村に入植し、定住した新住民もすでに何人かいるとか、山水人の後は稲刈り祭りが催されるから、また新しい仲間が増えるだろう。
 いずこも同じ過疎老齢化する村落共同体にとっては、オルタナティヴな生き方を求めて入植して来る若者たちとの交流こそは、起死回生のチャンスなのだ。40年前、ヒッピームーヴメントが実験し、挫折したことを、改めて今、同じ流れの中で再現しているのだ。ただし、今度はちょっとばかり計画的に。
 私が祖牛に初めて会ったのは、「ヤマハボイコット運動」の結果である75年4月の「御殿場花まつり」の時だ。比叡山の坊さんだった彼は、大麻事件でバッシングされ、墨染めの衣で太鼓を叩いていた。今回初めて知ったのだが、山水人で使っている大量の食器、炊事用具、家具、ふとん等は、20年以上も前、彼が解体屋をしていた頃、廃屋から集めてキープしておいたものだと敬子さんから聞いた。
 実に20年以上も前から、エコビレッジの建設と共に、山水人の祭りを企画、準備していたと知って、長年コミューン運動や祭りの仕掛人をやってきた私は驚き、感心した次第。私のやり方はいつも出たとこ勝負的だった。
 
 盆踊りの後、ステージではザ・ファミリーがフィナーレを演じたが、盆踊りで火がついた踊りの勢いは、「ハラ・ハラ・マハデーヴァ」で再燃し、半端では終わりそうもなかった。再び雨が降り出したが、泥んこになって踊る者たち。そこで「とどめの一発」とばかりにステージに上がり、ビンやボブ、ケンボーなどとも示し合わせて「シャンカラ・シヴァ!」の大合唱、全員発狂寸前の大爆発となって、今年の山水人の祭りは目出たく上がった。
 かくて、破壊神シヴァを讃えて唱い踊った山水人たちは、機の熟した時(カーラ)である今、迫り来る金融破綻と資本主義体制の崩壊に、金持ちたちが狂い死ぬのを弔い、自ら仕掛けた罠にかかって、権力者たちが悶絶するのを弔い、滅亡する大量消費文明と株式会社を弔うだろう。
 そこで、山水人意識で連なるエコビレッジは、浄化された大地にサバイバルの種子を蒔いて、自我と宇宙の秘密に迫るだろう。おお、シャンボー・マハデヴァ!ここまで来たら行くしかないのだ シャンカラ・シヴァ!!

                                 (9.28)                          


| HP表紙 | 麻声民語目次 |