55. いざり車のいざりたち(ビバ・フリークス第6話)

さしえ

 車椅子という便利でスマートな道具が普及した現今、映画や写真や絵本などで見た人はいるかもしれないが、「いざり車」の実物を見た人は、ほとんどいないだろう。私も見た憶えはないが、日本にも昔はあったはずだ。勿論インドでは特別に珍しい存在ではなかった。もっともそれは、乞食専用という感じだったが。
 人間一人が座れる程度の板切れに4個の車輪をつけただけのいざり車は、人類が発明した最古の乗用車であり、足萎え人の足の代わりに車輪を利用した医療器具として、世界中どこにでもあったはずだ。
 10年程前、「ダニー・スケボーに乗った天使」という映画があった。スケボー(スケートボード)で旅をする両脚のない少年の物語だ。いざリ車はスケボーに似ているが、スケボーのように前後左右全方向へ進行することは出来ず、前進か後退だけだ。動力はもっぱら両腕の力による。手が足の代わりに地面を漕ぐのだ。
 92年春、南インドの新興都市バンガロールでいざり車を見た時、私は15歳と13歳の娘を連れていた。娘たちの母親とは既に離婚し、私は10年ばかり転々として、娘たちと十分なつき合いも出来なかった。そして今、登校拒否のまま巣立ちを前にした娘たちに、インド世界を見せておきたかったのだ。
 私たちは大通りに面したホテルの3階から交差点を見下ろしていた。片側3車線の広い道路の信号が変って、トラックやバスなどが停車し、通行人が横断歩道を渡りはじめた。その中にいざり車を発見した私は、娘たちにいざり車の存在を教え、注目した。
 通行人たちの先頭が渡りきった時、いざり車はまだ半分にも達していなかった。私たちの方からは後ろ姿しか見えなかったが、白髪頭のいざり男が、必死になっていざり車を漕いでいるのが分かった。やがて信号が点滅し、通行人たちは小走りに渡りきったが、いざり車はまだまだだった。
 そしてついに信号が変った。次の瞬間、待ち構えていたトラックやバスがいっせいにスタートするものと思ったが、一台も動かなかった。あらゆる運転手がいざり車が渡りきるのを待っていた。短いが不思議な一瞬だった。交差点の全ての車と通行人が静止したまま、全員の注目がいざり車に集中したのだ。
 その時である。必死にいざり車を漕いでいたいざり男が、突然片手を高々と挙げて運転手たちに挨拶し、観衆に手を振ると、まるで凱旋将軍か、花形スターのように、悠然と渡りきったのだ。
 天下の公道では金持ちのロールス・ロイスも、乞食のいざり車も、車であることにおいて平等である。そして横断歩道とは、いざり車の花道であった。
「カッコ良い!」と娘たちは唸った。

 それから一週間ばかりして、もう一つの文教都市プーナでのこと。娘たちと街を歩いていて、雑踏の中にいざり車を見かけた。まだ20代半ばのいざり男で、髪もヒゲもヒッピー風だった。彼は萎えた両脚をいざり車の上に組んで、その上に1歳くらいの赤ん坊を抱き、片手で支え、もう一方の手でいざり車を漕いでいたが、車には紐がついていて、5歳くらいの娘がそれを引っ張っていた。
 父子3人一体になったいざり車に感心し、私たちが近づいたところ、先方も私たちの存在に気づいて車を止めた。私の方が10年の先輩というだけで、2人の子どもを連れたフリークという点では境遇は同じだった。
 日本でもインドでも、フリークが自分の子種を産んでくれる女性に巡り合うことは大変な幸運である。世間の目や口に負けないだけの信念と愛情を持った女性なんて、ざらにはいないからだ。ましてインドの乞食世界のように、嬰児のうちに腕や脚を切断されて、一族の犠牲にされる、フリークスさえいる過酷な世界で、成人して父親になるという幸運は奇跡に近いだろう。そのような稀な幸運を射止めたフリーク男同士として、私たちは相まみえたのである。
 近くで見ると、いざり男の顔は意外なほど端正で超然とし、その眼は乞食の眼とは思えなかった。紐を曳く小娘も、膝の上の赤ん坊も、乞食の子にしては小綺麗だった。彼らはまるで自分の領地を見廻る玩具の国の王様一家のような、ゆとりと気品に満ちていた。
 例え足萎えの乞食でも、自家用車を所有するということは、やはりエリート意識を満足させるのだろうか。私はバクシーシーを恵む気になど毛頭ならず、敬意をこめて会釈した。 
 するといざりの王様も軽く会釈を交し、裸足の王女様を促すと、カタコトと優雅に去って行ったのである。
 娘たちは言った。
 「インドでは、なにもかも漫画みたい」
 「だからカッコ良いのよ」


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