51. 創立40周年「ほら貝」の閉店

 8月2日、国分寺の喫茶「ほら貝」へ久しぶりに行った。夕方7時頃から懐かしい仲間が続々とつめかけ、司会のボブが歌い、ナナオの詩の朗読が始まる頃には数10人の満員になった。
 歌い手はジュゴン、ジュン、サクと続き、「雨にも負けず」「あなた求め」「風に吹かれて」など、往年のヒット曲を歌った。そこで予定外だった私も詩「麻里花の花」を朗読し、これに曲をつけたボブと合唱し、おまけに「シャンカラ・シヴァ」のマントラをやって、「ほら貝」への感謝を表した。
 わが国初のロック喫茶として、1968年に創立開店した「ほら貝」が、40周年を迎えた今夏をもって閉店することになったので、この日は元ヒッピーたちが集って、長年の労をねぎらい、名残りを惜しんだ。この日顔を見せた元「部族」は、サタン、ミロ、アキ、リューゴ、ヤー、マリ、ミチ、エヘラ、ソーキ、ハス、ハワイのクリス、そして「部族」の友人でありながら一線を画してきた、サワ、デビッド、トラオなどだ。
 「サマー・オブ・ラヴ」と呼ばれた67年夏以来、全世界を席捲したヒッピーブームは、日本でも同時発生し、コミューン運動「部族」は、信州富士見高原の「雷赤鴉族」、トカラ列島諏訪之瀬島の「バンヤン・アシュラマ」、東京国分寺の「エメラルド色のそよ風族」の3ヶ所が発足した。
 高度経済成長の体制社会をドロップアウトして、旅とコミューン作りを開始したヒッピームーヴメントには、ロックとマリファナという強力な武器があった。「ほら貝」はロックという革命的な音楽を、多くの若者たちに紹介するために、「エメラルド色のそよ風族」が、国分寺に築いたヒッピー砦だった。
 当然のことながら、権力側にも目をつけられ、68年初夏「ほら貝」の開店と前後して、警察は「エメラルド色のそよ風族」を家宅捜査し、山尾三省など5名を、大麻取締法違反で逮捕し、わが国初の大麻弾圧事件となった。しかし検察側にはまだ公判を維持するだけの資料がないため、起訴猶予となったが、マスコミは「ヒッピーは麻薬常習者」というスキャンダラスな記事を大々的に報道した。
 国分寺本町の裏通りにあった「ほら貝」は、カウンターに数人、ボックスに10人程度で満席だったが、コンサートなど催すと数10人が押しかけ、客は通りにまであふれ、ムンムンたる熱気の中で芋焼酎を呑んで、口角泡をとばして議論に夢中になった。
 6〜70年代のマスターは、三省、カド、ナモ、サタン、ジュゴンなど沢山の仲間が、2人づつ交替で勤めていたが、80年代になるとサタンとヒロに定着し、サタンの料理が「ほら貝」の味になった。そして80年代末に、現在の2階の店に移転してからは、ヒロが1人でマスターを勤めてきた。
 客質はヒッピー、フリークスの70年代から、80年代以降は学園都市国分寺らしく、学生たちがほとんどだったが、カウンターはフリークな旅人やミュージシャンたちが常連だった。私は東京へ行けば真先に「ほら貝」を訪れ、仲間たちの近況を知り、ただ酒を呑ませてもらい、ヒロの家に世話になった。
 1993年の「ほら貝」25周年記念は、国立音楽会館ホールで詩と歌のイベントを催し、三省、ナーガ、ポンが詩を、ボブ、ジュゴンが歌をやって、約200人の観客を集め、2次会は元部族のメンバー数10人が、朝まで飲み明かした。
 それから更に15年、かつてはヒッピー系が立候補すれば、市会議員2名は確実と言われた国分寺市も、駅ビルが建ってクリーン化が進み、フリークスの数もめっきり減り、学生たちもこのところ酒ばなれし、酒を呑んで話し合うという風潮が若者たちから失われたとか。ヒロの話では「最近の学生は良い成績を取って、良い就職をすること以外に興味がないようだ」とか。そして最近の「ほら貝」は赤字になる月さえあるとか。
 「ほら貝」の閉店は、ヒロが北海道のオフクロの介護をするためという個人的理由だが、「ほら貝」そのものが存在理由を失ったとも言えるだろう。
 そう言えば、今年6月に催された「第3回てのひらまつり」は、主催者もスタッフもロス・ジェネ(失われた世代)(25〜34歳)で、1000人を越す盛況だったが、この「ヒッピー系」のイベントに、20代前半から10代後半の「ポスト・ロス・ジェネ」(超・失われた世代)が、果してどの程度いたのだろうか?
 戦慄すべきことだが、ついにヒッピー的なものと完全に断絶した世代が登場したのではないのか?
 なお「ほら貝」は8月末まで営業します。やがて神話と化す前に現実の「ほら貝」へぜひどうぞ!!
                                   (8.4)


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