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第1章 ヒッピー前史

 

さしえ

[ビート 又は ビートニック]

 今から41年前の1967年、世界的なヒッピーブームが巻き起こったとき、戦後のベビーブーム世代、日本でいう「団塊の世代」はハタチだった。そして私は30歳だったから、ヒッピーとしては年長の方だった。
 言うまでもなく、ヒッピーは突然ゼロから大量発生したわけではなく、「ヒッピー前史」とも言うべき、熱狂と苦難の「ビート 又は ビートニック」の時代があったのだ。
 戦後いち早く高度経済成長を成し遂げたアメリカでは、すでに1950年代に、アレン・ギンズバーグの長詩「咆える」や、ジャック・ケルアックの小説「路上」などのビート文学が、物質文明に対する鋭い警告を発していた。
 60年代にはヨーロッパに次いで、日本も高度経済成長の大波に乗り、オリンピックに向けて東京が厚化粧を始め、国家も国民もカネとモノに狂って行く頃、「ヤバイ、この流れに乗ったら身の破滅だ」と直観して、社会体制をドロップアウトし、リックひとつでヒッチハイクと野宿の旅に出て、髪もヒゲものばしっぱなしで、夜の新宿に舞い戻って焼酎を呑み、詩を読む無頼の若者たちがいた。
 それは「新宿ビートニック」という、ほんの一握りの前衛たちだったが、彼らの存在なくしてコミューン運動「部族」はなく、ムーヴメントが無ければ、ヒッピーの発生は一過性の現象で終ったことだろう。
 従ってヒッピー・ムーヴメントを語るためには、そのオリジンであるビートニックについて語っておかねばならない。そしてビートニックとは、ムーヴメント以前は徹底的に個人主義者だった。そこでここでは1人の若者をモデルに、彼が新宿ビートニックと出会い、自らもビートニックになって、ヒッピームーヴメントを準備するに到るプロセスを語っておこう。モデルとは言うまでもなく語り部たる私「ポン」である。

[飛騨から 新宿へ]
 
 私はアメリカが大麻禁止令を定めた1937年に飛騨高山に生まれた。金持ちのボンボンだったが虚弱体質で、日本が大麻取締法を定めた1948年に、結核性の脊椎カリエスを患い、2年後にやっと死線を脱出したが「せむし」というフリーク(障害者)になっていた。
 山田家は戦争で財を失い、道楽者のオヤジは無能、オフクロの行商で一家6人が食いつなぐ状態だったので、長男の私は高校を一年で中退し、地元の製陶所で3年間も茶碗の絵を描いた。21歳で京都へ出て、友禅染のデザイン会社に2年、合計5年間も職人的サラリーマン生活をやった。退職金2万円はパチンコで一日でスった。
 60年安保の京都河原町の街頭に立って、似顔絵屋を開業、翌年からは横浜伊勢佐木町にショバを移し、東横沿線に3帖の部屋を借り、昼間は美術研究所で基礎デッサンをやった。画家としての立身出世に燃えていたのだ。
 63年に高円寺に引っ越し、油絵具を使って絵画の制作に取り組むと同時に、ついに新宿に進出した。当時は歌舞伎町に闇市時代からの古参の似顔絵描きが数人いたが、私は彼らからうんと離れた伊勢丹デパート前などに1人で立った。
 関西、関東から東北の大都市などの街頭に立った経験から、気分はすでにアウトローだった。従ってたいがいの人間にはビクともせず、チンピラ、ヤクザ、酔っぱらいなどの扱いは心得ていたが、新宿だけは気おくれがした。60年代の若者の街といえば、渋谷でも六本木でもなく断然新宿だった。そこには闇市文化とモダニズムの多様で混沌たるエネルギーが息づき、文化的爛熟のピークに達していた。
 私の予感は的中し、新宿には他の都市では見たことのない独特のムードを漂わせ、髪をのばしヒゲを生やし、Gパンをはき、ズタ袋を肩にした若者が、まるで家畜の群の中をすり抜ける野獣のようにさっそうと歩いていた。
 私より3つか4つ若いほんの10数名の異端者たちだが、彼らは当時の新宿を徘徊していたどんな人種よりも異様で、スキャンダラスで、挑発的だった。シティボーイに対する田舎者の反発もあって、私の方から声をかける気はしなかったが、彼らが私の前を通過するだけで、異常な磁気の動くのを感じた。
 最初に話しかけてきたのは「ヒゲの殿下」と呼ばれていたナンダだった。たちまち意気投合した私たちは、泡盛屋を梯子した後、早稲田のヨネのアジトまで歩き、いずれも見覚えのあるビートニックたちと会い、「新宿のランボー」と言われたナーガを紹介された。
 そこに凄まじいパワーを感じながらも、私はすぐ彼らの仲間入りをしたわけではない。そこまで踏み切るには、私にはまだ少しばかり立身出世の幻想があった。そしてその幻想が断ち切れるまで、七転八倒せねばならなかった。
 63年夏、九州一周の汽車旅行をした私は、博多駅前で似顔絵を描いていた白石という隻手の若者に再会し、彼を誘って新宿歌舞伎町に一緒に立つことにした。闇市派の先輩たちとは通りを一つ隔てて。ところがこれを機会に、若い絵描き志望者が一緒にやりたいと言って集まってきた。縄張りのない世界だ。断る理由はなかった。かくて東京オリンピックの頃には、10数名の似顔絵描きが歌舞伎町の入口に並ぶことになった。

[新宿ビートニックになる]

 私は東京オリンピックの頃にはもう街頭には立たないで、バーやスナックに直接押しかけ、酔客やホステスの似顔絵を描いていたが、それさえさぼる夜が多くなった。だが部屋を捨てる気にはなかなかならなかった。それは単に一時的に寝ぐらを失うだけではなく、体制からの完全なドロップアウトを意味していた。二者択一だった。ビートニックを受け容れるか、全面的に拒否するか。例え1人でも受け容れたら、それは野獣の群を招き寄せると同じことだ。
 最初に心を許し、高円寺のアパートを教えたのはクボゾノという私と同じ歳で、芸大出の遅れて来たビートニックだった。そこから崩壊が始まった。宿無しビートニックは連日のようにやって来て、留守にしていても鍵をこじあけて上がり込み、酒盛りをやっていた。何回かは拒否したり、条件をつけたが、心はすでに受け容れていた。
 65年春、画家への夢を捨てきれず、高円寺の喫茶店ネルケンで個展を開いていた時、ナーガが噂のナナオを連れてきた。私より一回り年長の日本で唯一人、大正生まれのビートとの初対面は「やあ Gパンはいてるね!」だった。当時はGパンをはく者などアーティストくらいしかいなかったのだ。
 私の心がいよいよドロップアウトに傾いていた頃、思いもかけない試練を受けた。ある知人に依託した私のイラストが、メジャー出版社の目にとまり、絵本一冊分の仕事が転がり込んだのだ。無名画家にとって又とない立身出世のチャンスだった。上京5年目、28歳にして初めて把んだ成功への道だった。
 ところが最初の1枚目を描き始めた日に、ナーガとナンダが訪ねて来たので、彼らに焼酎を出して私は仕事机に向った。だがとても仕事などする気にならず、私も焼酎をひとくち呑んで、今度こそ決意を固めた。もうこんな生活を辞めることを。
 翌日、出版社あてに詫び状を書いて、原稿を送り返すと、全財産を処分し、リックひとつでヒッチハイクの旅に出た。北へ、北海道へ。
 その頃は車も少なかったから、ヒッチは容易だったし、時々はトラックの運ちゃんにめしを奢ってもらった。公園や駅舎などで野宿しても通報する人などいなかった。北海道を一周した後、南は鹿児島までのひとり旅は貰い物や拾い物で腹を満たし、似顔絵は描かなかった。
 
[奄美というもうひとつの国]

 65年夏、私は初めて奄美群島を訪れた。当時、沖縄は米軍統治下だったから、奄美の与論島がパスポートなしで行ける南限だった。
 同行したナナオとナーガというビートニックの2人の先達は、すでに前年にも奄美を訪れており、鹿児島で出会った時は3人とも文無しだったが、構うことはないと言うので、そのまま連絡船に乗り込んだ。
 船の中では事務長に食事の世話になり、「奄美のことを研究して下さい」と、紹介状まで書いてもらったので、与論島の公民館を借り、島民から唐芋や冬瓜などをもらい、海岸でウニを採ったりして飢えをしのぎ、サンゴ礁と白砂のめくるめく海に戯れ、生命の躍動と開放感を満喫した。
 70年代には「日本のゴア」などと宣伝され、観光公害に総汚染された与論島の百合ヶ浜だが、その一夏、観光客はまだ1人もいなかった。私たちは奄美が奄美であった原風景の最後の残照を見たのだ。そして知ったのだ。日本国内に、言語も、文化も、風景も、社会構成も、歴史も全く異なる国があり、そこに住む島人が私たちのことを「ヤマトンチュウ」と呼び、鹿児島以北の日本列島のことを「大和、内地、本土」などと呼んでいることを。
 なお、この旅で私たちは名瀬図書館を訪れ、館長で小説家の島尾敏雄氏に会った。国家を超えた島々の連なりとしての「ヤポネシア」の命名者である。
 かくて私たち文無し3人組は、奄美の島々を巡り、島人の温情に甘えて、ただ飯、ただ酒に島歌まで恵まれて、夢のような2ヶ月を過ごした。その時、私たちは何のお返しもできなかった。そして文字通り、ただほど高いものは無かった。それから10年後、私は奄美のために生命を賭けるような運命に見舞われたのだから。

[蜂起への地固め]

 ドロップアウトして寝ぐらを失った私は、東京へ戻ると友人宅に居候などをしたが、ビート仲間のアジトが欲しかった。そこで一冬、似顔絵で稼いで東京・武蔵境に8帖のアパートを借り、何人かと共同生活を始めた。
 サラリーマンの管理社会としてクリーン化が進む新宿から、ビートニックの足は次第に遠のき、多くは中央線沿線に仮住まい中だった。その頃、国分寺を拠点とする三省やキャップたちと知り合った。三省と順子夫婦にはすでに子供がいるなど、国分寺グループは文無しアウトローの新宿ビートニックと比べれば、まともな市民生活を装っていた。
 このドッキングからコミューン運動「部族」は生まれるのだが、信州のコミューンの土地や国分寺のロック喫茶建設などは、国分寺グループの経済基盤の上に成立していた。ビートニックのダダ的パワーが創造力に転化するためには生活に根ざしたリアリティが不可欠だったのだ。
 66年初夏、クボゾノが憤死した。アルコールで胃を病み、ついには白血球の造血ができなくなり、紫斑が体中に出て、病院のベッドで悶絶する地獄の夜を、私は1人で看取ることになった。彼の死は象徴的だった。体制の権威に反逆し、既成の芸術や哲学を否定しながら、新しい時代の思想と美学を探る途上で内部分裂し、機能停止し、一枚の絵も一篇の詩も残すことなく、60年代の混沌と狂乱に敗北してしまったのだ。
 その夏、私は前年に続いて再度奄美群島を訪れた。武蔵境で共同生活をしていた3人が一緒だった。たった一年で島の様子は大きく変っていた。与論島には農協ビルが建ち、喫茶店が数軒もでき、観光客のはしりが上陸していた。貨幣経済が忍びこみ、前年のように何もかもただとはいかず、私は似顔絵を描いて4人分の旅費を稼いだ。
 奄美から帰ると秋には「バム・アカデミー第1回フェスティバル」に参加した。これは「アドニス」という会社の社長がスポンサーになって、新宿安田生命会館のホールや、詩集『プシケ』の出版などを用意してくれたもの。なお「バム=BUM」とは、のらくら者、浮浪者、飲んだくれの意。外来のマスコミ用語であるビート又はビートニックに対して、我々はバムを名乗ることにしたのだ。
 このフェスティバルの後、私は数人のバムに誘われて、三鷹郊外の教会の静かな一室で、初めてのマリファナ体験をした。インド経由でやって来た「アメフリ」という名のフランス人ビートを、仲間の1人が新宿の風月堂から拾って来たのだ。
 アメフリのマントラを聞きながら、バムたちが神妙に瞑想しているのが可笑しくて、私は吹き出してしまったのだが、2、3人が私の方をチラッと見ただけで、再び自己の内に沈溺してしまった。そこで私は「効いていないのは自分だけなのだ!?」と自覚し、バッド・トリップに陥った。

[バム・アカデミーの新宿フェスティバル]

 67年4月、新宿との訣別のセレモニーとなった「バム・アカデミー主催・第2回フェスティバル・世界の滅亡を予言する自由言語による集会と行列」が催された。
 初日は戸山ハイツから新宿三丁目のど真中まで、ギターを鳴らし、「ハリクリシュナ・ハリラーマ」のマントラなどを唱えながら、花やビーズで着飾った男女数10名のバムたちが、デモ行進をやった。『アサヒグラフ』は「奇妙な風態の一団が新宿の街中を通り過ぎて行った。彼らは現代文明を否定して生きるビート、ということらしい」と、4ページの特集を組んだ。
 翌日は新宿厚生年金会館ホールで集会を行った。このイベントには京都在住の詩人ゲーリー・スナイダーが参加していたが、彼はこの集会の前にアメリカへ帰国し、1月にサンフランシスコで催された2万人のBE・INに招待されていたので、その興奮がじかに伝わって来た。
 既に63年春、アレン・ギンズバーグがインドからの帰路、京都で参禅中のゲーリーを訪れた際、ナナオ、ナーガ、マモなどは出会っていたのだが、遅まきながら私がゲーリーと会ったのはこれが初対面だった。
 アメリカでもヨーロッパでも、そして日本でも、新しいムーヴメントが沸き上がりつつあった。時は満ち、爆発の予感に胸が躍った。集会では、ゲーリー、ナナオ、ナーガ、三省などの詩の朗読の後、アングラ全盛期とあって「ゼロ次元」「ジャックの会」などの前衛集団がハプニングを演じ、舞台と客席入り乱れてのイベントになった。
 私はこの集会で、その冬北海道の吹雪の中で作った詩「あそこへ……ポン!」を朗読した。バッド・トリップの落ちこみから跳ね上がったこの詩を聞いて、ナナオが「君は今日からポンだ」と言ったので、「ポン」が私のニックネームになった。
 その頃まで本名で呼び合っていたバム仲間たちの大半が(ナナオと三省以外)この頃からニックネームを自称、他称することになった。
 その頃、阿佐ヶ谷のマモ、ジュゴン兄弟が自宅の一軒家を解放したので、そこが新しいアジトになり、風月堂を通して欧米のビートニックが訪れたり、サイケデリックという目くるめく新しさに満ちた情報誌『オラクル』や、「グレートフル・デッド」「ジェファーソン・エアプレーン」などの新譜ロックが送られてきた。コミューン運動「部族」の構想もこの中から生まれてきたのだ。