【第1章 最初の旅 1971・秋〜72・春】
[日本山妙法寺の仏舎利塔法要 ラージギル]

ラジぎール挿絵

 日本の仏教寺院は檀家からの布施によって運営されており、僧侶は浄土真宗をはじめ大半が妻帯し、世襲制のところが多い。明治維新によって武士階級は廃たれ、戦後は貴族階級も廃たれたが、僧侶階級だけは存続したので、鎌倉時代から何百年もの血脈が受け継がれている寺もある。寺の跡取りを、地方によっては「若さま」と呼ぶ由縁である。
 「若さまの出家」ならゴータマ・ブッダだが、日本では「出家の若さま」である。「若さま」は仏教大学という職業訓練校を卒業して僧侶になると、家督を継いで葬式や観光で大儲けと来るから、修行などするヒマがない。だが70年代後半のインドブーム以降、檀家の人々を引率して、ブッダガヤなどの仏跡巡りをするヒマができた。これが「仏教国」日本の僧侶のあらましである。
 日本の仏教は中国から輸入した大乗仏教を、法隆寺の聖徳太子や、東大寺の聖武天皇など、天皇家をスポンサーにして広がり、国民統治の道具として使われてきた。
 日本製仏教の開祖になったのは、平安仏教が天台宗の最澄、真言宗の空海、鎌倉仏教が浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、曹洞宗の道元、臨済宗の栄西、時宗の一遍など、いずれも貴族出身のエリートである。ただし日蓮宗の日蓮だけは漁師の子という下層平民出身だった。日蓮の『立正安国論』は、他宗を撲滅し、法華経を国教化して、日本を仏国土にすることを根本命題としている。
 藤井日達上人を開祖とする日本山妙法寺は、本物の出家修行者を中心に構成され、修行者は妻帯せず、檀家を持たず、仏舎利塔を建立し、平和行脚を中心に活動する法華経教団である。黄色い僧衣をまとい、団扇太鼓を叩きながら「南無妙法蓮華経!」を唱えて歩く僧侶の姿を、あちこちで見かけることだろう。
 戦前、日達上人は満州に50個もの仏舎利塔を建立。戦後は「日本の仏教をインドへ返す」として、ラージギルを拠点に、オリッサに2つ目の仏舎利塔を建造中だった。
 私が日達上人に初めて会ったのは、インドへ旅立つ1年くらい前に、「部族」の仲間たち数名と共に、日本山の熱海道場を訪れた時だ。既に日達上人の噂は、インド帰りのヒッピー仲間から伝わっており、「ヒッピーさんこそ本物の出家人だ」と言われたとか。当時、嫌われ者のヒッピーを肯定する人物などめったにいなかったから、私たちは興味を持った。
 玄関に迎えてくれた日達上人は、小柄な好々爺で、合掌した笑顔は子供のように無邪気だった。狼と馬賊の出没する満州の荒野を、ただ独り団扇太鼓を叩いて歩いた法華経の荒法師という先入観があったので、初対面の印象は意外というしかなかった。
 何を話したかは忘れたが、80半ばになる御老体を皆でマッサージしたことは憶えている。両方の二の腕はローソクの炎による焼身供養という荒行によって、ケロイド状に皮膚が溶けていた。弟子たちと一緒に題目を唱えた本堂には巨大な額に黒々と「貧乏神」の3字がのたうっていた。
 藤井日達上人と日本山妙法寺との出会いは、日本のヒッピーたちにとって大きな試練だった。そこに私たちが求めている本物の宗教が生きているのではないのか。それは決して無視できる存在ではなかった。日本山妙法寺に帰依するか、しないか、私たちは二者択一を迫られていた。
 私のインドの旅は、日本山妙法寺とは何かを問う旅でもあった。最初に訪れたオリッサ州ダウリの丘の仏舎利塔建立予定地では、日本山の道場に宿泊して、酒迎上人と若い日本人僧3〜4名に会った。快活な現場監督の酒迎上人は「日本に帰っても腑抜けな坊主共の顔など見たくもない。どうだい、諏訪之瀬島のコミューンはわしを受け入れてくれるかい?」と、冗談とも本気ともつかぬ質問をした。戦時中は日本軍の忍者だったと聞いたが、まさか私たちのコミューンのことまで探っているとは驚いた。
 翌日、酒迎上人は不在だったが、日本人僧たちとインド人の人夫が整地作業をしていたので私も少し手伝った。昼食時、一人の日本人僧が人夫たちにバナナを配給していた。その坊主はインド人を一列に並ばせて、バナナを渡す前に「ナムミョーホーレンゲーキョウ」を唱えさせていたが、それが出来ないと「お預け!」である。まるで犬の調教だ。これが日本山の布教方法だとは思わなかったが、バカな坊主の顔を見たくなかったので、翌日難民騒ぎのカルカッタへ向かったのだった。
 カルカッタ道場でも2、3日世話になり、日本人僧と朝夕一緒に勤行をしたが、何の印象も残っていない。
 そして3番目が日本山妙法寺のインド総本山というべきラージギルである。しかもこの時は、日本山がラージギルの多宝山に建立した仏舎利塔の3周年記念の法要が催されるとあって、法主藤井日達上人、ラージギルの妙法寺管長八木上人をはじめ相当数の坊さんや、日本からの在家信徒数10名が参集していた。日本からの信徒とは高級スーパーマーケットの社長一族など、日本山を経済的に支えているスポンサーたちである。他にカルカッタ道場で会った若者など、インド放浪中の日本人ヒッピーや登山家などが数名いた。
 ラージギルは仏陀の時代に、マガダ国の首都ラージャグリハ(王舎城)があった所。出家したゴータマが修行し、仏陀になってからも多くの説法をした聖地であり、マガダ国のビンビサーラ王から教団に寄進された竹林精舎などもあったが、今や王舎城の跡はヤブの中、つわもの共の夢の跡である。
 インドには「都市が千年、森が千年」という諺があるが、まさに千年のヤブとジャングルの忘れられた世界に、突然ラトナギリ(多宝山)の山頂から、団扇太鼓の音と「ナムミョーホーレンゲーキョウ!」の呪文がひびいて、純白のストゥーパ(仏塔)が出現したのである。1969年、日本山妙法寺によって建立された仏舎利塔は「世界平和塔」と名づけられた。
 ラージギルの日本山妙法寺は、竹林精舎跡の近くにあった。私たちは管長の八木上人に挨拶して、宿泊場の一画に荷を下ろした。ヒッピーたちに人気の八木上人は、小柄で優しく尼僧を想わす優雅な坊さんだった。
 近くのバザールには、インドには珍しい温泉があった。パンツをはいたまま入るのは、何か物足りなかった。
 さて、仏舎利塔建立3周年記念の法要当日は、仏陀が法華経を説いたというグリッドラクータ山(霊鷲山)の頂上に、式場のセッティングがなされ、朝から日本人の信徒はもとより、地元のインド人たちも続々と集まっていた。
 式典が始まるにはまだ間があったので、私たちヒッピーは誘い合って、会場の脇の細道をたどって、ラトナギリ山頂の仏塔まで登った。大した距離ではないが、ラトナギリ山頂まではリフトが設けてあり、この間フル回転していたのだが、式典開始直前とあって止まっていたため、山頂には私たちしかいなかった。そこからはラージギル盆地を囲む五山が見渡せて、眺望絶佳。
 私たちは誰に気がねすることもなく、チロムを交し、旅の情報を交換し合った。日本山妙法寺は当時、ガンジャを禁止していたわけではないが、坊さんたちは吸わず、むしろ敬遠していた。ただ一人、八木上人だけは勧められればチロムを受けるというのが、ヒッピーたちの評判だった。
 山頂でどれほど時を過ごしたか、皆すっかり決まっていた。その時である。誰かが「おい、虎が咆えてるぞ!?」と言った。恐ろしい咆哮がジャングルにこだましていた。
 「虎じゃない、人間だよ!」「まさか!?」 咆え声は下方、式典会場の方から聞こえて来た。私たちは何事が起ったのかと、我先に坂道を駆けくだり、霊鷲山の会場に到着して驚いた。ぎっしりと参拝者で埋まった会場の説法台に坐った日達上人が、怒り心頭に発して怒鳴りまくっているのだ。その前に土下座して謝っているのは、州都パトナから駆けつけた肥満体のビハール州知事だった。通訳はいなかったが、必要なかった。言葉は分からなくても、怒っている理由は分かっていた。
 「わしを一時間も待たすとは何ごとじゃ!!」
 日達上人が怒号を発するたびに、知事は震え上がって平身低頭するのだった。「獅子吼」という言葉があるが、人間はマイクなしでもこんな大音声が出せるものかと驚くばかり。時に日達上人85歳、まさに「念力」である。
 しかし時間の観念が極めてルーズな熱帯インド、それも州都から車で数時間もかかる山間僻地で、たった1時間約束の時間が遅れたからといって、これほど怒ることがあるのだろうか、と思った。その上、問題発言があった。
「わしがインドを見捨てたら、インドはどうなるか分かっておるのかッ?」
 もちろんこの傲岸不遜な言葉の意味など、知事には分からないはずだが、ついに知事は天を仰いで赦しを求めた。州知事という世俗の権力者が、日本人老僧の「念力」の前に打ちのめされたのである。
 なお、日本山妙法寺が建立している仏塔の仏舎利(仏の骨、実際は水晶や貴石など)は、マハトマ・ガンディから日達上人に贈られたものだとか。ビハール知事が震え上がったのは、マハトマの権威だったのかも。
 法要が終った後も、私たちは数日妙法寺に滞在し、勤行を共にして、上人たちとつき合った。ある晩、野外映画会があって、日達上人とガンディが会見し、にこやかに語り合っている記録映画が上映された。時代背景は定かではないが、英国からの独立運動を闘って来たガンディと、「鬼畜米英」の民族主義者日達上人が、「非暴力平和主義」でジョイントするのは、歴史的必然というやつだろう。
 ガンディは日達上人から贈られた団扇太鼓を叩いて、「ナムミョーホーレンゲーキョウ」の祈りを、彼の日々の勤行のひとつに加えたらしいが、折伏はガンディ1人で止まったようだ。
 果たしてインドの民衆が「ナムミョーホーレンゲーキョウ」という日本の仏教を必要としているのだろうか。果たして日達上人がインドを見捨てたら、インドは困るのだろうか。日達上人と日本山妙法寺への疑問が深まる一方で、八木上人に対する信頼と尊敬の念は深まっていった。
 「八木上人はいつ寝るのか?」などと言われたものだ。毎朝一番早く起きて、一日の準備をし、夜は全員が床に就いてから後片づけをして休んだという。だから誰もその寝姿を見たことがないのだ。10代半ばで日本山に出家してから数10年、この上人は「仏様の召使いの召使い」のようなカルマを果たして来たのだ。「日本山のナンバー2」だと言われたが、まるで初心者のような初々しい心をもった修行僧だった。従ってガンジャを吸う求道者を決して否定しなかった。インド人とも親しかったから、ガンジャに対する偏見も無かった。ガンジャを勧められれば、快く受けた。ヒッピーたちが日本山に魅かれ、南無妙法蓮華経に鼓舞され、やがて帰依したり、ついに出家したなどというケースは、八木上人を導入部としている人が多い。
 もちろん、ラージギルを「主狩場」とする日本山の「ヒッピー狩り」は、日達上人のハードな大手があってこそ、八木上人のソフトな搦手も効果的なのだが。ちなみに、新仏教徒のリーダー佐々井秀嶺上人は、藤井日達上人には批判的だが、八木上人については「菩薩堂の恩師」と呼んで敬愛しておられる。
 さて、日本山妙法寺はもとより、日蓮宗の根本教典といえば、蒙古襲来の脅威を台風が一掃した鎌倉時代、日蓮によって書かれた『立正安国論』である。その言わんとするところは、未開野蛮の外夷に対する島国日本の安心立命は、南無妙法蓮華経を念じて念力で「神風」を起こすことである。
 道元などのエリート僧のように海外留学の経験のない日蓮にとって、日本が世界の全てであった。日蓮の書いた「字曼荼羅」には、髭題目と言われる文字の筆端をヒゲのようにはねて書く「南無妙法蓮華経」を囲んで、日の本の大日如来から、太陽神の天照大御神までがオンパレードだ。
 外国を未開野蛮の外夷と決めつけ、日本を法華経の仏国土と見なす国粋主義日蓮宗は、明治近代の「天皇陛下万歳教」に容易に結びついた。それはアジアを未開劣等民族と決めつけ、神国日本が啓発、統治すべき「大東亜共栄圏」というヴィジョンのもとに、アジア侵略を正当化する一方、欧米列強に対しては「鬼畜米英」の逆差別意識を助長した。
 2.26事件の北一輝や、A級戦犯の大川周明など、国粋主義右翼のイデオローグたちが、日蓮宗の信徒として『立正安国論』に基ずく法華思想に殉じたように、日本山妙法寺の開祖藤井日達上人の思想的背景もそのへんにあった。(勿論、北一輝は銃殺刑を執行されるとき「天皇陛下万歳」とは言わなかった)
 「大東亜共栄圏」の法王の意気をもって、満州荒野の満人の村々に、仏舎利塔を建立した日達上人には、右翼の巨魁頭山満という親反がいて、満州の情報が逐一頭山満に送られ、日達上人の後を追って特高警察が、そして関東軍が続いたという。そのため日本から満蒙開拓団が現地に行ってみると、仏舎利塔のある村々に、満人を追い払った空家と、作付けされた畑が待っていたのだった。
 キリスト教の宣教師が、植民地侵略の先兵の役を演じたように、日達上人と日本山妙法寺も、満州侵略から南京虐殺まで、日本軍に協力したとして、戦後、宗教評論家丸山照雄から痛烈に糾弾された。
 そして戦後の高度経済成長の中で「インド開教」とは、日本山妙法寺にとってどんな意味を持つのだろうか。私自身も半信半疑のまま、ヒッピームーヴメントと日本山妙法寺との関係は、ドラマチックな展開を見せるのだが、それは歴史を追って語るとしよう。
 八木上人をはじめ坊さんたちとの再会を約し、私たちはバスでラージギルを去り、途中ナーランダ仏教大学の遺跡を見物して、ビハール州の州都パトナに到着した。ビハールは仏教とジャイナ教が誕生し、マウリヤ王朝のアショカ王が戦争を放棄して仏教に帰依し、全インドに仏教を広げた栄光の地、パトナは古代の首都パータリプトラである。
 だが現代のビハールはインドで最も貧しい州である。市街地の北側はガンガーに面していて、この辺は対岸のヤシの木がかすんで見えるほどの大河である。この当時はまだ橋が無かったから、カトマンズへ行くには、ここからフェリーで渡らねばならなかった。そのフェリーというのが外輪船というロマンチックな代物だった。岸を離れる時、巨大な水車のような外輪が、「ザバッザバッ」と水音をたてて回るのだった。


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