【第1章 最初の旅 1971・秋〜72・春】
[アジアの仏教徒が集う聖地 ブッダガヤー]

ブッダガヤ挿絵

 難民でごったがえすハウラー駅を逃れるようにして、列車で西隣りのビハール州ガヤーへ。そこからバスで約30分、左手に干し上がったニランジャー河(尼蓮禅河)を見ながら、田舎の並木道をオンボロバスは走る。
 サドゥ歴7年、苦行のため痩せ衰えたゴータマが、ネランジャー河で溺れかかったという話があるから、モンスーン期には相当量の水が流れるのだろう。やがて右手に大塔が見えてくる。仏教最高の聖地ブッダガヤー(ボードガヤー)である。
 溺れかかったゴータマがやっと岸辺にたどり着き、大樹の下で倒れているのを、通りかかった村娘スジャータに発見され、乳粥の供養を受けて復活し、49日間の瞑想により大いなる悟り(ボディ、菩提)に達した。仏陀の誕生である。
 ちなみに、仏陀に成る49日の瞑想の間、ゴータマは毎日1粒づつ大麻の種を採ったという話がある。この場合、種とは象徴であって、種を包む花房を乾燥させて、香炉で焚いたという俗説もある。
 仏説によれば、仏陀の誕生を見守った大樹を、菩提樹と呼ぶようになったというが、ヒンズー教では菩提樹はヴィシュヌ神を祀る神木であり、仏陀はヴィシュヌの9番目の化身だという。またヴィシュヌと勢力を二分するシヴァの神木はバンヤン樹であり、巨木を張り合っている。
 この菩提樹と仏陀の金剛座(長方形の石の台が置いてある)の前に、大塔をもつマハーボーディ寺院(大菩提寺院)を最初に建立したのは、前3世紀、仏教を全インドに広めたマウリヤ王朝のアショカ王である。
 インドの仏教は12世紀ころ滅亡しており、インドには伝統的な仏教徒はいない。仏教最高の聖地といっても、当時は観光客などほとんどいない時代である。ブッダガヤーの活気は仏教が伝幡したアジアの国々が、ブッダガヤー出張所のような僧院を建立し、自国のエリート僧の巡礼宿にしているからだ。
 大塔の周辺では、終日タイ、セイロン(現スリランカ)、中国、チベットなどの僧侶が瞑想や祈りをしていて、深い静寂とシャンティに満ち充ちていた。仏陀の悟りを求めて、アジアの遠方から訪れた修行僧にとって、そこは憧れと理想の極地である。それはまた、国家も民族も、思想も言葉も超えて、人類がひとつになりうる至高点でもあった。

 とはいえ心の国境を超えることは容易なことではない。ブッダガヤーを訪れる各国の僧侶たちは、各人が仏教教団のエリートであり、プライドと威厳に満ち、ヒッピー風情などお呼びではないという感じで、堅く表情を閉ざしていた。僧侶だけではない、各国の僧院を訪れてみたが、門は厳重に閉ざされ、番犬のいる寺もあった。もちろん日本寺という宗派を超えた日本の仏教システムが運営する寺もあったが、高級ホテル並みと聞いていたから近づきもしなかった。そんな中で唯一つ、チベット寺だけが、全ての巡礼者に向けて無料で開かれていた。
 チベット寺にはドミトリーのゲストハウスがあって、番頭も管理人もいなかったので、旅人たちは勝手に出入りして宿泊していた。私たちの他に白人や日本人のヒッピーが数名逗留していた。
 寺院にはダライラマの写真が飾ってあり、ヤブユム(歓喜仏)という男女交合のマンダラや、「オン マニ パドメ フン」の聖句を仕込んだマニ車など、チベット密教の怪し気なセッティングがしてあって、温厚な僧侶が丁重に迎えてくれた。
 寺院の近くにはテント仕立てのチベット料理店があり、焼そばや餃子に似た料理があって、カレーに食傷しかけていた私たちを喜ばせた。料理人の親父は人なつこく片言の英語で話しかけてきて、日本語とチベット語の共通語を、いくつかの例をとって説明してくれた。
 私たちはチベット料理が気に入り、毎日通った。顔見知りになったチベット人たちが立寄って話しかけ、ガンジャを交したこともあった。同じアジアの仏教国とはいえ、一方はヒマラヤの奥地、他方は極東の島国という極と極なのに、まるで旧友に再会したような不思議な懐かしさを感じるのだった。
 私たちがチベット人に出会ったのはこれが最初ではなかった。マドラスへ上陸して早々、私たちは路上でチベット人の男女数名が、毛布やセーターなどを売っているのを見かけたのだ。9月末、マドラスはまだ暑い。それなのに彼らはだぶだぶのチベット服を着て、汗だくになって冬物の露天商をやっていたのだ。きっと忍耐強く、頑迷な連中なのだろうというのが第一印象だった。
 インド在住のチベット人たちは、1959年、ヒマラヤの仏国土を毛沢東の中国に破壊され、活仏ダライラマと共に亡命してきた難民である。ダライラマはヒマチャル州ダラムサラに亡命政府を置き、難民たちはブッダガヤー、デリーなどインド各地の難民キャンプに定住して12年、貧しいながらも仏教コミニュティを根づかせてきたのだ。
 また亡命したチベット難民のある者らは、インドやネパールだけでなく、ヨーロッパやアメリカ、アジアの国々は日本へも移住した。60年代、世界は初めてヒマラヤの秘境から出現したチベット人に出会い、チベット密教なるものを知ったのである。勃興期のカウンター・カルチュア運動がチベット密教から受けた影響は多大なものがあった。ティモシー・レアリィは『チベット死者の書』を、LSDのガイドブックに使った。旅するビートニックやヒッピーはチベット難民を通して「生きている仏教」に初めて出会ったのである。
 ところでブッダガヤーに滞在していた3、4日間、日本人の坊さんの姿を1人も見かけなかった。そこでゲストハウスで知り合った日本人の若者Sに尋ねてみた。Sは既に何ヶ月かインドを旅して、旅費も乏しくなったところを、ブッダガヤーでインド商人から依頼されて、日本の坊さん相手に菩提樹の数珠を売るアルバイトをしていた。
 「日本の坊さんは1人では来ない。週に何回か団体で来るんだ。数珠売りたちには事前に情報が入るから、日本の坊さんたちが来る日は手ぐすね引いて待ってるんだ」
 Sはガンジャを吸って、私とAの顔を伺いながら話した。
 「凄いよ、日本の坊さんは。アジアの坊さんたちが瞑想している前で、大塔によじ登って『ピース ピース!』って記念写真をとるんだ。1人や2人じゃない、バスで来た全員がだよ。まるで遊園地みたいにはしゃぎ回るんだ。まいっちゃうよな……!」
 「土産物を買うのはそれからだ。よってたかる数珠売りたちの言い値で買うんだから、カネあるんだな」
 「初め俺は自分の国の坊さんを騙すのは悪いことだと思ったけど、彼らはくにへ帰って菩提樹の数珠を檀家の人たちの土産にすれば、その何倍ものお布施が返って来ると聞いて、どんなに吹っかけても気がとがめなくなったよ」
 Sは一気にそれだけ語ると、心のウサが晴れたのか、深々とチロムを吸った。
 仏教国において、僧侶はその国の精神世界のリーダーであり、道徳的な模範である。「仏法僧」を三宝と呼び、三宝に帰依することを仏典は説いている。その僧が堕落すれば、仏に対する信仰は失われ、法(ダルマ=真理、正義)が廃たれるのは必然である。日本の仏教の形骸化は、ブッダガヤーという国際見本市のような仏教センターで、証明されつつあるのだ。
 日本人僧侶の退廃を聞き、気が滅入った時、Sが「明日あたり日本の坊さんたちが来る頃だ」と言った。この目でその醜態を見ておこうかと思ったが、どうせ日本の坊さんに会うのなら、日本山妙法寺の坊さんたちに会おうと、予定通りラージギルへ向かった。

 ところでインドの仏教は滅び、伝統的な仏教徒はいないと書いたが、新仏教徒がいるのだ。1954年、インド中央部のナグプールにて、アンベードカル博士と共に、50万人の不可蝕民がヒンズー教から仏教に改宗し、新仏教徒が誕生したのである。
 不可蝕民出身のアンベードカルは、独立インドの初代法務大臣を務め、自ら起草した憲法によってカースト制度を禁止した。カースト制度を容認したマハトマ・ガンディとは生涯対立し、ガンディが不可蝕民をハリジャン(神の子)と呼んだのに対して、アンベードカルはダリット(抑圧された者)と命名した。それ以来、不可蝕民はダリットを名乗るようになり、ハリジャンは死語になった。勿論、新仏教徒たちはブッダガヤーへ巡礼するような、恵まれた人たちではなかった。
 ところが1994年5月、ナグプールを出発した新仏教徒2万人の大行進はブッダガヤーに押し寄せ、マハーボーディ寺院の管理権をヒンズー教徒から、仏教徒に譲渡することを要求した。このデモは単なる仏教とヒンズー教の宗教対立ではなく、当時2000万人といわれた新仏教徒の復権運動だった。
 マスメディアが注目し、警察と軍隊の警護のもとに、マハーボーディ寺院の入口にはバリケードが敷かれた。しかしデモ隊はバリケードを突破し、リーダーは菩提樹の金剛座に坐って、カースト制度の撤廃と寺院の奪回を祈った。聖者として敬愛されているそのリーダーの名は、佐々井秀嶺。
 低俗で軽薄な日本人僧しか見たことのないブッダガヤーの住民にとってナーガルージュナ(竜樹菩薩)の化身といわれる日本人僧の出現は、さぞ驚きだったことだろう。
 そして更に14年の歳月が流れた今年08年3月、ラサのチベット仏教徒のデモに対する、中国軍隊の武力弾圧は、インターナショナルな「フリーチベット!」の声となって、世界各地の聖火リレーを、中国に対する抗議リレーに変えた。
 今や世界の良心を味方につけたチベット仏教徒と、ついに1億を越したダリットの新仏教徒、世界中で最も貧しく、最も虐げられて来た人々に、仏教は復活の夢と希望を託しているのだ。
 余談ながら、佐々井秀嶺上人が新仏教徒たちと高らかに称える聖文は、仏陀が衆生に語ったというパーリー語による三帰依文「仏陀に帰依します、法に帰依します、僧に帰依します」である。

 ブッダン サラナン ガッチャーミー
 ダルマン サラナン ガッチャーミー
 サンガン サラナン ガッチャーミー

 [参考資料]
 山際素男著『不可蝕民の道 インド民衆のなかへ』 三一書房 1982年
      『チベットのこころ』 三一書房 1994年
      『破天 一億の魂を掴んだ男』 南風社 2000年
 
 ビデオ「私の前には白い竜がいる」 SASAI.Gのドキュメント 
  現在、再編中。問い合わせは 空谷プロ
  Eメール kuuya27@hotmail.com   


| HP表紙 | 古き良きインドの大麻文化 目次 |