【第1章 最初の旅 1971・秋〜72・春】
[振舞いガンジャのフリーコンサート カルカッタ]

 3等列車は夜になると3段式の寝台車になる。ティルバンナマライから北上すること車内で2泊、朝方オリッサ州の州都ブバネシュワルに到着、私たちは約40時間ぶりに大地を踏み、郊外のダウリの丘に、仏舎利舎を建立中の日本山妙法寺を訪れた。
 戦時中は日本軍の忍者だったという酒迎上人と、日本人僧が3〜4人いた。そこでカルカッタは今、東パキスタンからの難民でごった返していると聞いて、たった2日でいとまを告げ、カルカッタへ向かった。
 西ベンガル州の州都カルカッタの中央駅、ハウラー駅に到着したのは日の出の頃だった。駅舎の巨大なドームの内部は、吐き気を催すような異様な臭気が充満し、足の踏み場もないほど難民がひしめいていた。泣き叫ぶ子供たちや苦しみを訴える老人たち、生まれて初めて見るシュールな地獄図だった。さらにハウラー駅を一歩出ると、フーグリ河畔からハウラー大橋にかけての一帯が、まるで昆虫の大発生のように難民で埋め尽くされ、それが朝日に照らされてうごめいていた。
 まだ印パ戦争は始まっていなかった。この難民たちは東パキスタンの分離独立運動を弾圧するため、西パキスタンが軍隊を送り込んだので内乱状態になり、避難して来たのだ。私たちがカルカッタへ入ったのは10月初旬、この時期インドは満を持すかのように静観していた。
 ではここで、インドとパキスタンとの宿縁の歴史を見ておこう。17世紀、イギリスの「東インド会社」はカルカッタを拠点に、インド貿易に乗り出し、ライバルのポルトガルやフランスを駆逐して、植民地的な収奪を本格化した。そして19世紀中頃、傭兵セポイの反乱に対して本国から多数の軍隊を送り込んで鎮圧し、それ以後はビクトリア女王の名による直轄統治に切り替え、大英帝国の植民地として、収奪の限りを尽くした。 
 19世紀後半、「ベンガル・ルネッサンス」を最前衛とする、民族運動の盛り上がりを警戒したイギリスは、一種の擬似民主国会として1885年に「インド国民会議」の設置を認めた。国民会議は実権は持たなかったが、圧倒的多数を占めるヒンズー教徒が「国民会議派」という政党へ発展させていった。
 これに対してイスラム教徒は1906年に「全インド・ムスリム連盟」を結成して対抗した。こうして大英帝国の分断支配政策がまんまと図に当たって、ヒンズー対ムスリムの対立構造ができ上がったのである。
 やがて第一次、第二次世界大戦の間、インドにおける大英帝国からの独立の気運が高まる中で、対英非協力の国民会議派と、対英協力のムスリム連盟の対立は深まった。
 「ヒンズーとムスリムは一体のものとして、同じ国家として独立すべきだ」というマハトマ・ガンディの説得も空しく、ついに47年8月、イスラム教徒が大部分を占める東西2つのパキスタンが、英領インドから分離して独立。その翌日、ヒンズー教徒が多数を占める地域がインド連邦として独立した。
 この分離独立によって、インド国内に住んでいた多数のムスリムが国境を越えて東西パキスタンへ移動し、逆にパキスタン領内にとり残された多くのヒンズーが国境を越えてインドへ逃れるという大混乱となった。そして数千万人が互いにクロスする過程で暴動、殺戮がくり返され、100万人が命を落としたといわれている。
 分離独立後は65年にカシミール問題が引き金になって第2次印パ戦争が起きたが、パキスタン側の完敗に終った。それから6年後のこの年、東西パキスタンの内乱がきっかけになって、やがてバングラデシュの誕生ヘと発展する、第3次印パ戦争は不可避的な状況になっていった。
 そもそも同じイスラム同士とはいえ、民族的には西パキスタンがアーリヤ系パンジャブ人が多数を占め、東パキスタンは元東ベンガル州のベンガル人が多数を占めていた。しかし財政の重点はことごとく西に置かれ、東の不満は募る一方、ついにアワミ連盟のラーマン総裁が独立を要求したところ、西からの電撃的な武力弾圧によって内乱状態になったのである。
 インドの開戦は時間の問題だった。しかし私たち旅行者には、戦争に対するリアリティが全くなかった。なにしろハウラー地区から繁華街のチョウロンギ通りまで行けば、そこでは車道のど真中に牛たちが寝そべっていて、車はそれを避けて走っているのだ。カルカッタ名物の2階建てバスでさえが、車体を傾けながら牛を避けて走っていた。行き交う市民の表情にも、戦争の緊迫感など感じられなかった。
 カルカッタは1911年のデリー遷都まで、英領インドの首都として栄えた。チョウロンギ繁華街の一帯には、大英帝国名残りのビクトリア記念館や、神秘と驚異のインド博物館、広大なニューマーケット、沢山の映画館などがあり、その一角にある安宿街サダル・ストリートは、当時もヒッピーのたまり場だった。
 しかし私たちはカルカッタの最初の宿を、南の下町方面にある日本山妙法寺の道場に選んだ。そこでは民家を借りて仏壇を設け、中年の日本人僧が朝夕太鼓を叩いて「南無妙法蓮華経」の題目を唱えていた。日本山妙法寺については、この後「ラジギール編」で語るので、ここでは省略しよう。
 夕方だった。私とAは日本山の道場に宿泊していた若い日本人旅行者を誘って、下町周辺を散歩していた。その日は祭日らしく、あちこちから賑やかな音が聞こえてきた。私たちは近くから聞こえてくる太鼓の音に足を向けた。路地を曲がると街角に沢山の人が集まっていた。近づくとそこは広場になっていて、群衆に囲まれて10人くらいの男たちが、色んな太鼓を叩いていた。路上のフリーコンサートである。

 広場の一角には大きなバンヤンの樹があって、その根方に祭壇をしつらえ、ジャスミンの花輪で飾られた神像に、バナナやマンゴーが供えてあった。今しもそこからチロムを取って、一人の男が私たちの方へやってくるのが見えた。どうやらその初老の男は、このイベントの主催者か、町内会長という感じだった。
 彼は観衆の背後に突っ立っていた私たちに「ウエルカム!」と微笑むと、広場の片隅へ誘って腰を下ろし、チロムにガンジャを詰めて、たっぷり吸わせてくれた。日本でも祭りの日には振舞い酒があるように、インドの下町にも祭りの日には、振舞いガンジャの風習があったのだ。
 かくて私たちはキメキメの状態でコンサートの円陣の中へ入れてもらい、最前列に坐って聴いたから、太鼓の乗りは物凄かった。タブラをはじめ見たこともない奇妙な太鼓ばかり。箸のように細くて2メートル近いスティックを使う太鼓があり、奏者が地面に仰向けになって叩くムリダンガという横長の太鼓もあった。そのテクニックから迫力まで、太鼓叩きたちは超一流のプロに違いないと思ったが、翌日その中の一人がバザールで野菜を売っているのを見てびっくりした。
 察するにあの太鼓集団は、この地域のガンジャ吸いたちが太鼓にはまってバンドを編成し、それにファンが集まり、祭日には振舞いガンジャのフリーコンサートが定着したということか。ガンジャは下層庶民社会における文化的な活力源なのだ。
 インド人は誰でもガンジャを吸うと思ったら大間違いだ。長年の植民地支配によって、イギリス化したインドの上流、中流階級のエリートはウイスキーを愛好し、葉巻きやシガレットは吸っても、ビリーという安タバコは決して吸わないように、ガンジャを貧乏人の嗜好品として蔑視しているのだ。
 ヨーロッパではキリスト教の宗教裁判が、大麻の使用に呪術の烙印を押し、違反者を「魔女」として死刑にしてきた歴史があり、19世紀になっても大麻は反社会的な麻薬と見られていた。従って大英帝国は植民地インドのガンジャを非難し続けていた。
 1893年、イギリスは「インド人は大麻で狂っているのではないか?」というイギリス国民の疑問を正すため、大麻と精神病の関係を調査するようインド政府に要請した。そこでインド大麻薬物委員会が設立され、英領インド国内のすべての精神病院を対象に、大麻がもとで精神病になったとされる1193人の証人に対する聞き取り調査が行われた。
 その結果
(1)適量の大麻を用いることは有益であり、不幸な結果をもたらすことはありえない。 
(2)精神に有害な影響を与えることはなく、モラルの低下も見られない。
(3)使用者が薄弱であったり、遺伝的な疾病素質を持った場合に限り、精神障害を誘発する可能性はあるが、いずれのケースでも病気は短期的であり、薬物の使用をやめることによって回復可能である。
(4)大麻草の栽培および販売の全面的な規制は不要であり、また得策でもない。
 という結論を出している。このデータは1894年に公表され、その結論は今日ほとんどの精神科医が考えていることとも一致している。

 1961年、国連WHO(世界保健機構)は、アメリカの策動により、大麻をヘロイン、コカインなどと共に、味噌も糞も一緒の「麻薬単一条約」を定めた。1964年、インドはこれに批准したため、25年間の準備期間を置いて、1989年に大麻を非合法化したのである。
 この準備期間中インドでは、州立専売公社の「ガンジャ・ショップ」が設営され、ガンジャ(大麻)チャラス(大麻樹脂)オピウム(生阿片)などが、1トーラ(約11g)程度の制限つきで販売された。しかしブツは2、3級品ばかりで、高品質のものはブラック・マーケットにしかなかった。従って警察が取り締まる口実は「専売法違反」だった。
 とはいえマドラスの公園では見張りを立てたのに、カルカッタの街角では公然とチロムを交すなど、取締り状況は州ごとに異なったが、当時はどこへ行っても地域住民たちが、時にはサドゥ(出家修行者)やヒッピーをまじえて、チロムを回している牧歌的な風景を見かけたものだ。地べたに腰をおろして煙を吐きながら、彼らは神々のことを延々と話し合うのだった。


| HP表紙 | 古き良きインドの大麻文化 目次 |