【第4部 4度目は最後の旅 1997・春】
第3章 オアシスの聖地プシュカル
   

〔首都ジャイプールにて〕

 ウエットな河の世界からドライな砂漠の世界へ、環境が人間にどんな影響を与えるものなのかを感じてみたかった。
 インド大陸西北部、パキスターンとボーダーを接するラジャスターン州に入ると、車窓風景は荒々しい岩肌をむき出しにした禿山と、潅木と砂の荒野に変わり、ラクダが登場する。ラクダの屍体を遠巻きにした、2,30羽の禿鷹と数頭の野良犬の群れを見た。ラクダはまだ息があるらしく、餌になる寸前だった。近くで は男たちが何事も無いかのように石運びをしていた。
 近代西洋文明が人目を遠ざけ、密かに処分してしまう「死」がインドでは日常的リアリティとして衆人の目に晒されている。岸辺の火葬場の煙は終日絶えることなく、火葬されない屍体は大河を流れてゆく。そこでは死は決して異常でも、醜悪でも、不吉でもなく、それは自然であり、自然であるが故に荘厳で、時には優 雅ですらある。例えば路上に行き倒れた野良牛の屍体に、花束や賽銭が捧げられていたりして。
 タール砂漠の入り口である州都ジャイプールに夕方着き、翌日一日がかりで「ピンクシティ」と呼ばれている優雅な街を見て歩いた。「風の宮殿」というユニークな建物もある。有名なアンベール城までバスで行った。強大なムガル帝国にも屈しなかった砂漠の勇者ラジプート族が築いた城は、岩山の頂上にあった。観光 客を乗せた象がマハーラージャの優雅な世界を案内していた。 
 さて、ジャイプール駅前のホテルのマダムは、色気ムンムンの中年女性だが、自分はパンデイット(学者)で、先代サイババの信者だという。そこで私の手相を占ってくれた結果、「73歳の時に何らかのアクシデントに遭遇するが、それが何かは不明、そして75歳の時に沢山の神々に歓迎されてあの世へ旅立つだろう」という。
 還暦の春というタイミングで、先代シールディ、サイババの系譜という女占師から占われた後15年という寿命は、何となく信憑性があった。その頃は温暖化や放射能汚染などのエコノミー危機と、資本主義の崩壊によるエコロジー危機が重なり、グローバルな食糧パニックが予想される頃であり、奇しくもそれはマヤ暦 の終末を暗示する2012年と重なるではないか。
 「アセンション」と自己の死を同一視するほどのナルシズムの持ち合わせはないが、阿鼻叫喚の地獄にあって、己れ独りの安楽死など可能だろうか?とはいえ、75歳の寿命説に異存はなかった。そこで15年の歳月とはどんなものかと、オアシスの村プシュカルを、15年ぶりに訪れてみた。

〔オアシスの聖地プシュカル〕

 プシュカルには鉄道がない。アジメールというイスラム教の都市からバスで一山越えるとオアシスの村プシュカルである。創造神ブラフマーを祀るヴェーダ時代の最も古い聖地では、バスを降りたら歩くしかない。リクシャもタクシーもないのだ。荷車は牛ではなくラクダが曳いている。 
 天国のアムリータ(甘露水)が湧き出るプシュカル湖は、一辺が2、300メートルの四角っぽい湖で、四方の岸辺にガートがあり、寺院やアシュラマなど白い建物に包囲されている。何処から見ても湖面に白い建物が写って幻想的だ。
 湖の北側に広い中庭をもつホテルがあったので、部屋は石牢のように狭かったが、テクノ好きの若者たちが集まっていたのでそこに決めた。2,3日すると「ポンさん、「『アイ・アム・ヒッピー』読みました!」という日本の若者が数人やってきた。彼らはレイヴ・パーティを求めてゴアへ行ったのだが巡り合えず、ホーリー祭にはプシュカルであるという情報を頼りにきたという。
 満ちゆく月光の下、湖を見渡せるホテルの屋上で、若者たちとチロムを回してマントラを唱った。ラジカセでテクノを聴いていた白人フリークスも私たちの輪に加わり、オアシスの幻想に酔い、シャンティの中でひとつになった。
 ある日湖の畔をひとりで散歩していると、サリーを着た日本女性と会った。微笑しながら近づいてきた彼女は、私と肩を並べて歩きながら「プシュカル湖のそよ風は甘いわね」などと呟いた。ミナというこの女性は30代半ばか。彼女はこの5年間に9回もインドを訪れているとか。ヒーラー(治療師)を生業にして、患者の精神的、霊的な邪気や障害を自分の身に引き受け、半病人状態でインドを訪れ、ここでリフレッシュするとのこと。彼女にとってインドは浄化装置であり、霊的なゴミ捨て場でもあるらしい。
 プシュカル湖のガートを歩いて、私たちがバザール広場にさしかかったところ、突然丸々と太った仔牛が後肢から崩れるように倒れ、七転八倒しはじめた。ビニール袋でも食って腸閉塞を起こしたのだろうか。
 近くにいた男たちが仔牛をとり押さえ、母牛を遠ざけた後、中年女性がカミソリで暴れる仔牛の耳たぶを切った。鮮血がほとばしり、仔牛は死の苦悶から解放されて息を引き取った。ほんの数分間の出来事だったが、気がつくとミナの手が私の手をしっかり握っていた。
 ミナに誘われてバングラッシーの店へ行った。彼女は常連らしく店長には私のことをハズバンドだと紹介した。バングラッシーとは大麻の葉を湯がいてヨーグルトで溶いたもの。ヒーラーとしてのリフレッシュにバングラッシーは有効に違いない。彼女に言わすと、聖地といえば日本の伊勢神宮は最高なのだが、大麻札は あってもバングラッシーがないためインドまで来るのだという。彼女にはサリーより、きっと和服の方が似合うのだろう。
 翌日もナミとバングラッシーを付き合った。大麻の高揚の中で彼女の苦情は、ホテルの隣室の白人カップルがスワッピング・パーティーをやって騒ぐので、すっかり寝不足だとのこと、そこには性欲に  身悶えする彼女自身の息使いを感じたが、私は彼女のサリーに手をかける気はなかった。だからカトマンズのチケッ トをキャンセルして、ホーリーまで滞在を延期するかどうかを迷う彼女を敢えて引き止めなかった。そして幻影の美しさを崇めながら、サリー姿の大和媛をバス停まで見送ったのだった。

〔チャラスを売るサドゥ〕

 プシュカルでの何日目かに所持していたチャラスを使い果たしてしまった。バラナシではシヴァ・ラートリーィのため解禁状態だったが、インドでも大麻の取り締まりは厳しくなっていた。そこでホテルのオーナーにプッシャーの紹介を頼んだところ、近くの廃墟に住みついているサドゥが売ってくれるはずだという。ま さか・・・・・と思ったが、日が沈んで間もなく、私は教えられた廃墟を訪れ、入り口の暗がりから「ナマステー」と声をかけると、2階から返事があった。階段を上ると暗闇の片隅に顔馴染みの老サドゥが独り坐っていた。
 チャラスのことを尋ねると、ローソクを灯し、頭陀袋の中から布で包んだ塊を出し、小さなナイフと秤を使って、私の求める量を相場で売ってくれた。それはショッキングなシーンだった。
 「なぜ再びビジネスに手を出す気になったのか?」という私の質問に対して、世欲を放棄したはずの白髪のサドゥは恥じ入るように答えた。「わしは金が欲しいわけではない。しかしシヴァの礼拝にガンジャは不可欠なのじゃ。昔は信者たちからのバクシーシーがあったが、今はもう無い。必要な分は自分で稼ぐしかない のじゃ」
 同情するしかなかった。ついにサドゥすら金がないとやってゆけないインドになったのだ。かつてサドゥといえば傲慢なまでに超然としていて、バクシーシーを求めて食べ物や大麻に手を差し出しても決して頭を下げることはなかった。バクシーシーを得ようと拒絶されようと顔色ひとつ変えず、喜ぶことも悲しむことも 、怒ることも決してなかった。
 だからサドゥと乞食との区別は、誰の目にも歴然たるものがあった。だが大麻が規制され、サドゥが尊敬を失ってゆく中で「観光サドゥ」という乞食との見分けのつかない連中が出現した。やたら装身具を着飾り、観光客と記念写真を撮ってモデル代を稼ぐのだ。
 しかし堕落は止まるところを知らない。その後の情報によれば、「プッシャー・サドゥ」がケータイを持ったという。ポリス対策とはいえ「ケータイ・サドゥ」にどんな瞑想ができるのだろうか。そしてサドゥの個人的な堕落とは、インド全体の精神的、霊的な退廃に他ならない。

〔プシュカルの奥の院〕

 シヴァ・ラートリィから半月後の満月はホーリーである。既に祭りの一週間くらい前から、バザール広場では毎晩、盆踊りのように輪になった男たちが、棒を打ち合わせて踊る棒踊りの興奮が盛り上がっていた。
 祭り当日は色水や色粉をぶっかけ合う無礼講である。もっとも悪ガキ共が狙うのは、旅人でも若者に限られ、ミキやヒロミなど日本の若者たちは全身絵の具まみれだが、私には「ハッピー ホーリー!」の形式だけ。
 その若者たちが期待していたレイヴは、結局警察の妨害で中止になった。ゴアを発祥地とするレイヴは、プシュカル、マナリ、カトマンズ、コパンガン(タイ)、などアジア各地に拡がり、この数年来「無国籍ええじゃないか」の花を咲かせたが、アジアはもう限界なのか。レイヴ最前線は今秋は西アフリカ、来春は皆既日食の南米へと向かうようだ。
 余談ながら、バナラシに40日間もいて、一度もテクノを聞かなかったことを記しておこう。朝から夜中まで3000年来の宗教音楽が鳴り響く超保守的世界には、新しい音楽が入り込む余地がないのだ。
 プシュカルの10日間はよく歩いた。体調も回復し、体力もついた。一晩泊まりで往復20数キロもあるアジャパールという奥の院へも行ってきた。案内してくれたのは15年ぶりに再会したバカヴァンダースというインド人ヒッピーだ。彼は前回会った時はホテルのボーイをしていたのだが、その後ドロップアウトし、プシュカルとマナリを行き来して街売りをやっているとのこと。
 その日は朝方、村はずれのサーヴィトリ寺院の丘の麓でスケッチをしていたところ、大きな荷物を担いだバカヴァンダースが通りかかった。隣村に住むグルにマットレスを届けるのだという。片道3キロ程度だというから散歩のつもりで付き合った。 
 ところが半砂漠の荒野を越え、花々の咲き乱れるオアシスの集落でチャイとビスケットを摂り、孔雀の群れる村はずれの小川を渡り、禿鷹の舞う岩山の間を抜け、泉の畔の小さな寺院にたどり着いたのは、午後もかなりすぎた頃だった。
 バカヴァンダースは彼のグルが住んでいるという寺院の裏の洞窟をのぞいたが、誰もいないのを確かめると、マットレスを洞窟の奥へ運び込んだ。ボディナースというシヴァのシャクティ(性力と生殖の女神)を祀る寺院には、境内に湧水のプールがあり、バカヴァンダースはふんどし一丁でとび込んで汗を流していた。プールの周りには数人の村人がいたので、挨拶してチロムを回した。プシュカルから歩いて来たと言うと、片道13キロはあるとのこと。
 久しぶりに長距離を歩いたので、その日は歩く気がせず、といって宿泊の準備など何もなかった。寺院には昼間はサファリ・ツアーの観光客なども見かけたが、夕方には人影はなく、宿泊所も商店もなかった。バカヴァンダースに文句を言っても始まらないので、彼が持参した小麦粉で焼いたチャパティと水で粗末な夕食 を済ませた後、寝具がないので、寺院の床にごろ寝した。
 真夜中だった。バカヴァンダースは熟睡していた。月光に誘われるように私は裏山に登り、岩山と砂漠の荒涼たる風景を観た。それは死者の魂が彷徨うという冥土、黄泉(よみ)の国のようだった。
 「とうとう地の涯まで来てしまった!」と思った。それは私が今まで旅した最も遠いところだという気もした。これを観せるためにバカヴァンダース、即ち「神の召使」という名のインド人ヒッピーは、私をここまで誘い出したのかどうかは分からないが、誤差10キロのことで彼を責める気はなくなった。それどころか、ラジャスターンの旅はこれで満喫したという気になった。
 ウダイプールやジャイサルメールなどへの予定を中止にしたのは、古戦場の跡というのは観光ロマンは満喫させても、宇宙との合一という究極のシャンティを求める魂の旅人には不向きだということを、ジャイプールのアンベール城で感じたからだ。
 余談ながら、アンベール城は実物よりも、帰国後に観た映画「カーマ・スートラ」の方が、言うまでもなく絢爛豪華だった。

 


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