【第4部 4度目は最後の旅 1997・春】
第1章  還暦までの4年半
   

 [故郷での初の個展]

 チェーンスモークのインドの旅から、大麻なしの2ヶ月半の獄中生活を経て、シャバでの最初の一服は、ありがたさに涙が溢れた。そして「バブルの崩壊」という言葉を聞いた。
 すでに80年代末から不景気は始まり、夜のネオン街は「首狩り」に廻っても客は少なく、おまけにケチ臭くなって商売にならなかった。思えば60年安保の年から街頭に立ち、放浪を始めた60年代中頃から、全国のバーやスナックにとび込んで「こんばんわ、似顔絵はいかがですか?」と、ゲリラ的な稼ぎができたの も、30年に及ぶ高度経済成長のおかげだった。
 その首狩りの金を元手に築いたコミューン無我利道場は、93年にやっと右翼暴力団との裁判闘争が和解成立したが、その条件としてコミューンを解体して、3家族に別かれた。かくて「部族」系のコミューンは67年以来26年目にして姿を消した。そして私は大麻について語ることの封印を解かれた。
 その頃信州では、桂川直文やミヤケンたちが「麻の復権をめざす会」を結成した。私はその運動を広大するため東京で、丸井弁護士など有志10数名を召集し、相談した。
 11月に「ほら貝25周年記念イベント」が、国分寺のいずみホールで開催され、ボブとジュゴンが歌い、ナーガ、三省、ポンが詩を朗読した。(ナナオは不参加)約200人の聴衆の中には高田渡やスズキコウジもいた。私は大麻の詩を数編とシヴァ・マントラを歌ったが、元ヒッピーたちは大半が大麻を「卒業」し、乗りはなかった。2次会では元部族数十人の宴会になったが、禁酒中の私はひとり外でガンジャを吸った。
 94年春、6年間住んだ奥飛騨ロッセの廃屋から、高山市郊外の天提という高台へ引っ越した。乗鞍岳が一望できる明るい一軒家で、休耕田では大麻の栽培が可能だった。新しいアトリエが決まり、いよいよ本格的に絵を描く気になった。
 折から子供の本屋「ピースランド」の中神隆夫が、童画作家の原画シリーズ展を企画していたので、その最終回の7月に私の個展を催すことにした。
 5月頃、まだ作品は製作中なのに、宣伝ツアーに出かけようと、中神や克子の「サイバイズ」など10数人が車に分乗して関西へ。芦屋の宇吉堂のカメリアーノ夫婦の世話になって、神戸の菩薩茶屋、大阪のアチャコなどで宣伝パフォーマンスをやった。87年にUターン当時は、中神ひとりしかいなかったガンジャ吸い が、7年でゲリラ軍団にまで成長したのだ。
 個展会場となった「キディ・ハウス」は、私の育った花里町にあり、まさに故郷の内の故郷での個展デビューである。絵はインドの旅のスケッチブックを基に、大小数10点のアクリル画を描いた。(HP「ポンの絵」?17〜22)
 オープニング・パーティーにはボブが歌って70人くらいが参加、幼なじみから関東や関西のヒッピー仲間までが祝ってくれた。おかげで絵も100万円以上売れて一息ついたが、翌日は猛烈な腹痛の発作に襲われてダウン。
 なお、娘の宇摩がこの個展に津軽三味線を持って現れた。埼玉でバイトをしながら和太鼓をやっていたが飽き足らず、津軽三味線の師匠についての修行中だった。
 「麻の復権をめざす会」は機関誌『FREE TIMES』を発行、私は桂川達と共にアムスのカナビス・カップへの参加を計画し、更にその後スペインのベンポスタ子供の国を訪れ、空中ブランコを始めたという娘の維摩に会い、帰路インドのブッタガヤに寄って風景スケッチをして帰るつもりだった。というのも、ある寺の僧侶から屏風一双に仏教聖地の絵を依頼された からだ。3度目の旅で娘たちとブッタガヤを訪れなかったのが、この期に及んで後悔することになった。
 ところが11月初め、出発を間近に脇腹の苦痛が始まり、かかりつけのクリニックでいよいよ胃カメラテストをすることになった。今まで主治医から「あんたの体では胃カメラを呑むのがキツイだろう」と言われ、つい躊躇してきたのだが、十二指腸潰瘍かどうかは不確かだというのだ。
 だが検査日直前になって、玄米定食「茗荷舎」の大原加代子さんが、玄米クリームなるものを持参し、その作り方を教えてくれた。これが驚くほど効果があったので、胃カメラテストも、アムスやインドの旅も中止して、玄米クリーム療法に専心することにした。(しかし胃カメラテストだけは受けておくべきだった)

[寄る年波と重なる不遇]

 神戸淡路大震災で95年は始まった。玄米療法の効あって、3月はバリの取材旅行を無事果たした。これは元部族のクリスがハワイに住みつき、コンチネンタル航空の機内誌『パシフィカ』の編集、発行をしていることから、ルポとイラストの仕事を回してくれたのだ。
 航空会社の仕事とあって、初めてファースト・クラスの乗客となり、インペリアル・ホテルなどに泊まり、昼間は日本語ガイド付きの車で名所旧跡を巡り、夜はレストランやバーに招待されるなど、一生に一度のリッチな旅だった。
 バリでの20日間は3つの地域で過ごした。最初は芸能と芸術の中心ウブド、満月の旧王宮の庭で猿に扮した百余名の男性コーラス「ケチャ・ダンス」を観た。(HP「ポンの絵」No.25)次いでロンボク海峡を望む原住民の漁村でマジック・マッシュルームを採り、最後はサーファーたちの表玄関クタ、レギャン地域で旧暦の大晦日を迎え、巨大な悪霊のハリボテの山車が市街をねり歩く「オゴオゴパレード」を観た。

 バリはインドネシアで唯一のヒンズー教の島だが、インドのような非人道的なカースト差別はなく、共同体から排除されたホームレスも乞食もいない。三期作が可能な豊かなライステラス(棚田)と水牛や牛による農耕、芸能と祭りで結ばれた農村共同体、酒も大麻もないのにバリ人は世界一ストレスが少ないと言われる くらいナチュラル・ハイなのだ。
 しかし病める文明国から来た客人のためにドラッグは必要だ。現状は酒飲みには楽園でも、大麻吸いには失楽園だ。ジャワからの密売人のものは全てニセモノばかり。せっかくの旅が大麻がなくて欲求不満が残った。そしてシャンティなバリの最終日、地下鉄サリン事件のニュースが届いた。
 「オーム」とい聖音が日本では犯罪用語になったということが象微的だった。しかしシャブやLSDなど沢山のドラッグが摘発されたサティアンに、大麻がなくてホッとしたが、同時にもしシャブではなく大麻を使っていたら、あのような狂気も破局もなかっただろうと思った。これは「アサハラ」を名乗りながら、麻を無視し、ハラ(シヴァ)をハリボテにした不信心男に対する破壊神シヴァの怒りではないのか。
 8月は桂川に誘われて富士山の「レインボー2000」に参加した。レイヴは既に前年伊豆山中で体験していたが、シークレットなものだったから、2万人の若者が徹夜で踊り明かしたパーティには度肝を抜かれた。レジャーランドの人工空間を光と音のサイケデリックが彩って、それは新しい世紀の到来を予告している ようだった。
 バリのスケッチを基に、前年と同じ画廊で「バリ彩画展」を開催したが、お盆と重なったこともあって、来客も売り上げも半分以下だった。歯車が狂い始めたのはこの頃からだ。
 初対面の時はスキンヘッドのパンク娘だった名古屋のユカリと、夏から秋にかけて数回デートし、インドへ一緒に行こうと話は進んだが、2度のチャンスともインポテンツに終わり、3度目は拒否された。年齢差30歳、ガンジャを吸っても、立たないものは立たなかった。
 95年秋「麻の復権をめざす会」は、中央大学学園祭(多摩)で在校生と共同で「マリファナ・シンポジュウム」を開催した。パネラー=丸井英弘、桂川直文、前田耕一、上野圭一、川口進、山田塊也、司会=麻生結、歌=どんと、音響=浅田泰、参加約250人。まさか学生と共同で大麻のイベントができるとは期待もしていなかったが、これはわが国の大麻解放運動史 上の画期的な出来事である。
 なお、この年『マリファナX』(第三書館)が出版され、隠れたベストセラーになった。それまで大麻体験は匿名で語られていたが、この本では執筆者全員が実名で書き、巻末には大麻コンサルタントとして、丸井、前田、桂川、山田の4名が実名、住所、電話番号を公表した。それは麻取りに対する挑戦状でもあった。
 さて、玄米クリーム療法にもかかわらず、脇腹の痛みはぶり返し、マリファナ・シンポジュウムの時はパネラーの席を外して、密かにパンを食って痛みを誤魔化すありさま。シンポの後、前年買ったチケットをムダにしないため、タイまで飛んで、海岸で砂療法を試みたが退屈で続かず、空しく帰国した。
 故郷高山では翌春「飛騨すずらん国体」が開催され、皇族が来高するためバクトリ前科の私には、公安警察がうるさく探りを入れてきた。そのため飛騨先住民の古豪両面宿儺を亡ぼした大和朝廷の末裔を、歓迎するわけにはいかないという気になった。

[地獄への転落と上昇気流]

 人口数万の小都市高山では反天皇制集会など不可能だった。そこで思いついたのがステ張りである。ステッカーの文面は次のごとし、

 「 親愛なる飛騨の民よ!
★ 超A級戦犯ヒロヒトの孫に聖なる飛騨の地を踏ますでないぞ!
★ スズラン国体などドーンと一発ぶっ飛ばすが良かろう!
★日の丸、君が代などクソクラエざぞ!
                                   闇の土蜘蛛 残党 」

 信州の桂川に印刷してもらったこのステッカーを、最初は一人で市内に貼り歩くつもりだった。だが大雪の当夜、中神など4人が車まで出して協力してくれることになった。ステハリなどは現行犯でなければ逮捕はありえないと全員が思い込んでいたのだ。
 ところが翌日、事情聴取にやってきた地廻りのデカから、逮捕はもとより多額の罰金もありうること、また警察はこの事件を爆弾テロの刑事事件扱いにしているらしいことを知ってびっくりした。天皇制には冗談が通じないとはいえ、せめて「ドーンと一発」を「ポンと一発」とか、「闇の土蜘蛛残党」を「両面宿儺」と しておくべきだったと後悔した。
 このままではバクトリ容疑であちこちに無差別ガサが入るのではないかという被害妄想に陥った私は、まだ嫌疑も受けていないのに、くだんのデカを呼び出して「あれはオレがやったことだ。爆弾など仕掛けないから心配するな。文句があるなら令状もってこい!」などとバカな啖呵を切ったのである。すでにパニック状 態だったのだ。
 しかし翌朝ムザムザパクられるのはバカバカしいと思い、海外逃亡を企てて上京した。たまたまユカリとの約束を思い出して電話したところ、彼女は明日アジアへ旅立つというので新宿で会うことになった。そこで事情を打ち明けると「では一緒に行きましょう。お金は10万くらい余裕がある」という。そこでチケット の手配まで済ませたものの、その夜は迷いに迷った。
 「おかしい調子が良すぎる。ユカリと旅がしたいためにステハリをしたわけではない。これでは自己欺瞞ではないのか」というブレーキがかかり、結局ユカリとの旅を断念し、高山へ帰ったところ令状逮捕となった。
 当時、私は成田空港でパクられた時の執行猶予がまだ残っていた。ステハリなどの罰金刑は懲役刑の執行猶予とは関係ないはずなのに、当番弁護士から「裁判官の胸三寸だ」などと脅かされた。獄中では脇腹の苦痛を予防するため、夕飯の半分をおにぎりにして便所の隅に隠し、夜半便水を流しながら密かに食った。惨め なものだった。
 取調べではLSDのバッド・トリップのように、全てが裏目に出て、片っ端から足場が崩れ、自らを支えられなくなって前面自供してしまった。そのため中神など3名がパクられ、桂川印刷にも事情聴取がなされた。冬期国体が終わり、拘留期限いっぱいまで勤め、即決裁判で罰金25万円、他の3人との合計45万円は全国 からのカンパで賄った。
 たかが県条例違反でここまで弾圧を許す前例をつくり、実名報道による家族の被害を考えれば、これが分別知らずの若者ならともかく、還暦前の運動家とあっては、人格さえ疑われかねない大失態であった。
 天皇制を甘く見、警察をなめてかかった結果とはいえ、発想そのものが不純だった。私の企みは皇族に絡めて警察を脅かし、犯人を探してやると偽って金を要求し、その金で大量の大麻を栽培して、解放運動を広めようという魂胆だったのだ。そのためステッカーの文章が、冗談とも本気ともつかないあいまいなものとな り、自ら仕掛けた罠に自分がはまってしまったのだ。なお当時少しだがシャブを採っていた。
 しかし今でも疑問に思うのは、あの時なぜユカリと海外逃亡しなかったのかということだ。一緒に旅をしていればインポテンツも克服できたはずだ。千載一遇のチャンスを放棄して、血ヘドを吐くような敗北感と屈辱感に打ちのめされてしまったのだ。きっとあの時はあれが一番自分に誠実だったのだろう。結果的に挫折 と悔恨の日々を重ね、一ヶ月以上も家に閉じこもって謹慎した。そして借家を追われ、屏風絵をキャンセルされるなど、巨大なハンディを背負って60坂を迎えることになった。
 そんな時「京都まで酒呑みに行こうぜ!」と誘ってくれたのが摩訶舎のせっちゃんだった。京都ではせっちゃんの紹介で由紀さんに会い、彼女が私の個展のコーディネートを引き受けてくれた。
 5月には高山の郊外に大きな農家を借りて引っ越し、アクリル画の製作に没頭し、秋には茨木の春秋画廊など3ヶ所で「南方ルーツ風景画展」 を開催した。茨城の初日には大阪毎日テレビ(91年に『アイ・アム・ヒッピー』を映像化した)が取材、宣伝してくれたので大入りだった。
 打ち上げは「生活サーカス」の仲間たちが川原にパオとティピーを張り、70人ものパーティとなり、バウルのグルジーと数見真紀さんが歌ってくれた。クライマックスには突然雷雨が見舞い、全員踊り狂った。京都と大阪の2会場では豊田勇造が歌って、沢山の仲間を集めてくれた。ステハリ事件から9ヶ月、私は確実 に上昇気流を捉えたと思った。

[東南アジア還暦の旅]

 関西での個展で復活した私は、新しいネタを求めて東南アジアからインドへスケッチ旅行することにした。97年1月にチェンマイで開催予定のタイと日本の共同の「いのちの祭り」にも参加するつもりで。
 11月末、講演会で知り合ったサーフィン娘2人が、大雪の飛騨を訪れた。ガンジャ大好きの彼女たちにチェンマイのいのちの祭りのことを話すと、ミカという娘が一緒に行きたいという。初対面の男といきなり2人きりで旅するとは、どういう意味なのかと半信半疑だったが、それから半月後本当に成田からバンコクへ 飛んだのだ。
 カオサンのゲストハウスのダブルベッドに並んで寝たが、勿論手は出さなかった。3日目の朝、突然ミカが起き上がって「そうだ、ポンさんも男だったんだ!」という。「たった今、ポンさんとセックスしている夢を見て気づいた」というのだ。そして「別れた彼氏と決着がついていないし、ポンさんと寝たら別れが辛い だろうから、このまま日本に帰る」という。
 しかしせっかく旅に出たのに、このままUターンさすのは可哀そうだった。そこでミカを「自分の娘」として見れば、セックスなしの付き合いもできると説得して、それから40日間、ベトナム、ラオス、タイを一緒に旅した。5年前の娘たちとの旅が貴重な体験だった。私はミカを旅の主役と見なし、自分は脇に徹した。
 経済成長の活気に満ちたベトナムや百年前の故郷へ帰ったようなラオスの旅は、プラトニック・ラヴの高揚もあって快調そのもの、ガンジャも簡単に手に入った。

 正月2日の私の誕生日は、メコンの河船のハンモックの中で迎え、ミカから「ポンさん、還暦おめでとう!」と祝福された。還暦パーティは「生活サーカス」一行とベトナムですれ違ったので、後日チェンマイで開催した。紀州の「バグース」の仲間たちを含め、総勢20人くらいの楽しいパーティだった。
 ラオスからタイに入ったとたんに「これが文明だ!」と感嘆したのは、バスの中で、居眠りしたことだ。発展途上国のガタガタバスと道路ではありえないことだ。東南アジアでも真先に文明化し、観光客を受け容れてきたタイには、ヒッピームーヴメントも根づいている。「88いのちの祭り」には、タイのカラワンバン ドも出演しているのだ。
 1月17日、チェンマイ大学構内の野外ステージで日タイ共同「いのちの祭り」が開催された。企画したのは日本側はナミさん、タイ側はトウック。参加者は日本から200数十人、タイ側はその10倍か、白人旅行者の姿もかなりあった。本来ならキャンプインして交流を計りたいところだが、タイの軍事政権は許さず 、オールナイトのコンサートでさえ、これが初めてだという。
 出演バンドは日本側から「南正人とリバー」「バンドリーズ」「生活サーカス」「ザイ・オン・ハイ」の4バンド。タイ側から御大のカラワンや人気のカラバオ、主催のトウックなど20バンド以上。なおタイ在住の豊田勇造もカラワンと共演した。私も「生活サーカス」と一緒に「シャンカラ・シヴァ」のマントラを歌 った。
 カラワンのスラチャイにミカを紹介すると「カワイイネ!」を連発し、「頑張っているのはポンとオレだけだ。他の連中は女房で治まっちまったよ」という。スラチャイは昔から私のことを、自分と同じような「女たらし」だと誤解しているのだ。しかしミカとの関係を説明するには英語のボキャブラリーが決定的に不足 しているのを悟って、誤解のままに任せた。
 祭りの後、夢のようなアジアの旅から、日本の現実へミカは「巣立って」行った。共に過ごした40日間の旅の間、人々に問われるたびに私たちは「親子」だと名乗った。「25年前の隠し子」というミカの冗談を、私は半分本気にしかけていたのだ。その感情はミカに女を感じる時、近親相姦めいた自己嫌悪さえ抱かせ た。
 女というマーヤー(幻力)に惑わされないためには「全ての女を母と見よ!」とラーマクリシュナは言ったが、娘を持つ身の私には「全ての女を娘と見る」ことの方が容昜だった。そこには独占欲も、嫉妬も、束縛もなく、あるのはただ目に入れても痛くないような愛しさだけだった。


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