【第3部 3度目の旅 1992.1〜5】
第7章 ガンガーを越えて  バラナシ、ポカラ、カトマンズ
 
 

[ラマグルの茶屋  バラナシ]

 アジャンタに近いジャルガオンという小都市から汽車で延々40時間、デカン高原を横断して聖地バラナシにたどり着いた。夕方だったので安宿が見つからず、少し高いホテルを決めてから、日没後のメインガートに赴き、娘たちに痩せ細ったガンガーを紹介した。雨期前の渇水期、日一日と大河は痩せ細り、暑さがうなぎのぼりの時だ。
 翌日メインガートから少し下流の一画を歩いてシヴァ・ロッジを探した。トロンから「3月いっぱいはシヴァ・ロッジにいる」という手紙を、トリバンドラムで受取っていたからだ。新旧さまざまな石造建築が立て混み、狭い路地が迷路のように交わる中をうろついているうちに、サドゥスタイルのトロンにばったりと出会った。
 早速シヴァ・ロッジを案内され、オーナーから3階のガンガーに面したダブルベッドの部屋に案内された。ベランダから一望できるパノラマ風景に娘たちは大喜び、私は隣の石牢のような小部屋を借りた。3階の上が屋上になっていて、片隅の2部屋をトロンと相棒のキラキラが借りていた。トロンは毎朝4時にメインガートへ行ってデジリドゥを吹いているとか。キラキラはダンスを修行中。また2階にはナベとキタというお馴染みの若者たちも泊っていた。
 一段落してからGPOへ行って、サワと沢田さんからの局止めの手紙を受取り、青ちゃん(青山貢)が3月10日に肝臓ガンで死去したことを知った。1月7日「C+F」での送別会で、腹が痛いと中座した時、悪い予感はあったのだ。案の定、私たちがフライトした翌日、彼は吐血、入院し、肝臓ガン末期と宣告されたと、バンコクで会ったヒロシから聞いていたのだ。本人は知っていたはずなのに、最後までガンのことは隠していた。腹水で下腹が出た頃には「急性中年肥り」などと笑ってゴマ化し、私たちは騙されていた。
 私より5つも若い50歳、カウンター・カルチュア界は最高の情報センターを失った。まるで片腕をもぎ取られたような虚脱感を、永遠のガンガーを前にして味わった。全ては時の流れの中に呑み込まれてゆくのだ。
 シヴァ・ロッジの朝は日の出の前に起床。シャワーを浴び、ベランダでガンガーのパノラマと対面して「ボム シャンカール!」の一服を決め、砂丘の彼方に昇る太陽を礼拝。(HP、ポンの絵 No.22参照)娘たちの準備ができ次第ロッジを出て、朝の礼拝に賑わうメインガート周辺の光景を眺めながら、少し上流にあるラマグルの茶屋へ行くのが日課だった。
 茶屋といってもガートの中程に日除け小屋を設け、目の前のガンガーから汲んできた聖なる水を沸かして、オーナーのラマグルがチャイをたて、お客は石段の上に敷いた布の上に腰掛け、大河の流れを眺めながらチャイを呑むのだ。
 ラマグルは長身で渋い風貌の中年バラモン、田舎に実家はあるが、シーズン中は妻と4人の娘たちもガートで寝泊まりし、長女はそこから小学校へ通っていた。茶屋にはガンジャ好きのインド人とヨーロッパや日本などの旅人が集まり、密かにチロムやジョイントを回していた。昔はガートのあちこちでサドゥを囲んでチロムを回す光景が見られたものだが今ではガートまでが警察に管理されてしまった。ラマグルは自分も好きなので、茶屋では自由に吸わせていたが、多分地元のポリスを丸めこんでいたのだろう。勿論警戒は怠らなかったが。
 インド全体の宗教的ボルテージの低下は、ヒンズー教の最高聖地バラナシのガートを観察することによって推察されよう。沐浴や礼拝する人々の減少に反比例して、エンジン付きの遊覧船に乗った観光客が増加した。風格のあるサドゥとチロムを回した辺りでは若者たちがクリケットに興じ、水辺ではクロールの競泳大会、カセットテープから流れる甘い歌謡曲、聖地は俗化して遊園地と化しつつある。
 トロンからノリがいると聞いたので、最上流のアッシーガートまで、約2キロのガートを歩いた。前回の旅でゴアへ行く車内で会ったノリとは、その後日本の祭などで2、3回会っていたが、彼はほとんどインドで音楽修行をしてきた。
 アッシーガート一帯には大学や美術館、アシュラマなどがあり、留学生やミュージシャンも沢山住んでいた。ノリの紹介で10数人の日本人旅行者に会い、一緒に食事した。そこで久しぶりに会ったアミから「ポンさん、泣いても良い、泣いても良い?」と言われ、理由を聞くと、彼女が家出してインドへ来たところ、親がインド通の男を捜し出し、その男に娘を連れ戻すよう依頼したとか。その男というのが、たまたま帰国中のノリだったので、これから日本へ強制連行されるのだと言ってサメザメと泣いた。
 その夜は「ガンガーを浄化しよう!」という音楽会が催されたので皆で参加した。全てを浄める聖なるガンガーも、浄化運動が必要なほど汚染されているのだ。もっとも以前は毎日のように流れてくる死体を見たものだが、今回は半月も滞在したのに一度も見なかった。前宣伝がしてあったので娘たちをがっかりさせたが、これもクリーン作戦の一環なのか。ガンガーに死体はよく似合うのに。

[聖地に集う人々  バラナシ]

 ラマグルの茶屋に座っていると、水辺で沐浴や礼拝をする人々や、台座の上で瞑想やハタヨガをする人々を観察できたが、彼らから一人離れてせむし男が私を窺っていた。背丈も背中のコブも私と同じくらい、30代半ばで、着古したスカーフとルンギー(腰布)で黒い肌を覆い、裸足だった。
 彼は私に近づいて、絵ハガキを買ってくれとサンプルを出したが、ラマグルから乞食扱いされて追い払われてしまった。そこで私は娘たちを茶屋に待たせて、台座の陰でせむし同士の一服を交した。ラムジーと名乗るその男は乞食扱いされたことに憤慨し、絵ハガキは客に近づく口実だが、本職のプッシャーで儲けたら故郷のおふくろのもとへ、嫁を連れて帰るのだと言ってブツを出した。
 「チャラスはパールヴァティが350ルピー、ガンジャはケララが150ルピー」という。ブツは2級品で、相場より高かったが、片輪者のよしみで1トーラを言い値で買ってやった。しかしラムジーはニコリともせず、その輝く眼と精悍な面構えは久しく笑いを忘れたかのようだった。
 その後2、3回会ってボンをしたが、いつも暗く沈んでいた。どうやら彼が本当に欲しいのは金でも嫁でもなく、それは手段であって目的は、世間から「一人前」として認められることなのだ。その劣等感のために、吸っても吸っても翔べないのだった。
 ある日ラマグルの茶屋で、インドへ発ったきり音信不通だったランパとサクラ夫婦にばったり、2人の息子雄太(9)と翔(5)も元気だった。日本では子供を育てなくないとインドへ来て8ヵ月、未だ住む場所が見つからないという。2人共独身時代に無我利道場に来たことはあるが、子供同士は初対面だった。
 午後貸ボートを借りて7人で乗り込み、交替で櫂を漕いで対岸に渡った。岸辺に打ち上げられた牛の屍体に2、30羽の禿鷹と野良犬が2、3匹群れていた。背後の砂丘の上には100羽くらいの禿鷹と、カラスやトビなどが控えている。死神の従者たちにスケッチブックとカメラを持って接近するが、無愛想でビクともしない。数メートルも近づくと少し姿勢を動かす程度。屍肉あさりのプロとしての威厳はたっぷり。このアンタッチャブルな掃除屋たちのバックに、古代都市と大河が横たわるという聖地ならではの絶妙の構成。
 沐浴や洗濯や水牛を洗う此岸のガートでは、ガンガーに入る気のしなかった娘たちも、彼岸ではボートの上からダイビングして泳いでいた。子供たちのことをサクラに任せて、私はランパと一服するため場所を探した。上流の岸辺にボートを着けて2人の男がいた。先方が手招きするので行ってみると、初老のサドゥとボートマンだった。久しぶりに会ったサドゥらしい風格のサドゥだった。私たちが彼の前に坐ると、微笑でチロムを差し出したので「ボム シャンカール!」と唱えて受けた。今回の旅でサドゥとチロムを交したのはこれが初めてだった。世捨て人のサドゥでさえ彼岸に渡らねば安心してガンジャが吸えないほど、此岸(この世)は不自由になってしまったということだ。これがカリユーガ(末法時代)の聖地の現実である。
 それでも「インドは心が負けてない」と宇摩は言う。ある日のこと沢山の荷物を積んだ荷車が悪路に突っ込んで立往生していた。荷車引きが懸命に引くがビクともしない。その時、通りすがりの男が2人駆け寄って、荷車の後を押したので荷車は悪路を抜け出し、勢いをつけてそのまま行ってしまった。荷車引きは一言も礼を言わず、後押しした2人は何事もなかったように去って行った。
 インドの路上では再三見かける光景だが、そのたびに娘たちは深く感動するのだった。何の報酬も賞賛も求めない無償の行為、他人が困っているのを見て、ごく自然になされる親切、それが奇異に見えるほど日本では、それらの光景が失われてしまったのだ。
 「日本だって昔は見知らぬ者同士が、助け合って生きていたんだよ」と言ったら、「ウソー!」「まさかぁ?」というのが娘たちの反応だった。
 暑さは日一日と勢いを増す。ある日上流のバラナシ大学付近から娘たちと徒歩で、ガンガーの浮橋(乾期のみ架けられる)を渡って、対岸ラームナガル城の博物館を見学した。炎天下の暑さは相当なものだったので、帰路はリクシャを使った。途中イスラム教徒の居住区を通過する時は緊張感が走った。私たちが訪れる少し前にこの一帯でヒンズーとモスリムの暴動があり、死者まで出ていたからだ。インドは非暴力的な国であり、日常的に危険を感じることはないが、宗教対立となると狂気に支配されるのだ。(この年の暮、アーヨディアのモスクがヒンズーによって破壊されたことから、再び暴動が激化した)
 ロッジに帰った後、宇摩は鼻血を出し、維摩は頭痛を訴えた。気温は40度を突破、この暑さは日本人には限界のようだ。
 バラナシを去る前に、郊外の仏跡サルナート(鹿野苑)だけは見せておきたいと思い、ランパ1家と一緒に小型トラックを借り切って行った。到着したのは午前中だったがダメーク・ストゥーパのある公園では、暑くて木陰から一歩も出られないほど。仏陀の生涯を描いた壁画(日本人画家野生司春雪)だけは観たが、早々に退散してシャワーを浴びた。

[ツーリッピーの時代  ポカラ]

 4月13日 バラナシに別れを告げて、汽車でゴラクプールへ。そこからバスで国境を越えた。スノウリのボーダーは徒歩で越えるが、待構えた物売りたちが「コカコーラ!」とはやし立てる。インドはまだコカコーラを解禁していなかったのだ。山岳地帯に入るまで熱風が凄くて、仏跡ルンピニーへ立寄る気になれなかった。
 ポカラは自分の記憶力を疑うほど変貌していた。10年前にはレークサイドに点在していた茶屋やロッジや土産物屋が一連なりになった。そして安い茶屋や飯屋がなくなり、ツーリストプライスという特別料金を払わされるレストランで食事するしかなくなった。
 2年前の自由化以来、観光立国とかでネパールは大きく変ったようだ。かつてヒッピーの楽園だったところは観光化されてツーリストで賑わい、逆に貧乏人のヒッピーを追い出しにかかっているのだ。ネパールでは1ヵ月以上の滞在ビザは1日20ドルの銀行レシートがないと取得できない。1ヵ月600ドル(約8万円)はよほど贅沢な旅をしても使いきれない額だ。
 私たちをゲストハウスに案内した若いポン引きのラムは「今ネパールにヒッピーはいない、みんなツーリストだ」と言う。そしてツーリストとヒッピーをかけ合わせた「ツーリッピー」という言葉があるとも。
 ラムは奥地の山村出身で学校は行かず、レストランの皿洗いやポーター、トレッキングガイドなどを転々として英語と日本語を覚え、ゲストハウスの客引きをしているが給料は1ヵ月1500ルピー(ネパールルピーはインドルピーの6割)15歳の妻と8ヵ月の娘がいるが、生活は客からのチップが頼りとか。
 彼の家に娘たちと共に招かれ、若い主婦のトリ肉料理をご馳走になった。ラムの夢は日本へ出稼ぎに行って50万円くらい貯金し、ツーリストロッジを建てること。
 ところで私たちのゲストハウスには韓国の男性4人組が泊って、毎日麻雀をやっていた。一度誘われてレストランで少し話し合った。彼らは詩人、小説家、出版社、商人というインテリの山男たち。トレッキング目的でカトマンズからネパール人ポーター数名を雇ってきているが、山が晴れないため毎日麻雀に興じているとか。ちなみにガンジャ体験者は2人きりだった。
 ゲストハウスには他にも香港の女性2人が宿泊していた。かつては白人か日本人のヒッピーかツーリストしか訪れなかったインド亜大陸にも、アジア発展途上国のツーリッピーたちが登場しかけたのだ。
 しかしヒマラヤの楽園を訪れても、観光化された「ギヴ&テイク」の関係性からは、心の触れ合いは疎外されてしまうだろう。娘たちは日本で聞いたポカラの評判に疑問を抱いている。「ポカラって本当に楽園なの?」
 8日目目にやっとアンナプルナとマチャプチャレが神秘的な姿を見せ、遥かなる楽園のヴェールが開いた。ゲストハウスから麻雀の音が消えた日を、私たちはポカラの最終日とした。

[革命前夜の山の都  カトマンズ]

 ほこりまみれの山道を、段々畑を見上げたり、見下ろしたりしながら、ポカラからバスで8時間、首都カトマンズへ。先ずはリキシャでその名もフリーク・ストリートへ。すでに中心街はタメル地区に移ったとはいえ、旧王宮ダルバール広場には相変らず露天商が賑わい、白人ツーリッピーもいっぱいだ。
 初日は老舗のホテル・エデンに泊ったが、350ルピーもするので翌日からはGCロッジというトリプルルームで100ルピーの安宿に移った。4階の向いのアパートの幼女が、「アイ ラヴ ユー!」などと声をかけてくる。
 毎日のように娘たちとカトマンズの街を歩き廻った。今にも崩れそうな家並みも、ガタガタの舗装道路も昔のまんま、その狭い路地を日本車が駆けぬけてゆく、路傍に転がる水牛の頭蓋骨、禿鷹は梢に、河原には犬の死体がゴロゴロ、郊外まで住宅地帯が拡がって、人口100万にまで膨れ上がった首都は、スモッグも騒音も脱・発展途上国。
 かつての「大麻天国」はインド以上に厳しく、声をかけてきたプッシャーもその場にブツは持たず、約束の時間に横町の暗闇で無言の手渡し。1トーラが500ルピー(インドルピーで300)これでは不良品を渡されても文句の言いようがない。
 1950年に鎖国を解き、60年代にはビート、ヒッピーの聖地となり、70年代からは世界的なインドブームに乗っかって、山男からギャルまでツーリッピーを寄せ集め、今やスーパーマーケットでファミコンもビデオもウォークマンもCDも売っている。この物質文明の急激な乱入と、一方では相も変わらぬ無医村の山の民、その数カトマンズの16倍、見遥かす段々畑以上のこの格差。
 だが近代化は山の民を放っておかない。段々畑の谷底の川はダムに堰止められ、発電所は山の民にエレキを送り、やがてステレオが鳴り、テレビが映り、それにつられて若者たちがカトマンズやポカラに降りてきて、自らの貧しさを知り、日本への出稼ぎを夢見る。
 「たくさん稼いでたくさん使う。我々もそれをやってみたい」
 「カトマンズはバンコクに似てきた」と、タイへ行ったことのあるネパール人はいう。タイとネパール、ともに王制が現存し、一度も他国の植民地になったことのない国。農業国としての後進性と、観光立国によるやみくもな近代の導入によって混乱を極め、文化的なオリジンを失ってゆく国。ただし王制の安定度からするとかなり異なるようだが。
 ネパール王族に対する糾弾の声は80年代早々に上がり、民主化デモは年々エスカレートして、前年は死者400人。ツーリストも巻ぞえを食っているとか。街角には「VOTE FOR TREE」「SUN」などと政党への投票を呼びかける落書きやポスターがいっぱい。共産党ゲリラ「マオイスト」の活動もあって、王制打倒は時間の問題だ。
 5月1日のメーデーにはダルバール広場に学生や労働者など1000人以上のデモ隊が終結、その翌日は夕方から市内をねり歩く数百人松明デモ、火はやっぱり興奮をかき立てる。革命前夜の興奮と緊張を多少とも味わえて娘たちも満足のようす。
 そして3日目はゼネスト。ひょっとしたらデモから暴動、内乱にまで発展するかも知れないという噂もあったが、まだ時期尚早なのか、ゼネストは貫徹されたがデモはなかった。私たちは半分がっかりしながら、ホッとしてネパールを去った。


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