【第3部 3度目の旅 1992.1〜5】
第5章 椰子の楽園  ケーララ州
 

[優雅な南国の州都  トリヴァンドラム]

 アラビア海沿岸に細長く延びるケーララ州のケーラとは椰子のこと、ラは国を指す。文字通り椰子の木立の中に人の住む地方である。
 トリヴァンドラムは州都のわりには混雑も喧騒もない、いかにも南国らしいゆったりした優雅な都市だ。そこは地理的にもカルカッタの対極にあるように、文化的な異相は対照的である。とはいえ、西ベンガル州とケーララ州は最も共産党勢力が強く、進歩的な地域なのだが。
 インドを旅した旅行者が、買物や力車やタクシーなどでぼられ、だまされ、口論し、うんざりするのは、実はカルカッタを始め北インドのことである。南インドではマドラス以来、私は値段のことで口論したことが一度もない。人の好いこと、正直なこと、物価の安いこと、まるで別世界なのだ。
 駅前のロータリーから安宿街は歩いてすぐだった。ホテルはトリプルの清潔な部屋が、驚くほど安く、ボーイたちも感じが良くて、まるで高級ホテルの気分だった。
 ホテルの近くに「ノン・ベジタリアン」の看板を掲げたレストランがあって、カニヤクマリで食べ損なった待望のフィッシュ・カリーがあった。魚は20センチくらいのアジを丸ごとカリーに仕込んであり、私たちは大喜びで毎日食べた。
 レストランといっても10人も客が入れば満員になる程度のめし屋だ。店には男の店員が3、4人いたが、私たちが店の前を通りかかるたびに、ほぼ全員がアジの尻尾を持って店の前に並び、それをふりかざしてニヤケルのだった。
 「わたしたち猫じゃないわよ!」と、娘たちはプリプリ怒って無視したが、食事時になるとやっぱり店へ入ってフィッシュ・カリーを注文した。店員たちは料理ができる間もなにかとサービスしてはしゃぎ回った。娘たちならずとも、「まるで漫画みたい」な連中だった。
 GPO(中央郵便局)の局止めで、娘たちの母親から手紙が届いていた。日本を出てから最初の便りだ。娘たちは大喜びで返事を書いた。
 インドの旅を始めて丸1ヵ月。ざっと計算したところ、旅費は3人で約7万円、1日平均2400円、1人800円程度という安さ。ちなみに『地球の歩き方、インド編』というバックパッカー用ガイドブック昨年版によれば「1人1日1500円の安旅」とあるから、我われはその半分の超安旅だ。といっても、インド料理はたらふく食べて、果物は1日も欠かさず、力車にも乗ったり、たまには乞食にも恵んだりの豊かな旅なのだ。
 当地で出会った日本人の若者の1人は、「貧しく、汚く、危い」インド国内は、全て飛行機で移動し、ホテルは1泊200ルピー以上(我われはトリプルで200ルピー以下)、この後モルジヴへ飛ぶとか。もう1人はカルカッタ、マドラスを経てトリヴァンドラムに来たのは、格闘技を見物するためとか、彼らは民衆のインドに興味がなく、汽車にもバスにも乗らず、フィッシュ・カリーの安レストランなど覗いたこともない。要するに、金のある旅行者は金が視界をシャットアウトしているため、インドの何も見ていないのだ。
 MG(マハトマ・ガンジー)ロードをバスで文化公園へ赴き、博物館を見た後、動物園に入った。日本でも那覇、鹿児島、名古屋、上野、多摩などの動物園へ連れて行ったものだが、動物園はやっぱり子連れで行くところ、となれば私にとってこれが最後の動物園になるだろうと思った。
 アフリカ産のばかでかい河馬がいた。菩提樹のような巨木に無数の蝙蝠がぶら下がっていた。最初木の葉だと思ったが、蝙蝠と気づいてゾッとした。野生の動物がなぜ動物園の樹木に住みついたのか、不思議なことだが類は友を呼ぶのだろうか。
 ケーララといえば「ケーララ・ガンジャ」で有名だが、非合法化されたのでクオリティを確かめて買うわけにはいかない。適当なプッシャーが見つからなくて断念した。
 後日談ながら、この旅から1、2年後、私は未知なる旅人から電話を受けた。彼がトリヴァンドラムで出会ったサドゥは、日本人だと見ると自身が管理している小さな寺院に招き、ケーララ・ガンジャで歓迎してくれたという。そのサドゥはシヴァ・シャルマと名乗り、「ポンというヒッピーを知らないか?」と問い、もし連絡がついたらよろしく伝えてくれと頼まれたという。帰国後、彼はヒッピー人種を尋ね廻り、私の電話番号を探し当てたのだった。
 シヴァ・シャルマとは私が2度目の旅で、カトマンズからヒマチャルまで3ヵ月近く道連れになった相棒のことだ。私が娘たちとトリヴァンドラムを訪れた時、あの都市の何処かに彼はいたのだ。
 それから更に2、3年後、今度はかつてリシケシでマラリヤを完治したシヴァの全快祝いのパーティに同席した旅人(名を忘れた)から、トリヴァンドラムでシヴァに再会したという電話があった。シヴァは郊外の小さな寺院の寺男を勤め、地元住民からの尊敬と信頼も厚いが、健康を害していたとか。そして「もうあまり長くは生きられないが、充実した人生だったとポンに伝えてくれ」というメッセージを託されたとのこと。
 シヴァ・シャルマとの再会はついに果せなかったが、トリヴァンドラムという優雅な都市を思い出すために、かの地でサドゥとしての人生を全うしたインドの友を懐かしく思い出すのだ。

 [白人リゾートの明暗  コヴァラム・ビーチ]

 さて、ここからアラビア海沿岸に沿って北上するとなれば、延々たるヤシ林と白砂のビーチに、しばらく滞在したいものだ。当然第一候補はゴアだが、当時のゴアはすこぶる評判が悪く、日本人と見ればポリスが辻強盗に豹変し、大麻所持の濡れ衣を着せ、2、30万円の罰金を要求するとか。子連れの弱味につけ込まれて、ガンジャトラブルもありうると思い、今回はゴアを避けることにした。
 その代わり、トリヴァンドラムから南へ10数キロのコヴァラム・ビーチという有名なリゾート地を選んだ。インド料理にもすっかり馴染んだ娘たちが、このへんで自炊がしてみたいと言うので、バザールでケロシン・コンロとステンレス製食器などを買って、オートリキシャ(自動三輪)でビーチまで行った。
 リキシャを降りるとポン引きが話しかけてきたので、荷物を持たせて安いバンガローを案内させた。ポン引きはヤシの繁る畑や田んぼの小道を歩いて、ビーチに近い木立の中の集落に案内した。数10軒のツーリスト・バンガローの他に、食品店や雑貨屋があり、漁師たちの民家も混在していた。
 高台や道路沿いには高級ホテルがあったが、バックパッカーたちはバンガロー住まいだ。我われが一週間滞在したバンガローもベッドが3台、トイレ、シャワーがあって、自炊もできた。私にとっては再発しかけた脇腹の痛みを調整し、旅の疲れを癒すための小休止だった。ガンジャは吸い続けたが、タバコもビリーも止め、自炊の食餌療法が功を奏したのか、これ以後は激痛は次第に鎮まった。
 昼間は沢山のインド人観光客がビーチに集まり、遠浅の波間に戯れている。彼らは決して海水浴をしない。サリーの裾を引き上げて膝くらいまで水に漬かる程度だ。
 やがてアラビア海が真赤な夕日に染まる頃、インド人観光客の姿は消え、ビーチの砂浜には沢山のテーブルと椅子が並べられ、オーディオ・サウンドがポップなロックやレゲエを響かせると、白人ツーリスト用のレストランが開店する。もちろん「名誉白人」の日本人たちもいる。テーブルにはランプが点され、ボーイが注文を取りにくる。夜の帳に包まれながら、バックパッカーたちはひと時のブルジョア気分に浸るのだ。
 リックを担いで、汽車やバスを利用し、安宿や大衆食堂を巡るバックパッカーといってもヒッピー・フリーク系から、プチブル系までグラデーションはあるものの、いずれも観光資本のお客様だ。かつての文なしヒッピーの無銭旅行など不可能なシステムが、観光地には仕組まれているのだ。
 そんなビーチで、隣のテーブルの子連れツーリストと顔を合わせて、思わず微笑を交すこともある。それは古き良き時代のインドを知る元ヒッピー同士の無言の交感である。もうジョイントを交すこともなかったが。
 ある日の午後、レストランの隣の浜で地曳き網漁が始まった。10年前のゴアではもう地曳き網を曳く声を聞かなかったから、これは意外だった。娘たちも期待に胸をはずませて砂浜に腰を下ろして3時間近くも見物した。30数人の男たちが、沖合いに沈めた網の両端を曳いて、力を合わせて浜へ曳き上げた網の中にはジャコが数匹。さすがに漁師と目が合わせられなかった。20年以上にわたって日本の水産企業が乱獲してきたアラビア海沿岸には、もう魚などいないのだろう。先日は魚の代りに、白人青年の水屍体が上がったとか。
 全群が海に面していながら、漁業の廃たれたケーララ州はインドでも最も貧しい州のひとつだ。漁民のおかみさんが毎日、頭上のカゴに魚ならぬ果物を入れて、バンガローへ売りにくる。
 土地を売り、バンガローやレストランを受け容れて賑わう部落(ただし儲けているのはヨソ者の業者だ)と、旧式な漁法を続けて痩せ細ってゆく部落。コヴァラムの隣の部落は入口に番人がいて、ヨソ者の侵入を拒否していたが、カネとモノの侵略にいつまで抵抗できるやら。
 奄美にせよ、ゴアにせよ、観光化される直前の最後のオリジン(原型)を、私たち60年代のビートやヒッピー世代は目撃した。そしてそのことと観光開発は無縁でなかった。なぜなら商業主義は文なしヒッピーの無銭旅行を追いかけ、その楽園を侵略、加工して、売り物にしてきたのだから。例えばトカラ列島の諏訪之瀬島に、コミューン「部族」が入植した1967年、ヤマハは空と海から諏訪之瀬島を偵察したということを、私は後年、ヤマハレジャーランドが諏訪之瀬島に建設された頃、奄美の友人から聞いた。
 「来るのが遅すぎた!」と娘たちは口惜しがる。奄美もタイもインドも近代文明といううわばみに呑みこまれ、オリジンを失い、ボーダーレスにプラスチック化してしまう。もう昔に戻ることはない。そして私もまた、散歩していても脇腹が痛くて休憩ばかり、パワーアップしている娘たちには可哀想なことをした。55歳。しみじみと「老い」を実感させる旅になった。

 [夢幻メルヘンの船の旅  バックウォーター]

 トリヴァンドラムからバスで約2時間、クイロンの安宿で一泊した翌朝、ボート・ジェッティー(船乗場)近くの果物屋で、真赤に熟したマンゴーを発見。「やったー!」と娘たちが小躍りする。1月のタイでは青いマンゴーをスライスして塩、胡椒をふりかけて食べたが、ついにマンゴーシーズンの到来だ。果物好きの娘たちとのつき合いで、毎日のように熱帯地方の多様な果物を食べたが、やっぱりマンゴーが一番だ。さっそく一人一個づつ買って、クルーズ船に乗り込み、堅い木の椅子に腰かけて舌鼓を打った。
 船は20人乗りくらいのエンジン船で、村人たちの乗り合いだった。驚いたことに、またしても顔見知りのイギリス男性とイスラエル女性のカップルと乗り合わせた。彼らとはコナラクの「オリッシーダンスの夕べ」で出会って以来、マドラス、マドゥライ、カニヤクマリ、コヴァラム・ビーチと、行くところどころで再会。お互いに偶然の一致に驚いている。よほど縁があるのか、この後もバラナシ、カトマンズでも再会したのだから、同じコースを同じペースで旅したわけだ。
 エンジンの音も高らかにクイロンを出航したクルーズ船は、アラビア海に沿って運河を北上し、8時間半でアレッピーに到着するが、そこから更に北上してコーチンまではバックウォーターと呼ばれる水郷地帯で、無数の川と入江、湖などが複雑なデルタ地帯を形成し、昔から中国やアラビアなどとの交易で栄えた地域である。
 運河の両岸は見渡す限りのヤシの木立である。運河は大きな波も、急な流れもないから、エンジン船は少ない。砂利やココナツの実を運ぶ船も、大小の漁船も、渡し船も、ほとんどが櫂や櫓や水棹、そして帆など、さながら古代船の見本市のようだ。
 クルーズ船のエンジンの音に驚いて、アヒルや鵞鳥の群れがバタバタと羽ばたいて、水面を走るようにして飼主のプールに逃げ込む。水中で戯れながら手を振る子供たち。ヤシの木立の中には、ヤシの実の繊維を採取する作業場や手づくりの造船場などが見える。水と生活が一体化した夢幻メルヘンの世界である。ゴミひとつない、こんな美しく清潔なインドがあったのかと驚くばかり。
 クルーズ船はいくつかのジェッティーに接岸し、そのたびに何人かの村人が乗り降りした。昼頃、突然運河から外洋かと思うほど広々した湖に出た。この視界の変化はヤシの包囲網からの一瞬の解放だった。
 岸辺にはチャイニーズ・フィッシング・ネットという珍しい仕掛があった。水中に沈めた網を、ヤシの丸太の弾力性を利用して一気に引き揚げるというロマンチックな漁法である。
 クルーズ船は再びいくつかの運河の水路のひとつに突入して、ランチタイムにはレストランのあるジェッティーに接岸した。ランチはバナナの葉の皿の上に、フィッシュ・カリーが出た。このへんで1、2泊してみたいと思ったが、ホテルらしきものが見当たらないので諦めた。
 不思議な水草を見た。エンジン船が近づくと、水面に浮かんでいた蓮状の葉を閉じ、魚の食いついた釣針のウキが水中に引きづり込まれるように、葉を水中に没してしまうのだ。群生する蓮状の葉がいっせいに水中に没するさまは不気味ですらあった。
 終点のアレッピーに到着するころには陽は傾き、川面は刻々と色を変え、漆黒の闇に呑みこまれてゆく。岸辺の家々に灯が点り、ヤシの楽園の団欒が聞こえるようだった。

 [ケーララ・フリークス  コーチン]

 バックウォーターの世界はアレッピーから更にコーチンまで続くのだが、当日はボートの便がなかったのでバスでコーチンへ。エルナクラム地区にロッジを決め、街を見て歩いた。
 海岸には対岸のウイリンドン島行きのボート・ジェッティーがあり、貨物船や造船所など貿易港の賑わいが見えた。サッカー場が開放されていたので、何となく観覧席に坐って、若者たちが遊び戯れている様子を眺めた。
 夕食後、夜の街を歩いていたところ、中年のプッシャーからガンジャはいらないかと声をかけられ、値段を聞くと2トーラで150ルピー(750円)だという。タミル・ナドゥの相場の1.5倍だが、ケーララ・ガンジャの上物なら良いだろうと、前金150ルピーを渡し、彼が案内したココナツワインの酒場で待つことにした。
 薄暗い酒場はカウンターに2、3人の客がいたが、私たちは片隅のボックス席に坐って、何も注文しないで待った。5分か10分の辛棒だと思って娘たちを納得させたのだが、プッシャーは1時間経っても戻ってこず、ボーイに訊ねたところ、知らない男だという。
 まんまと騙されたと思い、私たちは頭へきて酒場を出た。ところがロッジへ向かって数分も歩かないうちに、背後からプッシャーが息せき切って駆けつけ、ガンジャが無くてさんざん捜し歩いたのだと言い訳をして、やっと手に入れた3トーラ分だと言って紙袋を手渡した。そして、もう1トーラ分70ルピーを払ってくれという。
 しかしどう見てもガンジャは3トーラはなかった。私が2トーラ以上払えないと言うと、彼はくどくどと泣きごとを言った。その時、傍で黙っていた宇摩がいきなりプッシャーになぐりかかり、胸ぐらをつかんで締め上げた。驚いたプッシャーは悲鳴を上げた。
 「宇摩、もう止めろ!」と、私は娘をなだめた。さんざん待たされた挙句、卑劣な態度を見て頭へきたのもわかるが、前金だけ取ってそのままトンズラもできた訳だから、悪党というほどでもない。そう言って宇摩を納得させ、あと70ルピーを払った。
 宇摩に頭を下げて金を受取ったプッシャーは、ウマというヒマラヤの娘の正体が、夫であるシヴァさえがたじろぐ、闇より黒い死と破壊の恐怖の女神カーリーであることを、ヒンズー教徒なら知っていたはずだ。
 ヨソ者ヒッピー差別により、宇摩は小学4年で登校拒否したが、それまで中学生など数人の男子上級生から、しょっちゅう体育館に呼び出され、集団リンチを受けてきた。そこで学校を辞めてから、下校時を待伏せて、1人づつ全員を制裁したとか、悪ガキ共が青ざめて土下座するまで。
 
 高い金を払ったわりには、ケーララ・ガンジャは上物ではなかった。昨夜の嫌な気分を一新するため、今日はカターカリ・ダンスを観ることにした。ケーララの伝統的な宗教舞踊カターカリ・ダンスはコーチンが本場だ。三つの劇場で演じられていたが、ロッジに近い劇場を選んだ。
 本番が始まる3、4時間前から、役者たちの厚化粧と豪奢な着付けなどの楽屋風景を、たっぷり観照させてくれる。
 ステージはラーマ役者と相手方の2人だけ、他に楽士が2人、語り部が1人。舞踊は顔の筋肉や指先の動きで、心の微妙な動きを表現するパントマイム。
 観客は約20人の白人ツーリストと我われだけ。入場料50ルピーは伝統芸能保存料か。日本の能楽のように、大衆とはかけ離れた芸能という感じだ。とはいえ心に焼きついたイメージは鮮烈だった。
 劇場で伝統芸人の演技を観た後、街頭で聖者≠フような生人間に出会った。MGロードの街頭に小さなテーブルを置いて、宝クジを売っているせむし男がいた。障害者のほとんどは乞食だが、彼は働いていた。
 娘たちと歩いていて、そのせむし男と目が会った途端に、その中年のフリークはニッコリ笑い、「やぁ!」と右手を上げた。まるで再会を喜ぶように、懐かしそうに。近づくと彼は右手を差し出し、握手を求めてきた。
 私がそれに応じて右手を握ると、彼は満面の笑いを浮べ、歓喜の声を発して私を引き寄せ、抱きかかえるようにして左手で私の背中のコブを撫で回した。まるで愛撫するかのように。
 人間には見たり触ったりしてはならない恥部があるように、身体障害者にとって障害とは恥部なのだ。従って私の経験からしても、こんな愛情表現は初めてだった。それは一線を越えていた。「同病相哀しむ」なんてものではなかった。その逆だ。
 「いやぁ、ご立派なのをお持ちですね!」
 という賞賛なのだ。そこで彼は私の肩越しに、2人の娘の存在を確認する。そして「ご立派の証拠」を見たといわんばかりに、もう一度強く右手を握りしめてきた。
 彼の背中のコブは小さかった。見かけも良くなかった。しかし翔び≠ヘ正真正銘のフリーク最前線だった。


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