【第3部 3度目の旅 1992.1〜5】
第4章 生粋の先住民文化  タミル・ナドゥ州
 


[路上は最高学府  マドラス(チェンナイ)]

 南インドのタミル・ナドゥとケララの両州は、先住民ドラヴィダ民族が紀元前15世紀頃、西北方面から侵入したアーリヤ民族に押されて、デカン高原を南下して定住した地方である。紀元前3世紀、アショカ王の仏教による全インドの統治から外れ、17世紀のムガル帝国のイスラム教による支配からも免れたという生粋のドラヴィダ文化の宝庫なのである。
 インドは広く、汽車の旅はのんびりだ。ブバネシュワルから乗った2等列車は、ベンガル湾に沿って南下し、アーンドラ・プラディーシュ州のゴーダーヴァリ川とクリシュナ川の長い鉄橋を渡り、タミル・ナドゥの州都マドラスまで約1000キロを、20時間もかけて走った。
 3段ベッド式の寝台列車で娘たちが目を覚ますと、周囲の乗客の顔つきや言葉やムードが、昨日までのインド人たちと変っているのに戸惑う。鼻が高くて彫りの深い北インドの人たちと異なって、南インドの人たちは全てが丸くて親しみ易く、肌の色も黒い。
 寝台をたたんで座席に腰をかけると、おばさんたちが話しかけてくる。言葉など通じなくても座席の一画はファミリーのようなものだ。インドを訪れて2等列車(20年前は3等だった)に乗るたびに私は思うのだ。「人間とは本来このように親しいものなのだろうか、それともインド人は特別なのか?」と。
 マドラス駅に到着するや、私はプラットホームを往き来する赤帽たちの中に、20年前、私にガンジャのイニシエーションを授けてくれたカニ男を探したが、見当たらなかった。
 リクシャワーラーに案内させて駅の近くに安ホテルを決めた。私たちの部屋は2階だったのだが、夜半過ぎに1階から各部屋をノックする足音が聞こえ、やがて公安警察が訪れパスポートをチェックして行った。「何かあったのか?」と尋ねたが「ノープロブレム」とだけ。
 マドラスでは1年前、選挙運動中のラジーヴ・ガンジー元首相が、タミル過激派によって暗殺されていた。犯人はサリーに爆弾を隠し持った女性ゲリラで、自爆テロだった。これにより同情票が集まり、落ち目の国民会議派は第1党に復帰し、ナラシンハ・ラオ政権が誕生したが、政局は多党派連立の時代に入った。
 なお、この事件の背景にあるのは、隣国スリランカにおけるシンハリ人(仏教徒)とタミル人(ヒンズー教)との内戦であり、少数派タミル人の武装ゲリラ組織「タミル・イーラム解放の虎」の活動がある。87年、ラジーヴ・ガンジーは首相としてスリランカへ平和維持軍を派遣した。暗殺はそれに対する報復と見られた。
 のっけから政治的緊張感だったが、このホテルには『地球ホイホイ』の著者金井しげさんが滞在中で、訪ねて来てくれた。社会党事務局を定年退職後、1人で世界旅行をしている元気なおばさんである。
 タイの古本屋で買った3年前のガイドブック『地球の歩き方・インド編』によれば、マドラスに水族館があるというので行ってみた。奄美の海を見てきた娘たちには、ベンガル湾にどんな魚がいるか興味津々だった。ところがどっこい、小さな水族館の10個くらいの水槽には赤いヒラヒラの金魚ばかり。「Japanese Carp」と表示してあった。
 あほらしくなって表を出たところ、田舎から来たという中学生が30人くらい。誰もカメラを持っていなかったので、宇摩が記念写真を撮っていた。
 マドラスの大道は20年前、初めてインドを訪れた私を驚きと感動の渦に巻き込んだように、娘たちを仰天させた。最も凄絶なものは、両手両足を手首と足首からちょん切られた赤ん坊が、5歳くらいの姉に抱かれてニコニコ笑っている光景だった。乞食の子は生涯乞食、少しでも貰いが多いようにという親心だと言うが、子供の将来というより親の現在のためだろう。
 娘たちにそれを説明すると、さすがに正視に耐えかねて、恐るおそる横目で見ながら通りすぎた。とてもカメラを向けたり、バクシーシーをする気にはならなかったようだ。
 街角のゴミ箱に頭を突っこんで、野良犬と残飯を奪い合っている男を見た。彼は自分が人間であるという尊厳を持ち合わせていないのか、それとも人間であることを超越してしまったのか、正気か狂気か、哲人のように厳しい風貌の大男だった。
 街頭の共同井戸で行水したホームレスの親子が、道端に転がって戯れている姿は心がなごんだ。
 「インドの路上は人生の最高学府だ」と、私はかねがね思っていたが、その最高学府も管理化が進むにつれて随分と貧しくなった。ある時、街頭で蛇使いを見かけた。宇摩がカメラを向けるとバクシーシーを要求したので5ルピー(25円)を払った。いざ、笛を吹いてコブラが鎌首をもたげたところで、2人のポリスがやって来て、蛇使いを追っ払ってしまった。インドの大道もまた「クリーン作戦」だろうか。あんなに沢山いた大道芸人の姿が、路上からかき消えてしまったようだ。

[聖なる丘の巡礼  ティルバンナマライ]

 マドラスからバスで南へ7時間、懐かしい田舎町のティルバンナマライに到着。そこから聖なるアルナチャラ(かがり火)の丘の麓にあるラマナアシュラマまで、リクシャで約10分。予約していなかったので滞在は3日間しか取れなかったが、私たちに当てがわれたウシャス(暁の女神)という名のバンガローは静かで清潔でとても良かった。
 昔訪れた時に出会ったマハリシの直弟子たちやオズボーン夫人などは不帰の人となり、アシュラマのメンバーは全て替ったが、昔ながらのシステムはそのまま。朝と晩の食事は食堂の床にバナナの葉を広げ、南インド料理が腹一杯になるまで振舞われる。北インドでは右手の指先だけを使うのが上品とされるが、南インドでは掌まで使ってグチャグチャかき回して食べるのだ。イディリーやマサラドーサなど独特の美味があった。
 アルナチャラの丘は8合目くらいまで登った。丘といっても平原の独立峰だから地平線がくっきりと見える。ラマナマハリシが住んでいたという洞窟を覗き、夕焼けのティルバンナマライの寺院と町を俯瞰した。幸い、ティルバンナマライは『地球の歩き方』などのガイドブックに1度も紹介されたことがないので、日本人の観光客は皆無。観光公害を免れている。
 2月17日、フルムーン。この夜はアルナチャラの丘の周囲13キロを、右廻りで一周する「ギリプラダクシュナ」という聖地巡礼の夜だ。6年間もアシュラマで修行している日本女性菊地美穂さんの案内で、ハタヨガのインストラクターをしているという2人の日本女性と、カナダ系インド人男性、そして我々父娘の計7人で、夕方5時半ころアシュラマを出発した。
 時々はだしになって歩いたり、村の子供たちと挨拶を交したり、聖者が愛したという橋のたもとに坐ってみたり、あるいはドイツの金持ちが買占めたという広大な土地を見て腹を立てたり、最近強盗に襲われたというサドゥの話を聞いたりして、聖なる丘の上に輝く満月を眺めながら、9時頃ティルバンナマライの寺院にたどり着いた。その間、ギリプラダクシュナの巡礼に歩いている人やグループには1度も出会わなかった。
 余談ながら、それから10年後、サワが参加したギリプラダクシュナの巡礼は、巡礼者の流れが断ち切れないほどの超満員だったとか。映画かテレビで有名になったらしい。日本人が行かなくても観光公害はあるのだ。

 [625円の天国  ティルチラパッリ]

 アルナチャラの丘から南は、私にとって初めての土地だ。バスは巨大なジャガイモのような岩が転がるシュールな荒地を走る。昔、ラマナアシュラマで出会った巡礼者から聞いた「ティルチラパッリ」という奇妙な名が忘れられなくて、予備知識もなく寄ってみた。
 かつて要塞だったロック・フォートは、聳え立つ岩山をくり抜いて頂上まで続く長い階段を登るのはしんどかったが、途中には象のいる寺院があったりして、休み休み登った。屋上の展望台からの眺めはのどかで素晴らしかったが、ガンジャが無くて物足りなかった。
 いつの間にか旅は娘たちイニシアティヴで進む。会計を仕切るのは宇摩だ。彼女は既に14歳の時、年齢を偽って鹿児島の食堂でバイトしていたこともあり、経済観念はしっかりしていた。旅の予定から金の使い方まで、命令は娘たちから父親へ一方的だ。
 ロッジはダブルベッドだったので、私は土間にマットを敷いて寝ることにした。ガンジャを切らして元気の出ない私に、娘たちは言った。
 「わたしたちと一緒にいたら手に入らないかもよ」
 「1人で歩かなきゃプッシャーは来ないんじゃないの」
 そこで私は小遣銭をもらって、夜の街を1人で散歩していたところ、間もなく怪し気なプッシャーが声をかけてきた。私が2トーラ(約22グラム)を注文すると、ブツはここには無いと言ってタクシーを止め、私も一緒に郊外の農村地帯へ連れていかれた。
 やがて一軒の農家の前で車を止め、私が渡した100ルピー(500円)札を持って農家を訪れ、2トーラ分のガンジャを買ってきた。ガンジャの売買がここまで慎重なのは驚きだったが、月明かりの下でキツネとタヌキの商のようなアバンチュールは、タクシー代25ルピー(125円)を含めて、625円の天国をものにした。

 [マジック・マッシュルームの名所  コダイカナル]

 2月なのに扇風機の下でも寝苦しい熱帯夜を逃れて、高原の避暑地でも訪れてみようとコダイカナル・ロード駅で下車。駅前のHOTELという看板の店で聞いたところ、食事だけで宿泊はできないという。
 そこで食後、駅長に相談したところ、駅舎2階のリタイアリング・ルームという便利なものを、1部屋60ルピー(300円)で貸してくれた。それまで泊ったどのロッジよりも清潔で上等。高い天井の下で娘たちはトランプに興じていた。
 翌朝バスでコダイカナルへ。日本のガイドブックには紹介されていないが、ヒッピーの間では知る人ぞ知るマジック・マッシュルームの名所である。標高2250メートルは肌寒いほど。インド人とヨーロッパ人の観光客がいっぱいだったが、日本人は見かけない。
 ロッジの若者に聞いたところ、マッシュルームは雨期(タミル・ナドゥの雨期は10〜12月)でないと無く、ガンジャは警察がうるさいとのこと。案の定、夜11時頃、ポリスが2人訪れてパスポート・チェックをしていった。「そこまでやるの?」という感じだ。
 コダイカナルはインド人には暑さ知らずで風光明媚な天国だろうけど、白樺と湖の高原風景は日本人にはさほど珍しくもない。ウッスライ山というトックリのような山は面白いが、娘たちにマジック・マッシュルームを食べさせられないとなれば用はないと、1日でおさらばした。  

 [ドラヴィダ文化の根拠地  マドゥライ]

 ミーナークシー寺院を中心に都市が形成されているマドゥライでは、ラーマクリシュナという名前のホテルの4階に宿を決めた。
 エレベーターがあり、乗った者が昇降ボタンを押すのだが、私は誤って1階と4階を2、3回往復したので、あわてたボーイが走って階段を上下した。ボーイに詫びたところ、ガンジャを買わないかと言われ、喜んで買った。
 4階の窓から眺める街の風景は楽しかった。目の前の大通りは右手にクリシュナ寺院のゴープラム(塔門)が見え、カラフルな神像が鈴なりになっていた。朝から門前は市をなし、様々な物売りや巡礼者、観光客、乞食などがうごめき、牛車や馬車やリクシャなどが行き交う。そして甘ったるいインド音楽が鳴り響く。
 娘たちの注目を集めたのは終日路上に正座して紐を売っている哲学者のような中年男だ。紐は黒い50センチくらいの靴紐のようなものを、ほんの一握り。だが売れたのを見たことがない。彼は日除けのコウモリ傘をさし、読書に専念している。
 そんな彼も午後の昼寝の時間にはいなくなる。日陰の路上ではリクシャワーラーも乞食も、野良牛や野良犬と一緒にゴロリと横たわって眠っている。シャンティ・タイムだ。
 ドラヴィダ様式のヒンズー寺院に特有のゴープラムこそは見事なものだ。東西南北の塔門のみならず寺院の内部にもあって、極彩色の神像が、塔の周りにひしめいている。
 ドラヴィダの土着の女神であるミーナークシーは、後代にヒンズー教の勢力拡大によって、シヴァの妻とされ、パールヴァティとして祀られている。そしてミーナークシーの夫であった土着神アリャハルはミーナークシーの兄にされ、ヴィシュヌ神として祀られている。かくの如く、インドの土着の女神たちは後代にシヴァの妻=シャクティ(性力)とされ、パールヴァティとされている。
 ミーナークシー寺院の内部を見学していたところ、10数メートルの距離から商社マン風の日本人2人が、私たち親子を見かけてギョッとしていたが。「まさか?」という顔をして去っていった。
 南インドではほとんど日本人を見なくなる。日本人であることが良くも悪くもアジアの特殊民族と見られることから解放されて、チベタンやネパリーやチャイニーズ並みに見られるのは心地良いことだ。英語が下手なのもアジア人一般並みだ。娘たちだって日本人が見ても、日本娘とは見えなかったようだ。
 マドゥライでは一日、娘たちにガンジャを吸わせてみた。赤ん坊の頃からガンジャを吹きかけて育てたから、基礎はあったはずだがまだ1度も直接吸ったことはなかった。朝食後、2人とも興味津々で吸ったが、パイプ1杯分も吸いきらないうちにすっかり効いてしまって、ベッドにダウンしてしまった。
 その結果、その日は食事に出た以外はどこへも行かず、終日ベッドでゴロゴロしていた。そして夕方「今日は一日損した」という。「毎日最高に楽しかったのに、ガンジャを吸ったらだらけてしまって、遊びに出る気もしなかった」そうだ。
 そこで私は悟ったのだ。「ナチュラル・ハイの人間に、ガンジャは必要ないのだ」ということを。というよりマイナス効果でしかないのだ。しかし思った。「人間はいつもナチュラル・ハイでいられるはずがない。いつか挫折し、悩み、迷い、落ち込むこともあるだろう。その時はガンジャが必要になるだろう」と。
 ところがそれから17年、2人の娘は未だガンジャを必要とするほど「ナチュラル=天然」を侵されていないようだ。なにしろハイハイする頃には「ギーコ ギーコ」というノコギリの音で踊っていたのだから。おかげでオヤジは細いスネを噛られる心配がないのだ。

[インド亜大陸の最南端  カニヤクマリ]

 マドゥライから『ラーマヤーナ』で有名なラーメシュワラムへ行こうかどうかと迷ったが、行けば目の前のスリランカへ渡りたくなり、娘たちの希望のネパールへ行けなくなるので、ラーメシュワラムを諦めて最南端のコモリン岬へ向かった。
 コモリン岬の聖地カニヤークマリは土着の女神クマリ(聖処女)がその名の由来。街の南西端にクマリ・アンマン寺院があり、巡礼の観光客で賑わっていた。久しぶりに日本人を4、5人見かけた。
 寺院の裏の海岸に沐浴場があり、そこから沖合いのヴィヴェーカーナンダ・ロックまで小舟が通船している。19世紀末、グル・ラーマクリシュナ亡き後、高弟ヴィヴェーカーナンダは放浪の旅に出てこの地を訪れ、泳ぎ渡って瞑想したという岩を、寺院スタイルの記念碑にしたのだ。
 当時20代だったヴィヴェーカーナンダは、ここで海の彼方のシカゴ宗教会議への参加を決意し、西洋精神世界に衝撃と覚醒をもたらし、東洋精神世界に自信と復活を促した。
 カニヤークマリは潮風が吹いて、マドゥライよりも涼しく、私たちが借りた5階の部屋は南西の窓が開いたから扇風機もいらなかった。窓からはベンガル湾、インド洋、アラビア海が望めて、ヴィヴェーカーナンダ・ロックは目の前だ。こんな絶好の部屋なのに安かったのは、エレベーターが無かったからだ。
 そのため肺活量の少ない私は階段を登るのが大変で、フーフー言いながら5階の部屋にたどり着き、ノックしてドアを開けると、一足先に到着した娘たちがベッドの中で仮眠していて、「あら ポンちゃん どこかへ行っていたの?」だと。
 その代わり、海からの日の出と日の入りはホテルに居ながらにして拝めた。毎日のようにヴィヴェーカーナンダ・ロックの沖合いにサメの背ビレのような黒っぽい帆舟が数10隻も群れていた。その帆舟は丸太4、5本を横につないで帆を立てただけ。風に倒されれば、ひっくり返して帆を立て直すだけ。舟というより帆かけ筏であり、海上の止まり木という感じだ。
 漁村はプリでもここでも粗末な小屋がひしめき、くっつき合っていて、一歩踏み込んだら迷路のようだ。海辺はどこも糞の匂いが漂い、半裸の男たちが網を繕い、ガキ共が遊び戯れている。スケッチブックを開いて、果物売りの女をスケッチしようとしたところ、たちまち黒山の人だかりとなり、ついには目の前に立ち塞がり、描いている風景が見えなくなってしまった。
 集落からやっと抜け出たところに、キンキラキンのキリスト教会があった。ここはヨーロッパから喜望峰を廻って、アラビア海を経てやって来た宣教師たちが、やっとインド亜大陸へたどり着いた感動の地なのだ。それはまた植民地侵略のはじめの一歩でもあった。


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