【第1章 最初の旅 1971・秋〜72・春】
[聖なるアルナーチャラ山のアシュラマ  ティルバンナマライ]

 マドラスの朝は熱帯系の小鳥たちの奇妙な囀りと、近くのモスクから朝の礼拝を呼びかけるアザーンの朗々たる歌声で目がさめた。
 1日がガンジャの一服で始まるというのはゴージャスな気分だ。博物館などマドラス市内を2、3日見物した後、最初の目的地である南インドの聖地を訪れるため、久々にリックを担いでマドラス駅まで歩いた。
 切符を買ってプラットホームの雑踏にまぎれ込んだ私たちは、そこでバッタリと蟹男に再会した。乗客の荷物を担いだ汗まみれの蟹男は、私たちの顔を見ると破顔一笑したが、そのまま雑踏の中に没してしまった。彼は赤帽であり、プラットホームを生活の場とするアウトカースト(不可蝕民)である。後日彼らにとって1ルピーは、半日分の日当だと知った。
 インドは鉄道大国だ。当時ディーゼル列車もあったが、私たちが利用した各駅停車、全席自由の3等列車はほとんどSLだった。そこには庶民文化の花が咲き、人間とはこんなにも親しいものなのかという感動があった。
 私たちが最初の目的地に選んだのは、聖なるアルナーチャラ山の麓にあるラマナ・アシュラマだった。それはラマナ・マハリシという聖者を慕って集った人々が建てたアシュラマ(修行場)で、1950年のマハリシの没後も、巡礼者に開かれた瞑想の場であった。

 私がこのアシュラマの存在を知ったのは、60年代初頭にここを訪れたアメリカのビート詩人ゲーリー・スナイダーの紹介によるもの。彼の手配で一時はアシュラマが発行する機関誌『Mountain path』が、私たちのコミューンにも送られて来ていた。私たちの仲間ではすでにナーガ(長沢哲夫)が、68年にアシュラマを訪問していた。
 車窓から大平原のパノラマ風景に見とれているうちに、目的地ティルバンナマライ駅に到着したのは、午後もだいぶ遅かった。小さな田舎駅に降りる人はほとんどいなかった。私たちは改札口を出て、待合室を通過し、出口を一歩踏み出した途端に、10数人の男たちからワーッと声をかけられ、足がすくんだ。リキシャワーラー(力車人夫)たちが、乗客である私たちを奪い合って、血相を変えて怒鳴り合っているのだ。誰を選んでも喧嘩になりそうだった。
 すっかり圧倒されて困っていると、背後から忍び寄った少年が私の手を引いて「カモン!」と言った。天の助けと私たちはリキシャワーラたちに背を向け、少年に従って待合室のもうひとつの出口へ出た。そこには力車はなく、ポニー付きの2輪馬車が待機していた。私たちがそれに乗ると少年はポニーに鞭を当て、馬車は走り出した。間もなく背後でリキシャワーラーたちの怒鳴り声が聞こえた。
 まんまと少年に計られたという気はしたが、初めて乗る2輪馬車の気分は悪くなかった。間もなく馬車は寺院の巨大な塔の前を通った。南インド独特の神々が鈴なりになっている塔は門になっていて、門の周辺は土産物屋などで賑わっていた。後日ここを訪れ、乞食からさんざんたかられた。
 「ヘイ アルナーチャラ!」と少年が指さす右手前方には、赤褐色の禿山が麓の森の上に聳えていた。「聖なるかがり火の山」とも呼ばれ、シヴァ神が炎として顕現したという神話にもとずいて、年1回、山頂で莫大な量のバターと樟脳が燃やされ、その巨大な炎は何日も燃え続けるという。
 やがて馬車は村外れのアシュラマの前で止まり、私たちは少年にパイサを払って、開かれた門を入る。聖山をバックにヤシの木と熱帯植物の美しい庭園があって、中央の建物に受付事務所があった。事務局長はギョロ目に大口の頑固そうな初老の男だった。初めての訪問だが10日間ほど滞在したいと申込むと、予約がないから3日間しかやれないと言われた。
 ホールにはマハリシの等身大の写真が数枚、パネルに引延ばして飾ってあった。いずれもふんどし1丁の裸の姿だった。生涯その長身を衣で包んだことが無いと思われる裸の人は、近づき難いほど野性的で峻厳な表情と、慈愛に満ちた柔和な表情をもっていた。
 内庭にはマハリシの草庵がそのまま保存されていて、部屋の奥には真白なシーツに覆われたベッドが置かれ、その前の床に20人ほどの求道者たちが、マハリシの不在と対座していた。私たちも片隅に坐って、その静寂を共有した。マハリシが世を去って21年、そのバイブレーションはまだ脈々と息づいているようだった。
 
 ラマナは1879年、南インドの寒村で生まれた。マドゥライのミッション・スクールに学んでいた17歳のとき、自室で突然死の恐怖に襲われ、臨死体験による意識のトランス状態に入る。そして肉体は滅びても「私」は死と関係なく存続するということを理解する。それ以来かれは学業、スポーツ、友人、家族に興味を失い、すべてを放棄して、昔巡礼者から聞いたアルナーチャラに向って旅立った。
 アルナーチャラの寺院や村外れの聖堂で、ラマナは神秘的なトランス状態に没入し、神職や村人が供える僅かな食料で生命をつないだが、その後アルナーチャラ山の洞窟に住みついた。ある目撃者によれば、夜毎に巨大な虎が洞窟を訪れ、ラマナの手を舐め、ラマナに撫でられて帰って行ったという。
 時の流れがラマナの評判を広めたので、寺院の参拝者たちがしばしばラマナの洞窟を訪れるようになった。その結果、人々の絶えざる懇願に負けたラマナは、山麓にアシュラマを造ることを承知したのである。マハリシ(偉大な賢者)と呼ばれ、遠くヨーロッパにも知られたが、彼は生涯一度としてアルナーチャラを離れることはなかった。
 マハリシは師についてヨガを修行したことはなかったが、その教えは伝統的なヴェーダーンタ哲学の「不二一元論」であり、「唯一の真我のみが実在する」というジュニャーナ・ヨガ(識別のヨガ)である。しかしその沈黙のバイブレーションは聖なるアルナーチャラへのバクティ(信仰)に根ざしていた。信奉者たちから「アルナーチャラ・シヴァ」と唱われる由縁である。
 求道者たちにマハリシが与えた命題は唯一つ『Who am I?」「私は誰であるか?」である。
 「人間は自分というものの正しい概念をもっていません。余りに長い間、自分を肉体であり、頭脳であると思って来ました。それだから、この『私は何者なのか』という探求をする必要があるのです」
 「『私は何者であるか』という質問を冷酷に続行せよ。あなたの全人格を分析せよ。私という思いがどこから始まるのか、見出すよう努めよ。瞑想をつづけよ。絶えずあなたの注意を内に向けるようにせよ。ある日思考の車輪が回転をゆるめ、直観が神秘的な形で生まれて来るだろう。その直観に従い、思考をとめよ。それがついに、あなたをゴールに導くであろう」
 70歳のとき、左腕が壊疽にかかり、医師から「左腕を切断すれば生命に異常はない」と診断されるが、「その必要はない。寿命が来たのだ」と言って、全身に毒が回るのに任せて壊死した。臓器移植で延命治療を計る現代人には理解できないことだろう。

 さて、巡礼者用の宿舎は、アシュラマの前の林の中に一戸建てのバンガローが散在していた。北インドや海外からの巡礼者が多かった。食事はアシュラマのホールで朝夕とも提供され、昼はお茶も振舞われた。食事はバナナの葉に盛りつけられた南インド料理だったが、私は2日目から猛烈な下痢のため、食事はろくに出来なかった。当時はミネラルウォーターなど売っていなかったから、否応なく生水を飲むしかなく、耐性ができるまで下痢は不可避だった。とはいえ相棒のAは特に病むこともなかった。しかし私がこの後一度も病まなかったのに、彼女の方は少しづつ病んでいった。
 そんなわけでまたたく間に3日間は過ぎてしまった。そこで事務局長に事情を話し、もう少し滞在させてほしいと懇願したが、この頑固親父は全く融通がきかなかった。ただ、午後にミセス・オズボーンが避暑地から帰るから返事は夕方まで待てという。
 オズボーンと聞いて私は『Mountain path』のイギリス人編集長アーサー・オズボーンの名前を思い出した。そこで「ミセス・オズボーンに私はアメリカの詩人ゲーリー・スナイダーの友人だと伝えて下さい」と事務局長に頼んでおいた。
 午後になって応接室で対面したミセス・オズボーンはオランダ人の風格万点のビッグマザーだった。故アーサー・オズボーンとゲーリー・スナイダーとの出会いを昨日のことのように憶えていて、懐かしそうにユーモアたっぷりに語ってくれた。そして私たちのあと10日間の滞在希望は二つ返事で承諾された。
 夕方、事務所を訪れたところ事務局長が手招きするので近寄ったところ、彼は机の上に指で「10」と書き、私を睨みつけて「オーケー!」と言った。いかにも自分の一存で決めたかのように、偉そうに。しかしともかく「サンキュー!」と礼を言った。すると事務局長は白紙を出して「君は絵描きだと言ったが、わしのポートレートを描いてみよ!」と言って、ふんぞり返った。その威張りくさったポーズが可笑しかったので、思いきりマンガチックな似顔絵を描いてやった。それを見た事務局長は祭りの獅子のような歯をむき出してニンマリ笑うと「グッード、ベーリーグッード!!」と言って、右手親指を立てた。
 さて、その翌日、私のところへ使いが来て、長老がお呼びだという。案内されてAと訪ねてみると、草庵の中で老サドゥ(修行者)が愛想良く迎えてくれた。そして祭壇に飾られた一枚の写真を見せられた。そこにはマハリシと並んで若き日の彼自身が写っていた。老サドゥは周囲を伺い、声をひそめると「アイ アム ナンバーワン」と囁いた。どうやら一番弟子という意味らしかった。そしてナンバーワンのポートレートを描けという。真偽のほどはともかく、チロムを交せるかもしれないと思ったので描いてやった。しかしガンジャは「ノーニード」だと言った。サドゥは誰でも吸うものと思っていたので意外だった。
 ところでナンバーワンは1人ではなかった。その日はあと2人の直弟子に呼ばれ、各々からマハリシと一緒に写した写真を見せられ、秘かにナンバーワンを告げられ、ポートレートを描かされた。彼らもサドゥとして巡礼していた頃はガンジャを吸っていたに違いない。それがマハリシに出会い、アシュラマに住みつき、勝手に弟子になってから、ガンジャが必要なくなったのだろう。本気で自分がナンバーワンだと思い込む単純さには呆れたが、彼らはグル(導師)の言葉を忘れたようだ。マハリシは言った「真の自己を悟った者にとっては、師も弟子もありません。そのような人はすべての人々を等しい目で見るのです」
 ある晩、隣人からパーティに誘われ、夕食後アメリカ人夫婦のバンガローを訪問した。すでに20人くらいの客で部屋は満員だった。皆それぞれに身奇麗な品の良い善男善女で、ヒッピー風のハレンチスタイルはいなかった。ほとんどがヨーロッパ系の白人だったが、インド人もいたかも知れない。驚いたことに、この家の主たるアメリカ人カップルには赤ん坊がいて、室内には洗濯機、冷蔵庫、ステレオなどの電化製品がいっぱいで、まるでニューヨークのアパートメント丸ごと引っ越して来たみたいだった。
 パーティというからには、ガンジャくらい回るものと期待していたのだが、いっこうに回わる気配はなかった。そこで隣の人たちに「ガンジャはやらないのか?」と尋ねたところ、ある人は「ここではグル(マハリシ)に敬意を払って、ガンジャは遠慮しているのだ」と言い、またある人は「ここではガンジャなど必要としないのです」と答えた。英会話はあまり通じなかったが、全員で「アルナーチャラ シヴァ」のマントラを合唱したので、心に通じるものはあった。
 アシュラマで出会った巡礼者たちは、友好的で礼儀正しく、バランスのとれた人たちだったが、ガンジャ吸いのような乗りやクレイジーに欠けるのが不満だった。そんなある日、新来のインド人巡礼者から日本語で話しかけられた。
 かって2度も日本を訪れたことがあるという白髪まじりの中年の紳士クマールさんは、しばらく日本語を使っていないので、久しぶりに日本語の会話がしてみたいと言って、私たちを彼のバンガローに招待してくれた。北インドの事業家である彼は、長年の念願が叶って南インドの聖地巡礼の旅に出て、ケララ経由でタミル・ナドゥを北上中だと言う。彼の日本語はボキャブラリーも豊富で、とても堪能だった。彼は予想以上に自分の日本語が通用するので乗りのりだった。
 「アナタハ ヒンズーキョウヲ ダレカラベンキョウシマシタカ?」と問われて、私がラーマクリシュナの名前を出すと、
 「オオ ラーマクリシュナ スバラシイデス ラーマクリシュナカラ ハイルノガ イチバンデス ラマナマハリシハ チョットキビシイデスネ」と言ってテンションを上げ、バクティ・ヨガとジュニャーナ・ヨガについて語った。
 私はこの人なら一緒にガンジャを吸えるかも知れないと期待していたところ、「アナタガタハ ハクジンヒッピート チガイマスネ カレラハ ガンジャヲスッテ アソンデイルダケデス」とクマールさんは言う。先手を取られた感じで「私たちも同じヒッピーです」とは言いそびれてしまった。
 やがてクマールさんは「アナタガタニ プレゼント サセテクダサイ」と言って、片隅にあった2つの大きなトランクの一方を開けた。こんな大きなトランクに何を入れて旅をするのかと興味津々に覗いてみると、何と全てが本だった。その中から選んでくれた一冊は『ヒンズー教入門』という英文の本だった。
 「コレハ ブレーンノ プレゼントデス ハートノ プレゼントモ サセテクダサイ」と言って、もう一方のトランクからビール瓶大の瓶をとり出した。「コレハプラサード(神々への奉納品のおさがり)デス カエッタラ カゾクヤトモダチニモ プレゼントシマス」と言って、テーブルの上の2つのコップに、カルピスのような白濁した液体を3分の1ほどづつ注いだ。「ソウデス ミズガ イリマスネ チョット マッテクダサイ」
 そう言うと、乗りのりのクマールさんは玄関まで行って、庭で遊んでいるインド人の子供たちに叫んだ。
 「オーイ ミズ モッテコーイ!!」
 驚いたことにクマールさんは日本語で叫んだのだ。私とAは思わず顔を合わせて笑いをこらえた。このインテリ大先生は日本語に乗りまくり、自分が何処にいるのかも忘れてしまったのか。このナチュラルハイにはガンジャも必要無さそうだった。
 結局、ラマナ・アシュラマではチロムを交す相手は見つからず、相棒のAまでがガンジャ離れの傾向を見せた。彼女は毎日のように村を訪れ、女たちの生活ぶりを観察していた。夕方になると各家の前の路上に、女たちがチョークで幾何学模様のヤントラを描き、村は神秘的なシャンティ(平和)に満たされた。
 南インドの大平原に屹立する聖山のふもと、20世紀最大の霊的巨人の出現によってこの一帯は、一木一草にまで霊的バイブレーションがみなぎっていた。そのバイブレーションを更に増幅せんものと、私は独り「ボン」に励んだのだった。


[余談]

 マドラスとティルバンナマライという都会と田舎で出会ったユニークなタミル人たち。その決定打となったのが「麻声民語15『通信2号』のイントロ」で紹介した「乞食のおつり」である。あれはティルバンナマライ駅で列車を待っていた時のことだった。

[参考資料]

 ここに紹介したラマナ・マハリシの言葉は、ポール・プラントン著『秘められたインド』から引用したものです。著者プラントンは1898年ロンドン生まれで、ジャーナリストとして出発したが東洋哲学の研究に生涯を献けた人。この著書は1930年代初め、インドのヨガ行者、魔術師、救世主、隠者、苦行者、占星術師、社会運動家など霊性の探求者を探訪し、ついにラマナ・マハリシにたどり着くという霊的ルポルタージュの傑作である。日本ヴェーダンタ協会 発行 定価1545円。


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