第2部 2度目の旅 1982・春〜83・春
第14章 運び屋修行  マナリ、バラナシ、カルカッタ、那覇

[三度目のヒマチャル]

 ローマの電話局から奄美・無我利道場へ電話したところ、別れた女房のミオが出た。核再処理工場の用地はまだ発表されていなかった。すぐ帰国するから、帰りの運賃を送ってくれと頼んだ。
 間もなくローマの東京銀行あてに、30万円が送られてきた。旅行会社でチケットを買う段になって迷った。私の手許にはバンコクとカルカッタ間の往復チケットの半券があったのだ。カルカッタまで買うか、それともデリーまで買って、もう一度ヒマチャルへ行き、パールヴァティを仕入れて日本まで運ぶかどうか。
 これからMATプランとの決戦というのに、ドジた密輸の挫折感を抱いたままでは、アジテーションの意気も上がらないだろう。ここは一番、例え軍資金にはならなくても、自分たちの吸う分だけでも運んで、大いに乗りまくりたいところだった。
 結局、デリー行きのチケットを買ったが、それは途中パキスタンのカラチで一泊せねばならなかった。カラチ空港ではローマから一緒に乗った沢山のフィリピンの芸能集団と共に、リムジンバスでホテルまで運ばれた。「出稼ぎ民族」などと呼ばれているフィリピン人たちは、男も女も明るくて気さくでフレンドリィな連中だった。
 彼らはそれから何年か後、ローマのテルミニ駅裏のアフリカンホテルを占拠し、フィリピーナホテルにしてしまったということを『ユーラシア放浪途上』のサワ(澤村浩行)から聞いた。
 さて、デリーではお馴染みのISBTから夜行バスでマナリへ向かった。ヒマチャルを最初に訪れたのが実りの秋、2度目が豪雪の冬、そして今回3度目は花盛りの春だ。夜明けと共に、車窓には春化粧に彩られたヒマチャルの風景が展開し、雪国の冬を耐え乏しんだものたちの生命の悦びに満ち充ちていた。
 昼ころマナリに到着した。万年雪に覆われた白銀の霊峰と、雄大なヒマラヤ杉を背景に、アンズやプラムやリンゴの紅白の花々と、菜の花の黄色のコントラストの美しさは目を見張るばかり。それはまた日本のヒマチャル、飛騨高山を故郷に持つ私にとっては、魂の原風景でもあった。
 秋の収穫期には、チャラス作りのため野良に駆り出される女たちも、春にはのんびりと日和ぼっこをしていた。4月はじめ、下界はかなりの暑さだったが、標高2000メートル近いマナリは、最も快適な気温だった。
 バスを降りると真直ぐにシヴァ・テンプルの近くのスンダルシンの家を訪れた。約4ヵ月ぶりの再会を喜んでくれたスンダルシン夫婦に、私は帰国するのに1キロ程度のお土産を持ち帰りたいこと、運ぶ方法は今から考えるのでしばらく世話になりたいことを告げた。
 彼は以前私が居候していた長屋の2階に案内し、現在そこに居候中のボオという日本人を紹介してくれた。私は久しぶりの日本語で、その長身で端正な顔立ちの20代半ばの若者に挨拶した。すると若者は「初めに断っておきますが……」と言って「ぼくの本名や履歴については一切聞かないと約束して下さい」と言った。運び屋志願者として、それがつき合いの基本的条件だという。
 ボオは大麻道の模範青年だった。大麻についても良く勉強していた。インドへは既に何回か来て、少量のブツは運んだことがあるようだが、今回はいよいよプロの運び屋として裏世界にデビューするつもりで、先ず1キロに挑戦するのだという。
 「問題は運び方だよ」と私は、先輩面して問うた。すると「それを今から1年間、インドを旅して研究します」と言って、小型のトランクを開いてみせた。そこにはノコギリ、カナズチ、ノミ、ハサミ、彫刻刀、刷毛、塗料、接着剤、紙粘土、サランラップ、アルミホイル、ガムテープ、ビニール袋など、工作道具と材料がぎっしりと詰め込まれていた。
 「凄い!」と、思わず唸るほど計画的で用意周到だった。この若者と比べると、私には計画性というものが丸っきりなく、万事がその場の思いつきだった。その時も紙粘土を見たことからキブスを思いついたのだ。
 少年時代、脊椎カリエスを病み、背中が曲がるのを防ぐためにギブスをつけたことがあるが、成長期のためすぐ役に立たなくなった。
 私の歪曲した背中の頂点から腰までの間には、厚さ数センチのギブスの入る隙間がある。そのギブスの中へチャラスを埋めこむのだ。せっかく障害に恵まれているのに、それを利用しないという手はなかった。誰にも真似のできないこのアイデアを、スンダルシンやボオも評価し、ボオはギブス作りに協力してくれることになった。
 作業は私の背中の肌の上に、直接紙粘土を敷き、その上にスティック状のチャラスを並べ、それを紙粘土でサンドイッチ状に包んだ。
 作業は半日かかったが、途中で1キロは無理と分かり、500グラムで妥協した。ギブスの上からYシャツやインド服を着た場合、500グラムが限界で、それ以上だとギブスが目立った。季節がジャンバーやコートを羽織れる頃ならカムフラージュも可能だが、日一日と暑さはうなぎ昇りだった。
 ボオは器用な男で、スンダルシンも感心するほど細工は流々だった。ボオとはお互いの成功を祈って、一期一会のチロムを交した。スンダルシンにはパールヴァティ500グラム分の代金を払い、再会を約してマナリを後にした。

[バラナシのホーリー祭]

 デリーからカルカッタ行きの汽車に乗った時は、TシャツとGパンスタイルだったが、リュックの代りにトランクを持っていた。デリーの古物市で買ったジェラルミン製の中型トランクの中には、リュックとギブスの他に古物市で買った夏物の背広上下、Yシャツ、ベルト、ベレー帽などの変装用具一式が入っていた。
 車内は珍しく空いていた。Tシャツ一枚でも暑くて窓は開けっ放しだった。ところが時々泥ダンゴが飛んでくるので、あわてて窓を閉めねばならなかった。乗客たちの騒ぎから、この日は春一番のホーリー祭だといううことを知った。
 ホーリー祭は本来なら色のついた水や粉をかけ合う無礼講なのだが、田舎の子供たちは色水の代わりに泥んこでダンゴを作り、汽車の窓めがけて投げつけるのだ。あわてて窓を閉めると、泥ダンゴがガラス窓に当たって「バシ、バシ!」と砕け散った。しかし乗客は暑さを我慢できず、いたずら小僧たちの気配を伺いながら、窓を開けたり閉じたりした。
 子供たちの悪戯が終ったのは夕方だった。バラナシが近づくにつれて、バラナシのホーリー祭を見ておこうと思った。既に暗くなっていたが途中下車し、駅前に安宿を決めた後、夜の街へ出てみた。祭りの熱狂は治まっていた。通行人たちはいずれも頭から衣服まで、赤や青の色水や色粉に染められて、祭りの余顧を漂わせていた。
 メインガート付近に行ってみたが、7ヵ月前の大洪水の痕跡は見当たらず、ハウスボートのオーナー、カルマジーに再会したかったが、暗くてハウスボートが見つからなかった。こんなことなら、わざわざ途中下車することもなかったのではないかと、路地へ踏み込んだ途端に目を見はった。
 大通りとガートを結ぶ狭苦しい路地は、帯状の広大な迷路であり、街灯がほとんどなく、商店も閉まっていたため、薄暗がりの中を右往左往する人間は、牛や犬と同じように全員が青や赤のまだらに染まり、音もなく、言葉もなくうごめいていた。それは死者たちの魂が浮遊する怪奇で幽幻な冥界のようだった。
 しかし初めて見る風景なのに、妙な既視感があった。私は浮遊霊のようなヒトとケモノの間を彷徨いながら、懐かしさの原因を求めて記憶の闇を探った。ひょっとするとそれはもの心つく前の、あるいは胎内での、または前世での記憶かも知れないが、とにかく私はそれを目撃しているはずだった。永遠を目撃しているシヴァの第三の目のように。
 そこで私は納得したのだ。私が運び屋の仕事を中断してバラナシに立寄ったのは、決して道草ではなく、それはシヴァのお呼びがかかったのだと。パールヴァティというシヴァのシャクティ(性力)を運ぶ者を、大麻の守護神は激励し、祝福してくれたのだと。
 「信仰こそが全ての根」なのだ。

[インド出国の難関]

 カルカッタではサダルストリートに安宿を定め、旅行代理店でバンコク行きのフライトを決めた。フライト前日、路上でバッタリと顔見知りのインド人に出会った。一瞬思い出せなかったが、9ヵ月前、インドの旅の初日にホテルを案内され、ガンジャを買わされたポン引きだった。
 アクタルという名の若者は抱きつかんばかりに再会を喜び、その日一日、私とつき合ってお茶や食事を奢ってくれた。
 夕方になって彼は土産物は買わないのかという。旅費を除いて5000円ばかりの余裕があった。少し迷ったが、カレー粉とビリー(安葉巻)などの買物を頼んで、最後の金を渡した。するとアクタルはバザールへ行ってくるから、自分の家で待っていろという。連れて行かれたのは路地の軒下に数個の木箱を並べ、シーツで覆っただけの寝ぐらだった。
 私はそこに腰を下ろし、一時間近く待った。約束の時間はとっくに過ぎていた。やっぱり騙されたのかと思った。イチかパチかの賭けに負けた感じだった。
 私は諦めて立ち上がった。その時、アクタルが息せき切って帰ってきた。5000円が1万円もの買い物をして。「勝った!」と思ったが、一度ならず彼を疑ったことを恥じた。別れ際にアクタルは言った。「ポン この次は一緒に稼ごうぜ!」
 翌日、バンコクへのフライトの勝負の日である。日本紳士に変装するために髪もヒゲも短くしていた。チャラス入りのギブスを腰に巻きつけ、Yシャツで覆った上からズボンをはき、ベルトを締め、その上に夏物の背広を着た。不格好なスタイルだったが、絶対ヒッピーには見えなかった。
 トランクにはリュックやGパンなどと共にカレー粉やビリーなどを詰めこんだ。ローマでの失敗から、トランクは手荷物として機内へ持ち込むことにした。
 出かける前に手許にあるチャラスの最後の一片を吸い、シヴァに祈り、ベレー帽を被り、トランクを片手にタクシーに乗った。
 インドでタクシーに乗るのは初めてなので、いかにも芝居がかった気分だった。空港が近づくにつれてステージに登るような感じだった。一搬に空港の検査は入国より出国の方が簡単なはずだし、デリー空港からイタリアへ飛んだ時は、出国のボディチェックもなかった。従ってカルカッタ空港が日本紳士≠フ出国を厳しく検査するとは思えなかったが、安心はできなかった。
 案の定、イミグレーションでは意地悪そうな中年女の事務官が、私のパスポートを念入りに調べた挙句、若い事務官を呼んで税関まで同行するよう命じた。彼女が何を疑っているのか分からなかったが、嫌な感じだった。
 若い男の事務官につき添われて税関のカウンターへ行った。手荷物検査のテーブルの上へトランクを置くと、中年の係官がトランクを開き、最初に目についた極彩色のマッチ箱を手に取って、惚れぼれと見入った。それはイタリアからの土産に持参したもので、わざと目立つようにトランクに入れておいたのだ。係官と目が合った瞬間、私がニッコリと笑うと、彼は黙ってそれをポケットに入れ、「パス!」と合図した。イミグレからついて来た若い事務官は、何も言わず去っていった。(当時はまだX線検査はなかった)
 さて、税関をパスし、金属探知機のゲートをくぐり、いよいよ最後のボディチェックだ。そしてここが一番の難関だと私は思っていた。なにしろインド人のボディチェックはキン玉まで握ることを、アラハバード駅のポリスで経験していたからだ。
 もしギブスの存在が見つかった場合、果たしてギブスを削って中味まで調べるだろうか、などと懸念しながら、ボディチェックの列に並んだ。このチェックポイントを無事通過すれば、後は真直ぐ機内まで通じているのだ。
 列は前進し、あと数人というところで、私はボディチェックをしている検査官を見てアッと驚いた。何と彼はチャイニーズなのだ。インドにはチャイニーズはほとんど皆無で、カルカッタには少しだけいるとは聞いていたが見かけたのはこれが初めてだった。チャイニーズならインド人のようなえげつないチェックはやらないのではないか……などと勝手に期待しているうちに、いよいよ私の番になった。 
 ボディチェックの検問所は駅の改札口のように仕切られていて、検査官は検問所の前に立っていた。私が検査官に向かって一歩踏み出そうとした瞬間、突然私の左後方から駆け寄って来たインド人が、私の前へ割り込み、検査官の右手に無理やりに紙切れを握らせると、脱兎のごとく検問所を突破して、そのまま機内へ向かって走り去ったのである。
 一瞬のことなので、私も検査官も呆然としていたが、2人の目は自然と検査官の右手に注がれた。それは100ルピー紙幣だった。検査官はあわててそれを胸のポケットに突っ込むと同時に、私を見る目は「速く行け!」と促していた。
 かくて私はノーチェックのまま悠然と検問所を突破し、走り去った男の後をゆっくりと追った。こみ上げてくる笑いを、必死にこらえながら。

[晴れの裏口帰国]

 バンコクは1年前の往き≠ナ確かめた通り、入国も出国もボディチェックは形だけ。当時ゴールデン・トライアングルのヘロインをはじめ、あらゆるドラッグのアジア最大のマーケットであったバンコクだが、空港の検査は全く甘かった。
 バンコクからはまさか魔の成田≠ヨ飛ぶ気はなかった。成田が表口だとすれば、運び屋は裏口から。往時と逆コースで台北へ飛んだ。ここのボディチェックも形だけ。台北からは汽車で基隆(キールン)へ。
 基隆港で沖縄行きのフェリーの切符を買った後、切符売場の係員に呼び止められ、ギクリとしたが、「身障者割引きをしなかったから、半額を払い戻す」という。「身障者手帳を持っていない」と言うと、「見れば分かる」と言うので、福祉に甘えた。
 船にボディチェックはない。これが私の狙いだった。最高のハードルであるはずの日本入国に、ボディチェックがないのだ。
 那覇港の手荷物検査では、検査官が私のトランクを開き、スケッチブックを手に取り「見せて頂いてもよろしいですか?」と丁寧に断って、パラパラとめくった後、礼を言って返した。
 かくて私はパールヴァティ500グラムをまんまと日本国内に運び込んだのだ。ロビーを出ると、初夏を思わす太陽が照っていた。台湾から電話しておいたので、森井が出迎えに来ていた。藤村さんを紹介してくれた新左翼系の無名党派のリーダーである。(注)
 その夜、森井の家でビールを飲みながら、藤村さんのドジの顛末を聞いた。私は知らなかったのだが、我々がデリーからイタリアへ飛ぶ予定の前日、デリーではオペック反対の爆弾事件があり、日本赤軍に嫌疑がかけられた。そのためインドから出国する日本紳士は徹底的に検査されたとか。日本赤軍はジェントルマンと見なされたため、ヒッピーの私はボディチェックもされなかったというわけだ。
 かくて藤村さんはデリー空港で逮捕され、獄中から裁判に臨み、弁護士と裁判官に高額のワイロを支払って釈放され、つい先日強制送還されたばかりとか。ついでに藤村さんが準備金と称して私に送ってくれた数10万円は、裁判費用やワイロと共に、森井たちの組織の資金だったことを知った。
 更に森井の話では、核再処理工場の用地は未だ発表されていないが、どうやら徳之島ではなく、下北半島の六ヶ所村が有力らしいという。
 翌日、1年ぶりに奄美の無我利道場に帰った。「ワーイ ポンちゃんが帰って来た!」と、子供たちは大はしゃぎ。だが娘の宇摩だけは、会ったとたんに「プイ!」と顔を反らしてしまった。無理もない、3ヵ月の約束が丸1年、とうとう入学式にも間に合わなかったのだから。
 タイで別れたシフラもつい先日帰ったばかり。カラワン・バンドと共にドサ廻りをしていたらしい。
 ギブスは解体し、500グラムのチャラスはサランラップに包んで、空き缶に詰めた。そして勝利の一服を深々と吸った。
   ボム シャンカール !!
    (第2部 完)

(注) 
 森井芳勝 1938年東京生まれ、学生時代より左翼運動に加わり、60年代は三池炭坑闘争や労働運動を続けながら、新左翼系の前衛党派を組織。70年代中葉に沖縄入植、武装闘争からコミューン主義を掲げた住民運動にシフト、琉球弧住民運動の世話人的存在となる。80年代中葉に茨城移住「地域シンポ」などの活動に参加。2005年、胃ガンにて死去、67歳。
 まお、藤村弘(本名山口健二)は森井らの党派の顧問的存在だったが、その後関係性を清算。1999年、肺ガンにて死去。73歳。


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