第2部 2度目の旅 1982・春〜83・春
第13章 永遠の都のホームレス  ローマ

[駅裏のアフリカンホテル]

 トリノを発ったのは朝方だったか、ローマまでの10何時間に数人の車掌が検札に来たが、マッテーヨに書いてもらった紙片を見せると、黙って見逃してくれた。肩を叩いて励ましてくれた奴もいた。日本ではありえないことだった。
 ローマのテルミニ駅に到着したのは夜の9時頃だった。寒かったし、腹ペコだったが、1リラの金もなかった。
 「さて、こういう時は何処へ行くべきか?」
 長年の放浪の勘が働いて、私は駅の外へ出て、広場に面する側に廻ってみた。するとそこに、いました、いました、おりました。駅舎の壁に沿って、数10人のアフリカ人のホームレスがたむろしていたのだ。
 近づいてみると、アラブ系とニグロ系にはっきり2分されていた。私はその中間点に立って両手を広げ、大声で、
 「ヤッホー!」と叫んだ。
 アラブ系とニグロ系から同時に「ヤッホー!」と反応があったが、アラブ系の方が積極的だった。2、3人のアラブ人が私に近寄って握手を求め、彼らのサークルへ引き入れてしまったのだ。
 「ハングリー?」と一人が尋ねた。
 オフコースだと答えると、サンドイッチやリンゴ、ミカン、それにワインまでが回ってきた。遠慮なくいただいた。誰かが背後からコートをかけてくれた。日本人だと言ったが、皆がゲラゲラ笑って本気にしなかった。
 彼らはモロッコ、アルジェリア、リビア、エジプトなど、アフリカ北海岸のアラブ世界から、ヨーロッパへ出稼ぎに来て失業した者や、パスポートなしで密入国した者など、故国へ帰っても職も夢もなく、ヨーロッパの底辺社会を風のまにまに放浪しているモスリム(イスラム教徒)である。
 その夜はそのまま路上で眠った。地下鉄の暖房が伝わってきて、アフリカンホテルは悪くなかった。
 翌朝、アラブ人たちに連れられて、近くのカソリック教会へ行った。窓口に並んでいると、サンドイッチとフルーツが支給された。昼も夜も、一日三食、どこの教会へ行ってもサンドイッチとフルーツ、昼にはスープが支給された。そして週に何回かは駅裏のアフリカンホテルに、善男善女の白人クリスチャンがやってきて、衣類や靴、日用品、食料など、キリスト教の慈悲を恵んだ。
 それは確かに安全弁の役を果たしていた。彼らを飢えさせたら、バチカンが危いことはローマ法皇ならずとも百も承知だ。しかし支配者たちは陰険だ。支給されるサンドイッチに挟まれたハムやベーコンなどは、モスリムが決して口にしない豚肉製なのだ。おかげでブッディスト≠フ私のサンドイッチは、中味が3、4人分に膨れ上がってしまうのだった。
 ローマは食うだけなら三食こと欠かなかったが、アフリカ人浮浪者の落ちこぼれに職はなく、現金収入の道もなく、従ってホテル代がないため、野宿か、何処かへ潜り込んで寝るしかなかった。
 初めはコートを貸してくれたベンという30歳前後の静かでいかついアルジェリア人に誘われて、ジミーという相棒と3人で、テルミニ駅の車庫に停車中の車両に泊った。しかしそこは朝になると駅員に追っ払われるので、長くは続かなかった。
 リュックを取り戻したかったので、空港の荷物係に問い合わせたところ、リュックはあるが保管料を払わなければ渡せないという。わずか数百円だが、ベンやジミーから借金できる額ではなかった。こんな時こそ日本大使館だと思った。
 館内の一角には、日本赤軍のメンバー約30人の顔写真が掲示してあった。ヨーロッパで見ると、それはいかにもリアリティがあった。
 対応に出たお役人は若いのに絞切型で、ビタ一文も貸す気はなさそうだったが、リュックを手に入れたら必ず返しに来ると約束して粘りに粘ったところ、渋々と数百円のポケットマネーを貸してくれた。
 約10日ぶりに空港からリュックを受取った時には、千人力を得たような感じだった。さっそく映画「ローマの休日」でお馴染みのスペイン広場へ行って、ベンをサクラにして似顔絵屋を開業した。広場には数人の似顔絵屋がいたので、値段は相場通り1枚500リラ(約1000円)で、初日は3枚描いた。
 久しぶりに現金を手にした翌日、リュックを担いで日本大使館へ行き、借金を返したところ、ポケットマネーを貸したお役人はすっかり恐縮し、「まさか返すとは思わなかった。こんなことは始めてです」と感激していた。

[永遠の都ローマ]

 古代遺跡に特別に興味があるわけではないが、ホームレスは終日市内を徘徊するしかすることがないので、到るところで古代ローマの遺跡に出会った。ただしテルミニ駅に近い円形闘技場コロッセオだけは、入場料を払って見物した。奴隷剣闘士同士の死闘や、キリスト教徒がライオンに襲われるのを、貴族や市民が歓声を上げて見物したというところだ。
 「ローマを見て死ね」とか「全ての道はローマに通ず」とか。ヨーロッパ文明の原点のようなローマ帝国だが、栄華を極めた陰には巨大な悪徳と生贄があった。例えばあちこちの広場で見かけるオベリスクという太陽神を象徴する2.30メートルの石柱は、全てがエジプトから略奪してきたものである。
 ある時、オベリスクを指さしてエジプト人のラーラが「あれはオレの国から盗んできたものだ」と言ったので、「取り返す気なら手伝うぜ」と私が言ったところ、彼は「やめとこう、重すぎる」と笑った。
 ローマで最もユニークな場所はピアッア≠ニ呼ぶ広場だ。そこにはオベリスクがあり、噴水や彫刻があり、ベンチや露店があり、所によっては似顔絵描き、大道芸人、辻音楽師などがいて、庶民文化の交流の場としてのびのびと解放されていた。
 似顔絵屋は初日だけベンに協力してもらったが、その後はベンの似顔絵を見本に掲げて独りで立った。リュックは貸ロッカーに預け、必要な物だけ頭陀袋に入れて持ち歩いた。貸シャワールームで体を洗い、ついでに下着を洗濯して路傍に干した。
 夕方になると駅裏のアフリカンホテルへ行って、常連たちとひと時を共にすごした。ワインが回ることもあったが、ある時ハシシーのジョイントが回ってきた。イタリアへ来てから大麻を切らしていたので、少しだが良く効いた。ブツはモロッコ・イエロー、という大麻樹脂で、手もみのチャラスとは異なり、バッツ(花房)を砕いてプレスした板チョコ状のもの。
 その時のハシシー乗りでモロッコ人のカリムという若者が日本人の真似をしてみせた。彼は立上がって一同の注目を集めると、先ずメガネをかけ、カメラを肩にかけたふりをしてセカセカと歩きまわり、カメラを構えてパチパチとシャッターを切り、セカセカと歩き廻った。カリムのパントマイムに一同は「おお ヤバーン(日本人)!」といって抱腹絶倒した。なるほど日本人観光客を見てきた異邦人には、私が日本人に見えないのも当然のことだと思った。
 それから間もなく、私はパフォーマンスではなく、本物を見たのだった。その日はスペイン広場でなく、もっと小さな広場で開業していた。他に似顔絵描きはいなかった。私は独りでオベリスクの前に立って、ベンの似顔絵をサンプルに掲げて客を待っていた。しばらくすると観光バスが2台、広場の入口に止まった。バスの胴体には近畿日本ツーリスト≠ニ書かれていた。
 バスからドッと吐き出された日本人観光客は、セカセカとオリベスクの周辺にやってきて、全員がカメラを出してパチパチと写真を撮った。私にカメラを向ける者もいた。「ひょっとしたら」という期待もあったので、私は日本語で「記念に一枚いかがですか?」と声をかけてみた。
 とたんに「キャーッ!」という悲鳴が上がり、アッと言う間に散ってしまった。そして遠くで一塊りになって、私の方を見ながらヒソヒソ話し合っていた。その時、車掌の笛がピーッと鳴り、全員がバスに吸い込まれて去って行った。その間せいぜい5分か10分、あの連中はいったい何を観たんだろう。

[モロッコ・イエロー]

 彷徨うアフリカン・ホームレスにとって、ヨーロッパで最も住み易いところはスペインだとか。そのスペインへ一緒に行かないかと、アルジェリア人のベンから誘われたが、まだローマをろくに見ていないからと断った。
 ベンとジミーが去った後、モロッコ人のカリムとリビア人のエディに誘われて、彼らのアジトに案内され、世話になることになった。
 日本人観光客の真似をしてみせたひょうきん者のカリムは23歳。ブルース・リーのファンで、空手や禅に興味を持ち、いつも「シンディバット・ラヤハフ」(シンドバッドは恐れない)という歌をくちずさんでいた。
 エディはチェ・ゲバラに似た伊達男で38歳。熱烈なカダフィ主義者で、「ホメイニのイラン革命をどう思うか? パレスチナ問題は?」などと、問いかけてきた。
 3人で地下鉄の終点まで行き(アフリカンのおかげで地下鉄も市電もただ乗りを覚えた)、そこから丘陵地帯をしばらく歩いて広々とした牧場に到着した。そこはカソリックの総本山バチカンの所有地で、丘の上にはバチカン宮殿やサン・ピエトロ寺院があると聞いた。
 牧場の草原の中に一軒の小屋があった。夕暮れの状況を警戒しながら、私たちは小屋に入り、靴のまま梯子を登って2階に上がり、梯子を引き上げた。2階には6畳くらいの空間があり、3人が横になるには十分だった。
 2階にはもう一部屋あり、しばらくするとエジプト人のラーラとロイが帰ってきたので梯子を下ろした。この隠れ家には窓も照明もなかったが、テルミニ駅の車両のように朝方追っ払われる心配はなかった。とはいえ私たちは早起きして、作業員の現れる前に小屋を出た。
 さて、住いが落ち着くと、やっぱり一服したくなる。カリムに尋ねると、モロッコ・イエロー≠ネら、グラム500リラ程度で手に入るという。似顔絵1枚分だ。ハシシーを買うため似顔絵で少し稼いでやると言うと、カリムもエディも似顔絵を描くならピアッア・ナヴォーナ≠ェ良いという。
 翌日、パンテオンの近くのナヴォーナ広場へ行ってみて驚いた。そこには似顔絵描きが30人以上もいて、写実派と戯画派が腕を競っていた。彼らに挨拶して私も仲間に加えてもらった。私のブラッシング(毛筆描き)は珍しがられて人気を集め、1日に4、5枚から多い日には10枚くらい描いた。ナヴォーナ広場は大道芸人や街売りも多く、私はそれから約半月間、他の広場へ移ることはなかった。
 ある晩、稼いだ金でハシシーとワインを買い、カリムやエディと共に駅裏のアフリカンホテルへ行ってパーティをやった。アラブ系もニグロ系も、この時ばかりはボーダーレスにワインとジョイントを回し合った。
 頃合いを見て、私は小型シンバルを取り出し、「ハリラーマ ハリクリシュナ」のマントラを唱った。数十人のアフリカ人たちが手拍子を打ち、そのうち何人かが立ち上がって踊り出した。通行人たちが立ち止まって、アラブとニグロが一緒にパーティをやっているのを怪訝な顔をして見物していた。そのうちカリムが、
 「ポン これはヒンズー教の歌だろう?」と言った。この一声で全員がドッと白けた。
 「何だと、ヒンズー教だと?!」
 今まで上機嫌で浮かれていた連中が怒り出した。カリムがあわてて、自分の勘ちがいだとか何とか言い訳をしていたが、私は可笑しさをこらえて「ノー ヒンディ イッツ ヒッピーソング」と言って、アラブ過激派≠フジハード(聖戦)を回避した。

[アラブ過激派]

 「グッド メディテーション?」と、カリムが問いかける。ハシシーを決めても、私の考えは決まらなかった。次の予定も、計画も立たなかった。小銭があれば稼ぐ気もなかった。
 ある日カリムとエディと場末を歩いていて、映画「タクシードライバー」の看板を見た。数年前のハリウッド映画で、3人とも英語はカタコトだったが、私が奢るからと誘った。
 映画はベトナム帰還兵のタクシードライバーが、テロリストを志願し、不様なドジで終わる物語。私の興味は、ロバート・デ・ニーロ扮する主人公が、アメリカ社会のマイノリティであるイタリア移民の末裔であること、常日頃からイタリア市民に差別されているアラブ浮浪者に、それはどう映ったかだ。
 映画を観た後、大衆食堂へ入ってワインを飲みながらピザを食った。映画の話は出なかった。もっと何か食べたいものはないかとメニューを見ていたら、エディが「オレはもう腹いっぱいだ」と言い、カリムも「もう十分だ」と言う。そんなはずはなかった。
 「遠慮するなよ、金は稼げばある」と言うと「ごちそうさん! でもムダな金は使うな!」と、エディは諭すように言って立ち上がった。彼らは乞食ではなかった。決して貪ることも、甘えることもなかった。彼らは「タクシードライバー」の主人公のように孤独ではなかった。
 私がやっと腹を決めたのは、ナヴォーナ広場で稼いだ後、カリムとエディの3人で馴染みのバーへ、ハシシーを買いに行った晩のことだ。店の前まで来てエディが、
 「様子がおかしい。ポンはここで待て!」
と言って、カリムと2人で道路を越えて店へ入って行った。間もなく店内が騒然として、イタリア人のチンピラに髪をつかまれた2人が連れ出され、突きとばされた。
 私は大変なことになると思った。アラブ人の気質からして、血を見るような惨劇が展開されるのではないかと心配したのだ。しかし2人は黙って私の許へ帰って来た。私はほっと胸をなで下ろし。「良くがまんしたなァ!」と、2人の肩を叩いて慰めた。
 するとエディは私の手を引いて、話があると言う。そして人通りのない横町まで来ると、立ち止まって言った。
 「ポン ピストルを買ってくれ!」と。
 エディは大真面目だった。静かだったが全身に決意がみなぎっていた。
 「ピストル? そんな金あるもんか」
 私が金を持っていないことは、エディも承知だった。しょげ返っているエディとカリムに私は言った。
 「ピストルなど使わなくても、空手で2、3発ぶんなぐれば良いじゃないか」と。するとカリムが言った。「もしオレたちがイタリア人に向かって、肩より上に手を上げたら、射殺しても良いという法律があるのだ」と。
 「そしてあのバーの内部には、ピストルを構えたデカがいるのだ」と、エディが言った。「だから、どうしてもピストルが必要なのだ」と。
 要するにこの2人は、今夜イタリア人のチンピラを射殺して、自分たちもデカのピストルで殺されるつもりだったのだ。なぜなら「髪をつかまれることは、モスリムにとって最大の侮蔑なのだから」である。
 何という単純に生死を決めるものだろうと呆気にとられながら、私はピストルを買う金を持っていないことを幸運に思った。当時はまだ「自爆テロ」などという言葉はなかったが、それは既に準備されていたのだ。
 アジトへ帰ってワインを飲んで一服するうちに、エディとカリムの怒りは治まったかに見えた。ところが事もあろうにその時、トランジスターラジオから、カダフィの演説が始まったのだ。ヨーロッパのアラブ人に向けて、リビアから放送されるカダフィのアジテーションを聞いて、差別に打ちのめされたモスリムたちは、屈辱を耐え乏び、奮起し、アラーの神への忠誠を誓うのだ。
 懐中電灯の光の中で、エディとカリムの眼がランランと輝き、帰ってきたラーラに向かって、2人は今日の出来事を語った。3人とも「眼には眼を」の報復のことしか頭にないようだった。そこで私は冷やかし半分に言ってやった。
 「イタリアのチンピラ共を殺しても、アラーの神は喜ばないぜ。どうせやるならバチカン宮殿でもぶっ壊したらどうなの?」
 勿論、冗談のつもりだった。ところが3人は真剣な顔をして私を見た。 
 「爆弾はどうする?」と、エディが言った。
 「金さえあれば何とかなる」と、ラーラ。
 「ポン、密輸をやって資金を作ろうぜ」と、カリムは言った。モロッコ・イエローの生産地キタマ山で仕入れて、運びはジブラルタル海峡を避け、密入国ルートを選べば絶対に成功するというのだ。皆んな本気みたいだった。
 えらいことになったと私は思った。武装闘争はもとより、キリスト教とイスラム教の角遂など、私の知ったことではなかった。革命のために生命を賭けるなら、私は私自身の戦場、即ち奄美で戦うしかなかった。
 実際その時になって、私は急に奄美へ帰らねばならないと思い立ったのだ。人間なんて良い加減なものだ。MATプランから奄美を守ることを目的に旅に出たのに、一年も旅をしていると、旅そのものが目的になって、本来の目的がぼけてしまうのだ。
 アラブ人たちの過激さが、私の帰国を促したとも言えよう。既に3月末だった。核再処理工場の用地決定が間近なはずだ。私は日本の状況と、イタリアへ来た理由を話し、いよいよ帰国せねばならないことを説明して、3人を納得させた。カタコトの英語だが、真意は十分に伝わった。
 「シンディバット ラヤハフ!」
 私は胸を叩いて、同志たちに「一期一会」の別れを告げた。


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