第2部 2度目の旅 1982・春〜83・春
第11章 魚の消えた海辺の村  プーナ、ゴア

[象のいる夜]

 グジャラートからゴアへは、やっぱり2等列車をただ乗りした。途中ボンベイ(現ムンバイ)で乗り換えたが、私たちは駅構内から一歩も出なかった。勿論この大都会には港があり、高価だが魚を食わすレストランが沢山あることは分かっていたが、お呼びではなかった。
 駅の近くに名所「インド門」があることも知っていたが、10年前の相棒Aとのトラブルを思い出すと、再訪したいとは思わなかった。一方、相棒のマッテーヨはデリーもボンベイも、大都会には興味がなかった。
 ボンベイから乗った車中でのこと、私たちと少し離れた座席に白人女性と並んで座っていたロングヘアーの若者が、盛んに私たちの様子を伺っていた。モンゴロイド系だが、日本人にしてはいかにも大陸系の風貌だった。
 そのうち先方から近づいてきて、日本語で「ひょっとしたら日本人ですか?」と尋ねるので、「やっぱり君は日本人だったのか!」と答え、お互いに笑った。2人共「日本人」からかなり逸脱してしまったようだ。
 これがノリとの初対面だった。彼は西ドイツ経由で、ドイツ女性と初めてインドの土を踏んだとか。プシュカルで出会ったケンと同様、ノリもインドにはまり、日本にはめったに帰らず、今やほとんどインド人になってしまった。
 マハーラーシュトラ州はボンベイに次ぐ第2の都市プーナで途中下車して、郊外のラジニーシ・アシュラマへ行ってみた。ツヨシやオジヤに会えるかも知れないと思ったので、迷路のような緑園地帯を歩いたが受付けが見つからず、そこで出会う「サニヤーシン」と呼ぶ弟子たちが、フリークスとはいえ裕福でこぎれいな連中ばかりなので、私たちのような文無しウルトラ・フリークスはお呼びではないことを悟った。これではツヨシやオジヤも「外れ」だろうと思った。
 マラータ王国の首都だったプーナは、ヒンズー・ナショナリズムの本拠地である。この保守本陣のような都市に、70年代にバグワン・ラジニーシが乗りこみ、タントラ・アシュラマを開設したのである。
 ラジニーシは西洋心理学と東洋神秘主義の権威を否定し、「ダイナミック・メディテーション」と称する、歌、踊り、叫び、セックスなどを通して、至福の境地「ノーマインド」を探求するという革新的な教えによって、欧米や日本のニューエイジを魅了した。そのため海外から訪れるフリークな若者に対する保守伝統的なプーナ市民の反発は、殺人事件まで発生させた。
 既にラジニーシは前年夏、アメリカのオレゴン州に飛び、共同体「ラジニーシ・プーラム」の建設にかかっていた。
 さて、アシュラマでの一宿一飯を諦めた私たちは、塒(ねぐら)を求めて郊外の河岸を歩いていた。夕暮れだった。河原の巨木に一頭の象が繋がれ、退屈そうに巨体を揺すぶっていた。その時、傍の廃屋から出てきた男が象に語りかけていたが、私たちに気づくと「やあ!」と微笑した。「ナマステー!」と私たちも挨拶した。
 廃屋には屋根がなく、壁もほとんど崩れ落ちていたが、床石はそっくり残っていて、神殿の遺跡のようだった。その床石の上の小さな焚火を囲んで、数人の男がたむろしていた。
 私たちは彼らに近寄り「ナマステー!」と挨拶した。案の定、男たちはチロムを回していた。「ナマステ!」という返事があったので、私たちは床石の隅に腰を下ろし、マッテーヨはさっそくチロムを出してチャラスの準備にかかった。
 間もなく私の左側にいた男からチロムが回ってきた。私はそれを受け取り、「ボム シャンカール!」と唱えて一服やり、右手でマッテーヨに回した。久々のガンジャだった。そこで改めて男たちを観察した。いずれもひと癖もふた癖もありそうな連中だった。流れ者の行商人たちか、ひょっとしたら盗賊団かも知れない。象使いも含めて、彼らが一味なのか、それとも偶然ここで出会った仲なのかも分からなかった。まるで荒廃した羅生門に集う魑魅魍魎のようだった。
 マッテーヨがチャラスをつめたチロムを右側の男に渡し、マッチで点火した。深々と吸った男はびっくりして「これはチャラスじゃないか!?」と叫んだ。
 「これはヒマチャルのパールヴァティだ」とマッテーヨが答えると、男たちは異口同音に「パールヴァティ!?」と言った。それがチャラスのブランド品だということなど、彼らには関係ないようだが、ガンジャしか吸っていない連中にチャラスは強烈だ。
 私たちは惜し気もなくチャラスを振舞ったので、全員すっかりハイになって、しゃべったり笑ったりしていたが、そのうち床石の上に横になって眠ってしまった。私たちも彼らの脇で寝ることにした。
 こんなに象の近くで寝るのは初めてだった。力強い番犬ならぬ番象に守られている気分だった。象は退屈なのか、いつまでも巨体を揺すぶっていた。やがて焚火は消え、星明かりの下で目を閉じた。

 [魚の消えた海辺の村]

 アラビア海に面するゴアは、南北数10キロにわたって10数カ所にビーチがあり、アンジェナ・ビーチやカラングート・ビーチなどの有名ビーチは中央部に集中している。ところが私は10年前は最南端のコルヴァ・ビーチに、今回は最北端のアランブール・ビーチに滞在した。
 アランブールは私が決めたわけでも、マッテーヨが選んだわけでもない。ただ当時ヒマチャルにいたフリークスの間では「ゴアはアランブールだ」というのが合言葉だった。なるべく警察の目の届かない端っこというわけか。
 「ヒッピー三大聖地」と言われたゴア、カトマンズ、カブールのうち、カブールはソ連の侵略で戦乱の地と化し、カトマンズはアメリカCIAの工作によって大麻天国を破壊され、唯一ゴアだけがLSDパーティを絶やすことなく、世界のロックシーンをリードしてきた。
 米ソ二大強国の軍拡競争によって、自然環境と民族文化を破壊されてゆくアジア第三世界にあって、インドだけはコカコーラをボイコットしたように、自治と自立を堅持しているかのようだった。しかし破壊は予想もしないところで、致命的なまでに進行していた。
 アランブールのビーチへ降りた私たちは、先ずはレストランへ入り、念願のフィッシュ・カリーを注文した。ところが魚はないという。まさかこの豊かな海を前にして、魚がないとは何事だと、他のレストランを2、3軒回ってみたが、どこにも魚はなかった。一昔前には、地曳き網の中からあふれ出していたアジやエビが、今はもういないという。まさか、まさか……!?
 しかし夜になると水平線の彼方に、点々と集漁燈が見えるではないか。私は地元の男に尋ねた。「あの光は何だ?」すると男は私の顔をのぞき込んで答えた。
 「タイヨーギョギョー!」
 「ギョギョッ 大洋漁業!?」
 大洋漁業がボンベイに進出したことは10年前に聞いていた。それが今、インド人を雇った日本のトロール漁業が、アラビア海沿岸の魚類を一網打尽して日本へ持ち去るため、インド人の口に入らなくなったのだ。今がアジ漁の最盛期というのに、朝市で売っている魚は、ナマズのようにヌラヌラした淡水魚ばかり。海の魚を食いたいという私たちの念願は、インドではついに叶わぬ夢となった。
 思えば一昔前、肝炎の療養のため2ヵ月余もゴアの浜辺に滞在した私たちに、毎日のように地曳き網でとったアジをプレゼントしてくれた漁民たち、その心豊かな人々を魚も食えない零細漁民に追いつめた日本企業の経済侵略。その巨悪に対する怒りはまた、日本国内第三世界である奄美の零細漁民と共に、石油基地計画に反対して闘ってきた私の個人的体験と重なるものがあった。かくて今、徳之島の核燃問題が意識の中にクローズアップされるのだった。
 旅のリアリティは「Be・Here・Now」(いま、ここに、在る)であり、過去や未来の想いに支配されていては、リアリティを疎外されてしまう。(注)
 「MATプラン」(徳之島核再処理工場計画)の情宣のための東南アジアの旅も、タイで彼女と別れてインドへ来てからは、「Be・Here・Now」の旅に徹し、「MATプラン」のことは意識下に封印してきた。しかし状況が旅のプラニングを迫っていた。
 アランブールの椰子林の中には、貸バンガローが何軒かあったが、マッテーヨと私はレストランの掘立小屋にもぐり込んでただで泊まっていた。クリスマス直前にツヨシとオジヤがやってきた。彼らは相当量のチャラスを持っていたのでバンガローに泊まっていた。ところがそのバンガローが警察にガサ入れされ、ツヨシがパクられたと朝方オジヤが報せてきた。チャラスは砂に埋めてあった分は助かったという。
 ポリスといっても金目当ての押し込み強盗みたいなものだから、保釈金を払えば監獄を出してくれるだろうと、オジヤに現金を用意させて、日本人旅行者2、3人を誘ってマプサの警察署へ押しかけた。ツヨシは奥の鉄格子の中にいた。署長とかけ合って保釈金(多分2、30万円)を払った。保釈金といっても罰金と同じだから返ってはこない。ツヨシは半日で取り返したが、威張りくさったポリス共には頭にきた。
 この警察との対決は、来たるべき日本での「プルトニウム国家警察」との対決に想像力を駆りたてた。
 悪魔のプルトニウム原爆工場計画「MATプラン」に対して、奄美の徳之島には約30人のフリークスが入植し、島民と共に反核戦線を構築中だった。用地決定は83年春だから、あと3、4ヵ月後である。
 もし徳之島に核再処理工場の用地が正式に決定すれば、30人の仲間は警察に徹底的にマークされ、正体を調べるために何人かがパクられるかも知れない。彼らの大半はガンジャ・フリークであり、もし大麻でパクられたら、例え反核運動をやっていてもカンパは望めないだろう。保釈金は1人150万円程度だから、2人パクられたら300万円だ。金が無いから保釈できないとなると、入植した30人は根っこの無いカカシだということがバレてしまう。これではハッタリ勝負が通用しない。
 実はこれについては日本を発つ直前に、左翼の黒幕的存在だった藤村弘さんから、反核運動の軍資金のことを問われて、冗談半分に「ヒマラヤへ行ってシヴァ神にでも相談してみようかな」と言ったところ、「もし買う方と売る方をポンがやる気なら、運ぶ方と準備金の調達はオレがやろう」と言われたのだ。半信半疑だったが「運ぶ先は日本ではなく、ヨーロッパにしよう」ということだった。
 しかしこの話はインドへ来て、ヒマチャルを訪れても本気では考えなかった。ヨーロッパの運び屋たちの苦労話を聞けば聞くほど、やる気はなくなっていた。マッテーヨに相談する気になったのはゴアへ来てからだ。
 既に「MATプラン」のことはマッテーヨに話してあった。イタリアにも原発があり、反核運動もあるから、ニュークリア問題はツーカーだった。従って運動資金の調達のためチャラスを運ぶことに反対はなかった。クリスマスには間に合わないが、パールヴァティなら常時1キロが150万か200万円にはなるという。(日本の半値だ)500万円作るとなると3キロは運ばねばならない。
 「3キロものチャラスをどうやって運ぶのだ?」とマッテーヨは驚く。そこで運ぶのは我々ではなく、第3者の運び屋がいるのだと言うと、マッテーヨは胸をなで下ろした。「今度パクられたら実刑10年だ」と言っていたから、彼自身が運ぶことには躊躇したのだろう。
 そこで買う方と売る方を協力してくれれば、パスポートの再申請代とローマまでの航空運賃、それにGパン、セーター、靴など冬物一式の代金を払うということで話は決まった。
 私は藤村さん宛に手紙を書き、M(マネー)作戦の決行を知らせ、準備金を送るよう要請した。ただし「当方にチャラス3キロを運ぶアイデアなし」と念を押しておいた。

 [楽園の惨劇と脱出]

 私がビート仲間と初めて奄美群島を訪れ、与論島の百合ヶ浜という白砂とサンゴ礁のめくるめくビーチに遊んだのは1965年夏、まだ観光客は1人もいなかった。
 ところが10年後の75年、奄美大島の石油基地計画現地に入植した頃には、与論島は「日本のゴア」と宣伝され、本土大資本のホテルが建ち、観光フリークスが押し寄せ、ビーチはコンドームのゴミ捨て場と化し、島民の大反発を招いていた。同じ奄美群島の一角で、「石油公害」と戦っていた私たちは、フリークスによる「観光公害」なるものの存在を知ったのだった。
 それだけに10年ぶりのゴアには「観光公害」を予想したのだが、ビーチだけでも与論島の10数倍もあるゴアでは、近代化は遅々として進まず、観光資本の侵略もほとんど無く、ヒッピー時代からフリークスと地元漁民との仲は友好的で、トラブルめいた話はなかった。
 今回もアランブールの漁民の結婚披露宴に、ビーチに滞在中のフリークスが招待されたのだった。ヌーディスト・クラブの白人レディたちも、ワンピースを着て参加していた。
 漁業不振の村にしては村人は明るく、披露宴は派手で、料理は豪盛だった。魚料理は無かったが、代りに豚肉が出た。インドで豚肉を食ったのは初めてだった。ゴアはキリスト教なのだ。ゴアの豚といえば豚便所の豚だが、私は気にしないでたらふく食った。
 ゴアのビーチがヒッピー、フリークスの楽園になったのは、漁民がクリスチャンであることと関係がありそうだ。女が肌を露出することをタブー視するヒンズー教では、ヌーディストに対してゴアほど寛大になれないだろう。またインドの海岸線は干潮時には便所になるが、底曳き網漁のゴアの海岸線が糞尿で汚されることはない。
 日本からの手紙を待つ間、私は毎日のようにビーチで一服やりながら、裸の女たちを眺めて過ごしたが、時々とんでもない惨劇を目撃した。さかりのついた一匹の雌犬を、数匹の雄犬が輪姦しているのだ。
 雌犬は炎症を起こして血まみれの局部を庇って、腰を地面にすりつけるようにして歩くのだが、絡みつく雄犬共から逃れようと、腰を上げて走り出した瞬間に背後から雄犬に乗っかられ、槍のようなペニスを局部に突き刺され「キャン、キャン!」と悲鳴を上げるのだった。
 「早くしろ、次はオレの番だ!」と、せっつく雄犬共。雌犬の意志とは関係なく、雄犬共の本能を狂わす匂いが局部から発するという恐ろしい摂理によって、野良犬共の地獄の季節はまっ盛りだった。同じように局部丸出しでも、決して人前で輪姦をすることがないだけ、人間は本能が毀れているのだろうか。
 「野良犬地獄、フリーク天国」のゴアのビーチに、あの忌わしい殺人事件が起きたのは、東京の藤村さんから準備金をデリーの東京銀行宛に送ったという手紙が届き、マッテーヨとゴアを発つ準備をしていた時だった。
 朝方、ビーチは大騒ぎになり、何人ものポリスが右往左往していた。聞くところによれば、寝袋で野宿していた2人のフリークスが、ココナツを割る手斧で頭をかち割られて殺され、更に近くの湖では首の骨を折られたフリークが死体で発見されたとか。犯人はエンジェル・ダストというドラッグを摂って錯乱したドイツ人フリークで、行方不明のため警察が山狩りを始めたという。
 LSDのオーバードーズ(摂り過ぎ)によるフリーク・アウト(錯乱)から自殺したり、自殺未遂の例はあるが、他殺は聞いたことがない。ただし、エンジェル・ダスト(PCP)という象の麻酔薬から作るというドラッグは、私は未体験だが、狂った人も多く非常に危険だと言われていた。
 狂った白人フリークの殺人事件は、楽園に遊ぶ全てのフリークスを震え上がらせた。警察の取締まりが更に厳しくなることは予測できた。これ以上もたもたすることはなかった。ツヨシとオジヤに挨拶して、マッテーヨと2人で、その日のうちにローカルバスでアランブールを発った。
 バスは村人でほぼ満員だった。白人フリークはマッテーヨしか乗っていなかった。ゴアの境界に近い町の交差点で、何人かのポリスがバスに停車を命じた。ここでゴアから来るバスの検問をやっていたのだ。行方不明の殺人犯の捜査だろう。
 バスが止まるとポリスたちが取巻き、マッテーヨに下車を命じた。拒否するわけにいかず、乗客をかき分けてマッテーヨはバスを降り、ポリスの言うことを聞いていたが、突然大声でポリスたちに食ってかかった。イタリヤ語で叫んでいるので意味は分からないが、要するに「オレが人殺しに見えるか、さあ、どうだ?」と怒鳴り散らしているのだ。
 ポリスたちは呆気にとられて、なだめにかかったが、マッテーヨの興奮は治まらなかった。ポリスが相手にならないとみるや、マッテーヨは立止まって見物している野次馬たちに大声で語りかけた。交差点には何台もの車が止まり、沢山の野次馬がいた。マッテーヨは野次馬たちを相手に走り廻り、口から泡をとばして必死に訴えた。「オレは人殺しではない。信じてくれ!」と。
 野次馬たちはマッテーヨの度迫力に圧倒されて、物も言えず、後ずさりした。たった1人のヒステリー男のために、交差点は完全に麻痺状態だった。車も野次馬もどんどん増えるばかり。あわてたのはポリスたちだった。彼らは必死になってマッテーヨをなだめにかかったが、マッテーヨのヒステリーは治まらなかった。そのためポリスたちは背後からマッテーヨを抱きかかえるようにしてバスに押し込み、強引にドアを閉じて、運転手に早く行けと催促するのだった。
 かくて私たちのバスはゴア警察の包囲線を無事突破したのである。マッテーヨのヒステリーがどうなるかと心配したのだが、座席に座って頭をかかえていたマッテーヨは、バスが動き出してしばらくすると、チラリと顔を上げて、ウインクしてみせた。何のことはない、あのヒステリーはパスポートを持たない身のお芝居だったのだ。いかにも運び屋の相棒には頼もしい男だった。

(注)
 『Be・Here・Now』1971年出版、著者ラム・ダスは元ハーバード大学でティモシー・リアリーとLSDを研究したリチャード・アルパート教授。LSDを持ってインドを旅した著者は、ヒマラヤでヨガのグルに帰依し、帰国後はヨガのグルとしてラマ・ファンデーションを設立。『ビー・ヒア・ナウ』はインドを中心とした東洋の霊的実践体系を広く伝えるベストセラーとして、70年代のスピリチュアル・ムーヴメントを盛り上げた。日本語訳は吉福伸逸、上野圭一、平河出版社刊。


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