第2部 2度目の旅 1982・春〜83・春
第8章 ヒマラヤのチャラス生産地  マナリ

[呪われたダムの町]

 復活したシヴァが、リシュケシの近くで是非行ってみたい所があるというので、つき合ったのが、ディラードウンという都市でバスを乗り継いで行ったダムの町だった。
 ヤムナー河の上流にあるこのダムの建設に、シヴァは若い頃出稼ぎで働いていたとか。ただしバラモンの彼には肉体労働が禁じられていて、現場監督のような管理職をしていたようだ。
 何処のダムを見ても、そのダムの底に沈んだ村があることを想えば、ダムの風景とは呪われた風景だが、それ以上にこの巨大工事に携った労働者の町こそは、真に呪われた存在だった。そこには昼間から路上をさ迷い、禁断症状の苦しみを訴えるアルコール中毒の亡者たちがいた。アルコールが規制されているインドでは、めったに見られない光景だった。
 シヴァの話では、ダム工事中は労働者にアルコールが販売されていたとか。肉体労働の慰安にはガンジャではなく、やっぱりアルコールが有効らしい。しかしインド人は祖先代々アルコールに耐性がないため、すぐ依存症になるようだ。ダム工事中にアル中になった労働者のために、町では工事終了後も1日1回、アルコールを販売しているのだ。
 私たちは夕方のアルコールの販売を待って、酒販店の前に並んだ長蛇の列を見物した。売り場は鉄格子で仕切られていて、カウンターの窓口から容器に1リットルくらいの量り売りである。客は代金を払うと、酒を持って路上に腰を下ろし、一気に呑んでしまう。おつまみも、お代りもない。酒文化がないから酔っぱらうだけで、歌も踊りもない。
 豊かな大麻文化を求めて、聖地巡礼の大麻行をしてきた私にとって、インドの酒の世界とは呪われた亡者の地獄以外の何ものでもなかった。
 さて、自らの過去と向き合ったシヴァは、再び世俗へ復帰するために、南へ向かうだろうか、それともこのまま出家するのだろうか、決断の時は迫っていた。そして彼は尋ねた。
 「ポン 次は何処へ行きたいか?」
 迷うことなく私は答えた。
 「最高のチャラスの生産地へ」
 「オーケー では北だ!」

 [山の民のふるさと]

 朝方、ヒマチャル・プラデーシュ(ヒマラヤ州)の交易市場クルでバスを乗り換える時、長袖のシャツを着た。そこは風貌から服装まで、下界のインド人とはガラリと異なる山岳民の世界。バスは更に登って標高2000メートル近いマナリに到着したのは昼頃だった。
 その間バスからは、真近かに迫る純白の峰々と、山の民の生活が眺められて、飛騨の山の民である私の郷愁を誘った。とはいえ季節は大麻の実りの秋、日本の野良では決して見られない風景が見えた。
 朝露が乾く頃から野良では老若男女が、草丈2、3メートルもある大麻のバッズ(花房)を両手で揉んで、蜜を集めているのだ。その祈りにも似た作業は、年に一度の現金収入のチャンスなのだ。ヒマチャルの大麻は「カンナビス・サティバ」という品種で、これはガンジャでは吸わず、チャラス(大麻樹脂)にして吸われている。(南インドの「ケララ・ガンジャ」などは「カンナビス・インディカ」という草丈1メートル程の品種)
 中央アジアを原産地とする大麻は、マナリあたりでも畑だけでなく、野良や路上など到るところに野生しており、大麻吸いにとっては夢の黄金郷エルドラドである。そしてヒマチャルの「パールヴァティ」といえばインド国内のみならず、今やヨーロッパにまで鳴り響くチャラスの最高ブランド品なのだ。
 このチャラスの黄金郷を、私はシヴァに案内されるまで全く知らなかった。10年前のインドの旅でも「マナリ」の名は聞いた覚えがない。70年代初めのヒッピーネットワークでは、ヒマラヤのチャラスといえば今は亡き「ロイヤル・ネパール」であり、カトマンズが大麻天国だった。
 インドは74年にインディラ・ガンジー首相が、タール砂漠で初の原爆実験を行い、75年から約2年間「国家非常事態宣言」を発令した。同時期ネパールはCIAの秘密工作によって大麻を非合法化したため、フリークスはロイヤル・ネパールに代るチャラスと、第2のカトマンズを求めて彷徨った。
 余談ながら「ハシシー」と呼ばれる大麻樹脂は、有名な「アフガン・ブラック」「レバノン・レッド」「モロッコ・イエロー」などの銘柄も、大麻の花房を砕き、圧縮し、固めたもの。花房の蜜だけを採集するヒマラヤ系のチャラスとは、大麻樹脂といっても別物である。
 さて、大陸放浪人サワ(澤村浩行)が、ボンベイのインド人ロックバンドの連中と共に、チャラスを求めてマナリを訪れたのは非常事態宣言の頃、まだ観光客の姿はなく、フリークスの姿も少なかったとか。
 それから数年を経た82年、マナリ周辺の山岳民の生活圏には、秋の収穫期ともなるとヨーロッパから押し寄せるフリークスが、共同で民家を借りて住みつき、自らも野良へ出てチャラスを作り、また地元民から買い求めて本国へ運ぶのだった。同時に観光ブームの波はマナリの街を活性化し、数軒のホテルが営業しながら建設中だった。6、7000メートル級の霊峰が眺望できるマナリは、観光リゾート化の第1歩を踏み出したところだった。

 [チベタン・ディラーの客人となる]

 マナリに到着して間もなく、シヴァが探していた友達が見つかったといって、バススタンドの下方にあるシヴァ・テンプル近くに住むチベット人の家に案内してくれた。小さなレンガ造りの1軒家の土間に、カラフルな敷物を敷いて座る40歳くらいの野性的な男が、屈託なく迎えてくれた。壁にはダライラマの写真が飾ってあり、美人の女房と男の子が1人いた。
 彼は山岳民が生産したチャラスを鑑定し、品質を判断し、相場に合った値で買い取り、それをデリーやボンベイなどで売りさばくディラーをやっていた。ラジニーシ・アシュラマへもチャラスの密売に行ってシヴァに出逢ったのだ。
 スンダルシンの女房がバター茶を出してくれた。一服やりたかったが、ディラーはチャラスを吸うと鑑定ができなくなるといって、スンダルシンは吸わなかった。酒の鑑定家が酒を口に含むだけで決して呑まないように。
 スンダルシンの計らいで、彼の家の隣に身内一族が住む長屋があり、その2階の角の部屋が空室になっていたので、そこを借りて居候することになった。そこからはヒマラヤの霊峰が眺望できた。
 パールヴァティはスンダルシンが最高級品をくれたので、シヴァと吸いまくった。味も香りもまさに芸術作品である。ヒマラヤの澄みきった大気の中を、魂は駆け巡った。
 長屋にはチベット人だけではなく、ネパール人やハーフもいて、女たちの織ったウールの布を、男たちが担いで下界へ売りにいくのだ。男たちは「マナリ帽」と呼ぶ前縁をビロード地で飾った平らな丸帽子を愛用していた。
 私が絵描きだと知ると、スンダルシンは画用紙を買い込んできた。私は水彩絵具を持っていたので、何枚かの風景スケッチと、長屋に住むスンダルシンの身内の娘たちの肖像画を描いてやった。ヒマラヤの娘たちの素朴な美しさと可憐さが、奄美の海辺に住む娘たちへの思いを募らせた。
 そんなある日スンダルシンが「今日はLSDをやる日だが、つき合わないか」という。「LSDの日」について問うと、それはディラーとしての命運を賭けた訓練だという。
 前年、シヴァと出逢ったプーナのラジニーシ・アシュラマでのこと。スンダルシンは地元の生産者から掛けで買い込んだ大量のパールヴァティを、白人フリークスに売るために訪れたのだが、LSDを飲まされてぶっ飛んでしまい、チャラスを全部ただで振舞ってしまったとのこと。この手痛い敗北に打ち勝つためには、LSDに強くなるしかないと、それから週に1度はLSDを採って鍛えているというのだ。
 私たち3人は午後、長屋の2階でLSDを採った。ブツはヨーロッパのフリークからパールヴァティと交換して得たものだ。ガンガン効いてきた頃、シヴァがカセットテープをとり出して、これを聴きたいという。しかしカセットデッキは街のレストランにしかなかった。
 そこで外出の決心をした私たちは、マナリ帽を被ったり、派手なスカーフやショールを引っかけて、まるで天国を飛ぶような気分でレストランまで歩いた。
 レストランのオーナーにスンダルシンがテープを渡し、フルボリュームでかけてくれと交渉した。店の外は広場になっていて、山の民がうごめいていた。突然、ンチャ、ンチャ……とレゲェのリズムが響いて、バニー・ウエラーの歌声が流れた。私たち3人は広場へ跳び出して踊った。ヒマラヤの町へカリブ海のさざ波が押し寄せ、それに乗って私たちはゲラゲラ笑いながら踊った。
 そのテープはシヴァがカトマンズで日本人の若者から貰ったものだが、当時まだマナリにはレゲェは入っていなかったのかも。私たちを取り巻いて、呆気にとられて見物していた山の民に、波乗りのリズムはどうだったのだろうか。
 私たちはますます熱くなり、人垣もますます厚くなって、白人フリークスも何人かいたが、一緒に踊ろうという奴はいなかった。私たちは中年のウルトラ・アジアン・フリークスというより、ほとんど異星人エイリアンか、ゾンビの類と見られたのかも。

 [クリ・チャラス]

 スンダルシンの紹介で、シヴァ・テンプルの近くに「ラヌゥ・チャイショップ」を知り、私は入りびたりになった。オーナーのラヌゥは先住山岳民の一族で、30代半ばの好漢だった。彼は終日入口のカマドの脇の高台に座り、パロータというジャガイモと小麦粉を練って焼く常食を作り、チャイを立て、その間にチロムにチャラスをつめてお客に振舞うことを忘れなかった。
 ローカルな男もフリークもお客は全てチャラス吸いだから、常時何本かのチロムが行き交い、大麻の煙と香りが立ちこめる店だった。地元のポリスも時々立寄ったが、ニコニコして全てを無視した。インドで唯1の善良オマワリさんだった。
 私は矢立てを持っていたので、毛筆でお客の似顔絵を描いて、飯代やお茶代を稼いだ。
 ある日、日本人の若者が2人入ってきた。背丈は普通だが肩の筋肉が盛り上がった堂々たる体格だった。2人組は私を見かけると、すかさずチロムを出して「一服いきましょう!」と挨拶するのだった。
 2人とも右翼系の大学の空手部と柔道部の学生で、大麻道を修行するために、新聞の勧誘員のバイトで旅費をつくり、インドへやって来たという。空手の方は口八丁手八丁のツヨシという沖縄人で、柔道の方は茫洋としたオジヤという脱ヤマトンチュウ(?)。
 大麻道志願というだけあって、この2人の吸いっぷりは半端ではなかった。スポーツマンの根性を大麻への信仰にシフトして、インドを目ざし、ラジニーシに興味を持ち、ガンジャの守護神シヴァの聖地を巡礼しているのだった。
 そこで私はスンダルシンを紹介してやろうと思い、長屋の私の部屋へ案内した。スンダルシンは外出中だったので待つことにした。
 さっそくツヨシはポケットからピンポン玉大の黒い塊を出して見せた。パールヴァティは棒状(直径約1センチ、長さ約10センチくらい)のものしか見たことがなかったので、球状のは珍しかったし、色もずいぶん黒々していた。
 ツヨシは黒い塊から爪先でそれを1ミリ程の粒にちぎって、ココナツの実で作った小皿に貯めていった。その間オジヤはチロムを出し、フィルター用の布切れに水を含ませて絞り、準備をしていた。
 小皿のチャラスの粒が巻タバコ1本分くらいになると、それに1本分の巻タバコをほぐして混ぜ、チロムにつめて、吸い口に布切れを当て「ボム シャンカール!」と唱えると、ツヨシは私にそれを差し出した。
 私は恭々しくそれを受け取り、両手で支えて「ボム シャンカール!」と唱えて、ツヨシにマッチで火を点けてもらって深々と吸った。強烈な味と香りがして、一瞬目まいがした。チャラスの喫煙にはほぼ半分のタバコが混合される。火持ちを良くするとか、味を中和するとか、緊張と弛緩の神経作用のバランスをとるなど理由はあるのだが、チロムは煙を肺に直行させるから、ニコチンの毒で目まいがするのだ。
 チロムが3人の間を2、3度回った頃、外からスンダルシンの叫び声が聞こえ、間もなく階段をかけ登ってやって来るなり、テーブルの上にあった黒い塊をとって「こんなもの!」と言って、窓から遠くへ投げ捨ててしまった。アッと言う間もなかった。それはツヨシが高い値段で手に入れてきた「パールヴァティ」なのに。
 呆気にとられている私たちに、スンダルシンは言った。「君たちは何も知らないんだな。あれは『クリ・チャラス』というまがいものなのだ。クリという植物のヤニを手に塗ってチャラスを集めると倍以上の収穫があるのだが、クリには毒がある。どうだ、頭は痛くないか?」
 そう言ってスンダルシンはポケットから何本かの棒状のチャラスをとり出し、そのうち1本を「これが最高級のパールヴァティだ、吸い比べてみな!」とツヨシに渡した。
 それにしても、2階のにおいを庭で嗅ぎつけたディラーの鼻には驚いた。そこでディラーはチャラスを吸わないで、何を基準に良し悪しを判断するのかを尋ねたところ、スンダルシンは鑑定について語ってくれた。
 先ずチャラスの色、ツヤなどをよく見ること、火を使わないでにおいを嗅ぐこと、触ってちぎってみること、爪で叩いて音を聴くことなど、視覚、嗅覚、触覚、聴覚という5感のうち味覚以外の4つの感覚器官を通して、チャラスのアジ、カオリ、キキ、トビ、フカミ、などを推測し、等級を決め、相場に合った値で買うのだ。
 パールヴァティの買い手ともなれば、ハイレベルの嗅覚と神経系の持主だから、誤摩化しは効かない。混ぜ物や手抜きのチャラスに商品価値はないという。従ってツヨシのような初心者に、プッシャーたちは売り物にならないクリ・チャラスを売りつけるのだという。大麻道至難である。  

[大麻道の凸凹コンビと共に]

 マナリの北方4キロあたりにヴァシストという温泉のある村がある。ツヨシとオジヤの凸凹コンビと、最近は長屋を出て野宿をしているシヴァを誘って行ってみた。私の腎炎からくる両脚のむくみは相当ひどくなり、歩行はかなりしんどかった。
 村の入口に有料の温泉施設があったが、私たちは寺院の沐浴場へ入った。青天井の沐浴場は、四角い硫黄泉のプールの四方に階段があって、10数人の先客がパンツをはいたまま入浴していた。インドの旅館にはシャワーしかないから、パンツをはいたままとはいえ、首までお湯につかるのは久しぶりの快感だった。ましてパールヴァティを一服決めて温泉にとっぷりつかるのは天国である。
 この天上界のもっと上へ行ってみようと、ある日ツヨシがランドクルザーを借りてきた。彼は猪突猛進型の半面、人なつこくて朗らかだったから、地元の人々に人気があった。
 ガソリンは満タンなので遠出しようと、助手のオジヤと私の3人でヴァシスト村を通り越してどんどん北上した。真白な峰々を望む風景が立ち上がり、チベット高原へ近づく。途中対向車はなく、人影もまばら。高度は3000メートルを越えたあたりか、雪が積もっていた。そして突然、高速道路へ出たのだ。
 天上界の上の無人の風景の中で、キナ臭い弾丸道路に遭遇して、私たちはがっかりした。それは70年代に中国が、チベットのラサからレー、ラダックを結ぶために建設した高速道路である。そこで私たちは引き返したが、凸凹コンビのおかげで思いもかけないトリップをしたものだ。
 さて、マナリには半月以上も滞在しただろうか。パールヴァティという名柄は、本来マナリより一筋東のパールヴァティ渓谷地方の産物を言うのだが、有名になったのでマナリ産も便乗しているのだという。そこで私たちはパールヴァティ渓谷のバスの終点マニカランまで行くことにした。
 私たちがマニカランへ出発する前夜、スンダルシンはお別れのチャラス・パーティを催すから仲間を招待しろというので、ツヨシ、オジヤ、シヴァ、それに倉吉の恭之介と晶子など10人くらいが参加した。
 ディラーが主催するパーティだから、どんな高級品が吸えるかと期待していたところ、スンダルシンは小指大に刻んだチャラスと、米の飯を炊きこんだ釜を持ってきた。一同は唖然としてチャラスの炊き込みご飯を眺めた。
 「こんなもの食えるの?」と、皆が恐るおそる食べてみたが、砂を噛むような感じで飲み込むことが出来なかった。
 「どうだ、うまくないのか?」と、スンダルシン自身も口に入れて、考え込んだ。
 そこで私はチャラスの鑑定にスンダルシンが、視覚、嗅覚、触覚、聴覚という4つの感覚器官を駆使しながら、5感の1つである味覚だけは等閑(なおざり)にしていたことを思い出した。そこで尋ねてみた。
 「今までにこんな食べ方をしたことあるのか?」と。
 「いや、これが初めてだが、実験は失敗のようだな……」
 スンダルシンは素直に認めた。まさに味覚がウイークポイントだったのだ。それにしても使ったチャラスの量は相当なものだった。参加者一同は、この豪華な失敗作を前にして、主催者ともども、笑うしかなかった。
 「チャラスは食うものではない!」


 〈追記〉
 「ヒマチャルの大麻は『カンナビス・サティバ』という品種で、これはガンジャでは吸わず、チャラス(大麻樹脂)にして吸われている。(南インドの『ケララ・ガンジャ』などは『カンナビス・インディカ』という草丈1メートル程の品種)」と書いたが、これは私の誤認で、事実はその反対のようだ。
 最近読んだ『欲望の植物誌』マイケル・ポーラン著(2003年、八坂書房発行)という、リンゴ(甘さ)チューリップ(美)マリファナ(陶酔)ジャガイモ(管理)──これら4つの植物と人間の欲望とのせめぎあいの絶妙の植物誌によれば、
 1970年代半ばまでアメリカで吸われていたマリファナの大半はメキシコ産だった。しかしアメリカによりメキシコの大麻畑には除草剤パラコートが撒かれ、密輸入の取締りが厳しくなったため、アメリカ国産のマリファナが市場を独占した。しかし国産は輸入品に較べて品質が劣っていた。それは熱帯で育った植物から採った種(カンナビス・サティバ)を使っていたからだ。サティバは寒さに弱く、北アメリカでは上質なものは生産できなかった。
 70年代の終りころ、アフガニスタンの「ハシーシの海」を旅したアメリカのヒッピーが、カンナビス・インディカの種を持ち帰った。インディカは何世紀にもわたって中央アジアの山岳地帯で育てられたもので、丈夫で寒さに強く、草丈もせいぜい1.5メートルと、サティバの3〜4メートルに較べて低いが、ドラッグとしての作用はすこぶる強かった。
 インディカのアメリカへの導入により、アメリカの全五十州でシンセミアをとることができるようになり、やがてサティバとの交配により、カナビス遺伝学における「偉大な革命」がもたらされた、とある。
 ちなみに日本列島に根づいてきた大麻は、いずれもサティバであり、戦前「インド大麻」として非合法化されたものがインディカと思われる。
                    (09.2.10)


 〈追記2〉
 [大麻道の凸凹コンビと共に]の13行目「それは70年代に中国が、チベットのラサからレー、ラダックを結ぶために建設した高速道路である」という記述に対して、大陸放浪人サワから次のような指摘があった。
 「ラダックを通過する唯一の中国道路は、確か東北部を削る形であるのみ。従ってこのマナリ北部の道路は、マナリとレーをラフルを通してつなぐインドの軍用道路だと思う。それはかなり近代化され、旅人も通れるようになったという話を聞いたし、そこへ旅立つ人に会ったこともある」
 サワの言う通り、これは私の能天気な思い込みだったようだ。常識で考えてもインド領内に中国の高速道路などあるはずがない。
                                   (09.3.9)


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