第2部 2度目の旅 1982・春〜83・春
第4章 失われた大麻天国  カトマンズ、ポカラ

挿絵

[カトマンズの変貌]

 懐しのカトマンズはかつての「大麻天国」の面影もないほど病み荒んでいた。ヒッピーブームで浮かれ騒いだ後、72年にマヘンドラ国王に替って、ピレンドラ国王が即位し、ポカラ街道が開通して、ネパールもインドの観光ブームの波に乗った。(日本人観光客の中には、あまりにも刺戟の強いインドを避けて、タイから直接ネパールへ飛ぶ人も多い)
 この観光ブームを予測して「世界の警察官」アメリカCIAは、ピレンドラ国王を懐柔して、大麻を非合法化させ、「大麻天国」を破壊してしまった。そしてスイスの銀行には国王の名義で、莫大なドルが貯蓄されているという噂が流れた。ここからネパール国民と国王との断絶は決定的になり、80年に民主化を実践したとはいえ、売り払われた「大麻天国」の信頼を回復することは決してできなかった。
 ガンジャ・ショップが姿を消したため、ガンジャやチャラスを求める人は、否応なくブラック・マーケット、即ち怪し気なプッシャー(売人)とヒソヒソ密談する闇の市場に頼るしかなかった。闇の市場はある時は路地裏で、またある時はホテルのロビーで、あるいは茶屋の片隅で、遊び人風のネパール人と値段の交渉をし、現金と現物をその場で交換し、早々と立去るのだ。決してチロムを交すこともなく。
 ところでブラック・マーケットにはガンジャやチャラスだけでなく、LSDや、ブラウン・シュガーというインド製の粗悪なヘロインまである。「悪貨は良貨を市場より駆逐する」という言葉があるが、今やブラウン・シュガーがガンジャやチャラスを駆逐して、白人フリークスのみならず、ネパールの若者やプッシャー自身をも浸蝕している感じすらあった。
 ヨーロッパがヘロイン・ジャンキーの蔓延を阻止するために、大麻を規制緩和したように、大麻を禁止するとヘロインやコカインのようなハード・ドラッグを蔓延さすことになるのだ。(日本の場合はシャブだ)
 しかしカトマンズの退廃はブラウン・シュガーのせいだけではなかった。10年前にはその姿さえ見かけなかった車が急激に増加し、盆地の底にスモッグが漂うほどに環境を悪化させていた。雨期とあって、どんより沈んだ毎日、ヒマラヤは厚い雲の中だった。
 かつて私がオピウムを摂ったダルバール広場に面した3階建てのホテルはもう無かった。そこで薄ら寂れたフリーク・ストリートの路地を入ったエベレスト・ロッジという安ホテルに宿を定め、しばらく滞在する気でケロシンコンロを買って、自炊体制を整えた。
 旅費はほとんど無くなりかけていたが、ポストオフィスに日本の友人から100ドルのカンパが送られてきていた。100ドル紙幣は銀紙に包んで、封筒の外から透視できないよう工夫してあった。
 私がカトマンズにしばらく滞在しようと思ったのは、大麻天国の退廃の度を探り、その中に本物のガンジャ吸いを探ってみたかったからだ。
 10年前のカトマンズはどこの茶屋へ入っても、白人フリークスがチロムを回しておりガンジャ吸いとの出会いは容易だった。ところがガンジャが非合法化され、茶屋でも公然とは吸えない今回、ガンジャ吸いとの出会いは容易ではなかった。
 白人フリークスにしても、かつては半分はアメリカン・ヒッピーだったのに、今やアメリカ人の姿はカトマンズのみならず、インド亜大陸から忽然と消えてしまったのだ。それはCIAが大麻天国を破壊し、アメリカ軍がベトナムから一掃されたのとほぼ時を同じくしている。それ以来30年余、アメリカの若者が海外、特にアジアへ旅立ち、他国の若者と「ボン」を交し、自国を客体化して見ることはしなくなった。自由の国の若者が真先に囲い込まれてしまったのだ。
 かつての白人ヒッピー全盛時代と比べると、カトマンズを訪れる旅行者は多様化し、観光化し、ファッション化し、誰しもがガンジャを求めているわけではなかった。例えばダルバール広場でばったり再会した日本人フリークNは、奄美の無我利道場を訪れたことのある若者だが、当日初めてカトマンズを訪れたはずなのに
 「ポンさん 美味しくて安い料理を出す店があるんですよ。ぼくがご馳走します」と言うので
 「君はたった今カトマンズへ到着したばかりだと言ったじゃないか?」と聞くと 
 「そうですよ、飛行場からここへ来るまでまだ何も食べていないのです」と言う。そして力車を止め、2人で一緒に乗ると、リキシャワーラにこまごまと道を教え、指定したレストランの前に着くや、料金まで値切るなどすれっからしの旅人風だった。
 Nの話では現場を訪れる前に、『地球の歩き方』というガイドブックから情報をインプットしておくのだという。要するにNにとって、旅とはガイドブックの実証検問なのだ。おまけにNは自分の旅の体験を『地球の歩き方』に投書するのだとか。かくて安易で軽薄な旅のガイドブックが旅行会社を儲けさせ、1人では旅のできない若者をつくり出しているのだ。もちろんガンジャのことはガイドブックには出ていないから興味すら持たない。

 [目玉寺の不動金縛り]

 旅行者の質や量が変ったように、それを迎える現地人のガイド、ポン引き、プッシャーなども相対的に変ったことは、カルカッタやブッダガヤーの例を引くまでもない。カトマンズも日本人旅行者が多いだけに、怪し気な日本語を話すネパール人も多い。勿論、彼らの全てが日本人を騙し、カモにしているわけではないが。
 その日は雨模様の重苦しい日だった。私はカトマンズの東方にあるパシュパティナート寺院の周辺を散歩しながらLSDを摂った。そのLSDは日本から持って来たものか、タイで仕入れたものかは忘れたが、同じものをバラナシで摂って、灼熱の太陽にガンガーが燃えるような幻想を見た。ブツは悪くなかったから、カトマンズでもテストしてみたかったのだ。ところがLSDが効いてきた頃、ネパール人の若者に話しかけられ、たどたどしい日本語でチャラスを買ってくれとしつこく口説かれた。
 買物はきっぱり断ったが、若者の日本語の誤りを正し、正確な発音を教えるなど、しばらくは相手をしたのだが、アシッドが効いているから世俗のつき合いがしんどかった。そこで少し邪険に彼を追い払い、俗に目玉寺と呼ばれているボダナート寺院に向かって歩いた。決して後ろを振り返ることなく。
 ボダナート寺院はチベット密教の巨大なストゥーパ(仏塔)であり、丘の上のドーム型の胴体の上に、三角帽子の頭部が乗っかっていて、四方に目玉がついている。夢のような田舎道を歩きながら、懐しい顔付きの人々に出会った。途中から小雨が降ってきた。
 目玉寺の巨大なストゥーパの扉を開くと、内部は大広間になっていた。中央には大きなテーブルがあって、その周りに椅子が置いてあった。奥の方に人の気配はあったが、大広間に人影はなかった。雨宿りのつもりで私は内に入り、テーブルの前の椅子に腰を下ろした。ガランとして不思議な空虚さだった。
 しばらくすると奥の方から誰かが近づいて来た。ニコニコしながら私の前に立ったのは、追い払ったはずのプッシャーの若者だった。
 「ロキシー飲みますか?」と若者は問うた。
 ロキシーというのは米を原料とする蒸留酒だということは知っていたが、LSDを摂っている時にアルコールなど真っ平だった。しかしその時は魔が差したのか、ロキシーを一口飲んでみようという気になった。
 「ワン ドリンク」と告げると、若者は奥へ行って、間もなく茶碗に注いだロキシーを持ってきた。独特の香りを嗅ぎながら一口飲んで、思わず悲鳴を上げた。口から咽まで焼けるような強烈な味がした。若者はニヤニヤ笑いながら
 「何か食べる物、欲しいですか?」と問う。
 近所に食べ物屋があるから買って来てくれると言う。ところが財布には小銭が無かった。そこで私は100ルピー札を渡した。彼がその紙幣を握って、外へ出ようとした瞬間、私は直観的に彼は2度と戻って来ないような気がした。私はあわてて彼を呼び止めようとしたが、声が出なかった。何故か、口から言葉が出ないのだ。その間に彼は扉を閉めて出て行った。私は追いかけようとしたが、全身の力が抜け、テーブルに両手をついて立ち上がるだけでやっとだった。まるで不動金縛りにあったように、声は出ず、足も動かなかった。
 LSDとロキシーを一緒に摂ったのが原因なのか、ロキシーの中に毒が入っていたのか、あるいはその場所に特別な呪力が働いていたのか、今となっては何も分からない。とにかく私はしばらくその場にくたばったまま金縛りが解けるのを待った。案の定、謎の若者は帰って来ず、貴重な100ルピーは消えてしまった。その後のことは、両脚を引きづるようにしてホテルへ帰ったこと以外は憶えていない。

 [日本青年の自殺未遂事件]

 「やぁ ポンですね。ぼくはワニの友達のビコです」と、路上で20代半ばの若者から声をかけられた。
 ワニは和光大学の学生時代から、夏休みには奄美の無我利道場を訪れる常連だった。和光大学というのは70年代の学園斗争でも最後までごねたフリークな大学で、卒業生には「部族」の仲間になった者も多い。共通基盤は母胎回帰型アナーキズムというところか。
 ビコの話ではワニもカトマンズへ来ていたのだが肝炎を患い、先日バンコクの病院へ行ったとのこと。治ったらロンドンで再会する約束だという。彼らは当時の最前衛だったパンクを追いかけていたのだ。
 ビコとの出会いから新しいドラマが生まれた。ビコの紹介で同じ和光大出の宮尾と、インド人サドゥのシヴァと知り合ったのだ。ところがビコ本人は、シヴァと私に「宮尾君のことよろしくお願いします」と言うと、ロンドンへ渡るため早々とデリーへ向かったのだ。ビコに言われるまでもなく、宮尾には不安な翳を感じていた。そこでシヴァと2人で陰に陽に宮尾を監視することにした。
 宮尾は初対面の時、私のホテルでチロムを交したが、彼は大麻ではハイになったことが1度もないと言った。そのためブラウン・シュガーやLSDなどのハード・ドラッグをやっているようだったが、大麻はあらゆるトリップの基礎なのだ。その基礎が確固たるものでない限り、その上にどんなハードなドラッグを摂っても、全ては裏目に出るだろう。今にして私は宮尾にもっとガンジャを吸うことを勧めるべきだったと反省する。
 酒アレルギーがいるように、大麻アレルギーも多少はいるだろう。だが大麻が効かないという人の大半は「効かない」という自己暗示にかかっているのだ。だから変な効き方をしているのだ。従って「効く」という自己暗示にかかれる人は、素晴らしい効き方をするのだ。秘訣は、大麻に期待し、祈願し、大麻を信じることだ。
 ある朝、シヴァが血相を変えてやって来て、宮尾がナイフで両手足の血管を切った挙句、両眼を刺し、血まみれになって病院に担ぎこまれたという。後日聞いたところによれば、LSDを2発摂って錯乱したとのこと。
 それから4日間、私とシヴァは病院と警察と日本大使館の3点を往き来し、植物人間と化した宮尾に交替でつき添った。宮尾は真夜中に目を覚ますと、闇の中で自分が何処にいるのか分からず悲鳴を上げた、そんな時はすぐ手を握って話しかけることで、安心させるのだった。
 5日目に信州から父親がやって来た。その頃には宮尾の意識は正常に戻っていた。カトマンズではこの10年来、宮尾のようにカルチュア・ショックとハード・ドラッグで錯乱し、自殺する若者が後を断たず、切腹してテーブルの上に内蔵をさらけ出して果てた日本青年もいたとか。今回の事件を通して、ヒッピームーヴメントのネガの部分を知らされた。
 日本大使館が宮尾の親父さんを激励するためレセプションを催し、在カトマンズのエリート日本人たちが20人くらい集った。貧乏旅行者にはおよそ縁のない人たちだ。ご婦人たちの話では、カトマンズの鶏卵の黄味が白いのは、日本から輸入している飼料のせいかも知れず、毎週交替でバンコクまで卵を買いに行くそうだ。
 両眼を覆った宮尾が、親父さんに手を引かれて、カトマンズ空港から去って行くのを見送った後、シヴァと私は親父さんから貰った礼金で、しばらく一緒に旅をすることにした。
 シヴァは南インドの貧しいバラモン出身で38歳。結婚して4人の子供もいたが、英語を学んで観光ガイドをやっているうちにヒッピーのガイドをやり、LSDを体験し、かつては儀式にしか用いなかったガンジャを毎日のように吸い、ついに自宅を解放してヒッピーコミューンにしたところ、白人ヒッピーに女房を寝取られ、ドロップアウトしたのだった。シヴァは伝統的なサドゥと異なって、ヒンズー教の形式主義や、カースト的差別意識から解放されていた。従ってサドゥというよりも、ヒッピーだった。

 [ポカラのマジック・マッシュルーム]

 カトマンズはツーマッチと、私たちはポカラに向かった。開通10年目のポカラ街道は「耕して天に至る」の段々畑を眺めながら、バスは断崖の上を走る。ヒマラヤの山の民が営々として築き上げてきた景観は、人間と土地との深い絆を再認識させてくれる。
 寺院や歴史的な建造物が建ち並び、中世の面影が残るカトマンズの重苦しさと比べると、ポカラは自然のままの爽やかな田舎だ。特に私たちが滞在したレイクサイド付近は、古いタイプの茶屋が散在する程度、旅人も観光客というよりはほとんどフリークスだった。シヴァと安宿を定めて、カトマンズでの心労をねぎらった。
 雨期のポカラはマジック・マッシュルームの名所である。ポカラのマジック・マッシュルームはシロシビン系キノコで、最もポピュラーな「シロシベ・クベンシス」だったと思う。サイケデリックという点ではLSDに似ているが、LSDは10時間以上も効いていて疲れるが、キノコは数時間で醒める。
 シヴァはナイーヴで優しい男だったから、地元のネパール人に評判が良かった。レイクサイドの茶屋のオーナーとは意気投合し、毎日チャイを飲みに行った。このオーナーに頼めば、マジック・マッシュルームはいつでも手に入った。
 キノコ三昧のある日、ばったりビコに再会した。ロンドンへ渡るつもりでデリーまで行ったのだが、何となく心残りがしてポカラまでマジック・マッシュルームを食いに帰ったというのだ。
 宮尾の自殺未遂事件の話は、ビコに相当なショックを与えたようだ。ビコと宮尾は学生時代は顔見知り程度で、友達というほどの仲ではなく、今回カトマンズで偶然出会って初めてつき合ったとか。宮尾はパンクに興味がないので、ビコは予定通りロンドンへ向かうつもりだったが、宮尾の様子が気になって出発しかねていたところ、ポンに出会ってバトンタッチしたというわけだ。だからポカラへ戻って来たのも、やっぱり宮尾のことが気になっていたに違いない。
 ビコは宮尾と違ってガンジャを好きだった。マジック・マッシュルームを試みる人も必ず事前にガンジャを吸うべきである。ガンジャを吸ったことがない人が、いきなりマジック・マッシュルームを摂って、サイケデリック体験に圧倒され、錯乱し、自殺した例もある。そのため日本でもシロシビン系キノコが法的に規制されたが、大麻取締法が無ければ、キノコで発狂することもなかったはずだ。
 8月下旬、雨期の最後とあってバラナシは大洪水と聞いた。私たちは大洪水を見物に行くことにした。ポカラを去る前日、なじみの茶屋のオーナーが村人たちにマジック・マッシュルームを採集させ、それを煮つめてジャムをお土産に作ってくれた。そして笑いながら「これであんた達の望む天国が見えるぜ」と言った。

 [後日談]

 宮尾は帰国後、手術により奇跡的に視力を回復、1年4ヶ月後の83年師走、ビコに再会後、東京拘置所在監中の私を訪ねて来たが、先客があったため面会できず、差入れによって来訪を知らせてくれた。それから約半月後84年正月、投身自殺によって今度こそ確実にあの世へ行ったと、父親から通知があった。合掌!


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