第2部 2度目の旅 1982・春〜83・春
第3章 彷徨える文無しの旅  バラナシ、カジュラーホ

さしえ[河原はクソの山]

 インドの駅では乗車する時に改札しない。改札は降車時に行われる。だから降車時の改札をプラットホームでやり過ごせば、無賃乗車は簡単にできる。どの列車にもただ乗りの貧乏人が結構いて、車内の検札官でも相手にしないような不可蝕民が、デッキでうずくまっていることもある。
 そんなわけで、ブッダガヤーからバラナシへの夜行列車はただ乗りした。バカな買物をしたので旅費はほとんど無かったが、文無しの旅は日本で十分鍛えてあった。
 朝方、列車はガンガーの鉄橋にさしかかったが、10年前と違って「ガンガー キィ  ジャイ!」の歓声は上がらず、ガンガーへ賽銭を投げる人も見かけなかった。
 鉄橋を渡るとすぐカシー駅に到着した。無人駅を思わす辺鄙な駅で、誰も降りなかった。私は改札口を通らず、プラットホームから土手に跳び降り、河原まで駆け下った。
 10年前のバラナシとの初対面が、没我的な既視感と神聖な狂気に舞い上がったことに対して、ある種の疑問を抱いていた私は、今回はもっと醒めた目で聖地の現実を見てやろうと、下流の河原からアプローチすることにしたのだ。
 ところが河原へ降りて悪臭に気づき、周辺を見渡すとそこは人糞の山だった。河の近くまで行ってみたが、巨大な岩がごろごろしている河原はどこも同じで、古いクソはカラカラに干からびた昨年の乾期のものから、新しいクソは湯気の立つような今朝方のものまで、クソ、クソ、クソの山また山である。
 便所を持たない民衆は、男も女も老人も子供も、毎朝この河原へ来てクソをたれ、持参の容器に汲んだガンガーの水で尻を洗って帰ってゆくのだ。バラナシのことを「黄金の都」という意味が、実はこのことだったのかと悟った。
 大きなものは身の丈を超すごろた石の河原から、コンクリートと石造りのガートにたどり着くまで1キロ近くも歩いた。(その後、沿岸工事によりガートはかなり下流まで延長された)その間の悪臭は鼻がひん曲がり、毛穴という手穴が悪臭で詰まるような猛烈なものだった。
 このクソ地獄を彷徨いながら、これも愚かな罪人に対する聖地のお膳立てだと私は思った。これは一種の贖罪なのだと。やがて洪水が一年分のクソを洗い流すように、この悪臭の中であらゆる罪は浄化されるのだろう。

[カリ・ユーガの聖地]
 バラナシのガートは何処で寝ても安眠できそうだったが、昼間歩き廻るためには、リックが邪魔だった。ハウスボートは宿泊代が格安だし、鍵はないがロッカーらしきものはあった。そこで今回も上流の火葬場近くのハウスボートに決めた。客は私1人だけ、他のハウスボートにもフリークの姿はなく、彼らはもうハウスボートを利用しなくなったようだ。かくて西と東の旅人同士が出会い、人生を語り合う絶好の場が失われてしまったのだ。
 朝方、ハウスボートの少し下流の岸辺で、巨大な土左エ門を見た。その辺は洗濯夫たちが膝まで水につかって、濡れた洗濯物を石板に叩きつけて洗濯をしている仕事場だったが、そこへ上向きの男の屍体が流れてきたのだ。2、3人の洗濯夫が竹棹で屍体を沖合いに押し流そうとするのだが、丸太のように鈍重な屍体は、なぜか岸辺に寄りたがった。
 生者と死者のユーモラスな力比べを見ながら、私はバラナシならではの光景に深い感動を覚えた。これほど死を日常性として、リアルに観察できる世界は、インドでもバラナシをおいて他に無いだろう。聖地の特典とは、生と死の真実を目撃し、理解し、永遠を想うことだ。願わくば現代のインド人が、この光景を前近代的とか、非衛生的などの理由で、処分しないで欲しいものだ。
 確かに前近代的で、非衛生的ではあるが、人間や動物の屍体から糞尿まで、様々な汚物と細菌を流すガンガーの水で沐浴し、歯を磨き、その水を呑む人々の信仰が絶えることはないだろう。ガンガーの河床には死者の骨が敷きつめられ、その燐が強烈な殺菌作用を持つと言われている。
 それと比べれば近代化はもっと危険だ。アメリカのCIAはヒマラヤ山脈に、対中国スパイ用監視ステーションの設置に失敗。置き去りにした原発装置が雪崩により埋没したため、燃料のプルトニウムが漏れて、ガンジス河を汚染する恐れがある、というニュースが日本の新聞に載ったのは78年4月だった。
 当時、私たちの住む奄美群島の一角に「MATプラン」(徳之島核再処理工場計画)が発覚し、プルトニウムに対する関心が高まっていた頃だけに、ショックは大きかった。それは「実存的現在」のみならず「神話的現在」までが、冥界の魔王プルトーンに侵略され、神々の栄光が終わることを意味した。
 「ガンガーにプルトニウム汚染の可能性あり」という警報は、いまや私の実存的現実として目の前にあった。沢山の人々がガンガーの水で沐浴していた。朝の礼拝時のメインガートの賑わいは相変らずだったが、10年前と比べると礼拝のボルテージは明らかに低下していた。
 かつてメインガートを埋める人々は、地元の人々と巡礼客ばかりだった。ヒッピーだって巡礼者だったから皆と一緒に沐浴し祈った。ところが今や第3の人種、観光客が世界中から加わった。しかし彼らは祈らない。祈る人たちをカメラで写すのだ。沖合いの観光船から彼らはシャッターを切る。
 かつてエンジン船は1日1往復、政府の巡視船しか無かったが、今回は観光客の乗ったエンジン船を何隻か見た。エンジン船の起こす波は岸辺に繋留された舟同士をぶっつけ合わせ、沐浴し祈る人々を揺り動かし、礼拝のボルテージを低下させ、世俗化をはびこらせるのだ。宗教音楽しか聞かなかったガートにも、甘ったるい映画音楽が小舟の中から流れてくる。堕落と退廃は刻々と進行しているのだ。
 未開から文明へという西洋の進化論とは逆に、インドでは「現在はかつて在りし栄光の堕落した姿だ」という。人類がより高次な次元から、より低次な次元へと堕落、退廃するプロセスを4段階に区分し、現在は最終プロセスのカリ・ユーガ(暗黒時代)、仏教では末法時代と言われている。それは真理から最も遠のき、神々の栄光が失墜する時である。聖地バラナシの10年の変化を私は身をもって体験したのである。
 そのような感慨をもってガートに坐り、スケッチブックを広げていると、近くでめし屋をやっている若者が話しかけてきた。彼は私が絵描きだと言うと、店の前の壁に神々の絵を描いてくれと言う。店といってもガートの隅の路上に調理道具を置いて、スープやカリーを煮たり、チャパティを焼いたりしていて、お客は露天の床几かガートの階段に腰掛けて食うのだ。貧乏巡礼者用の立ち食いめし屋というところか。だから壁画は食堂の暖簾みたいなものだ。しかし暖簾は暖簾でもバラナシのガートといえば、吹けば飛ぶよな布切れとは訳がちがう。いわば聖地の祭壇である。
 私が快諾すると、若者は近くの家からアクリル絵具と何本かの筆を持ってきた。壁面はタテ2メートル、ヨコ数メートルあった。私は迷うことなく真ん中にバラナシの主神シヴァを書いた。午後の日射しの中で、次にシヴァの息子で象頭のガネシャを、更に笛を吹く少年クリシュナを描いた。散歩する人や物売りの少年などが立止まって覗いていたが相手にせず、久々に絵具を使って絵を描くのを楽しんだ。
 夕方、腹の減った頃、めし屋の若者が帰ってきて、壁画を見て大喜びだった。それから食事を作って、チャパティを腹一杯食わせてくれた。そして食後、小さなチャラスの塊をくれた。「一食一服」これが壁画描きの日当だった。そしてインドでの初めての稼ぎだった。しかし残念ながら後世に遺るはずの傑作は、2ヶ月後の大洪水で濁流の底に沈んだ。

 [カジュラーホのガイド]
 私の宿泊していたハウスボートの近くに、インド人と結婚した日本人女性が経営しているという「久美子の家」の看板が見えた。
 どんな客が逗留しているのかと覗いたところ、フロントには誰もいなかったので、階上のドミトリールームを訪ねてみた。昼間だというのに日本人の若者数人がごろごろしていた。挨拶した後、私はチロムを出して一服しないかと誘ったところ、ここではガンジャは禁止だとのこと。まさかバラナシまで来て日本の法律に縛られることはないと思ったが、久美子さんは厳しいらしい。おまけに夜間外出禁止とか、いろいろ規則があるようだった。
 というのも最近、日本人の若者がカメラ2台を持って、対岸へ渡ると言ってホテルを出たきり行方不明になるという事件が起きたのだ。それにしても死体の漂流している大河を、たった1人で2台ものカメラを持って、無人の対岸へ渡るということ自体が「平和呆け」の最たるものだ。貧しい渡し守にとって、カメラ2台あれば一生食いっぱぐれはあるまい。
 「恐い、貧しい、汚い」インドにびびって、久美子の家にしがみついている若者たちに私は言っておいた。
 「もしガンジャを吸いたい人は、俺はこの上流のハウスボートにいるから訪ねて来な!」
 それからしばらくして1人の若者がやって来た。その若者Kは初めてインドを訪れたが、まだガンジャを吸っていないとのこと。そこで私はチロムの持ち方から、ガンジャの吸い方まで手ほどきをして、たっぷり吸わせてやった。すっかり元気づいたKは、しばらくインドの旅をつき合って欲しいと言う。ガイドのできるほどインドに詳しい訳ではないが、宿代と飯代を払ってくれるなら、しばらく一緒に旅をしようという訳で、翌日Kと共にバラナシを出て、汽車でアラハバードまで行き、そこからバスでカジュラーホに向った。2人分の切符代はKが払った。
 前回は行き損なったが、写真で見るカジュラーホのエロチックな彫刻群を、ぜひ肉眼で見ておきたかった。サトナーでバスを乗り換え、更に雄大で荒々しい丘陵地帯を走って、カジュラーホ村に着いたのは夕方だった。
 バス亭で待ち構えている客引きに案内させて、ホテルやゲストハウスを何軒か当たり、値段の交渉をして合部屋を決めた。Kには貧乏旅行のイロハを指導する必要があった。買物でも、力車でも、言い値の半分くらいから交渉するよう教えた。
 カジュラーホは約1000年前、チャンデーラ王朝のヒンズー教最盛期に建設された寺院都市の遺跡である。当時は85個あった寺院のうち、14世紀のイスラム支配によって約4分の3が破壊され、消滅し、現在は静かな田園風景の中に、22個の寺院が遺っているに過ぎない。
 かつての栄光は失われたとはいえ、青空と陽光の下に、寺院の壁面をとりまくミトゥナ(男女交合)像や、デカパイ丸尻のアプサラス(天女)像などの絢爛たる彫刻群を見て、そのエロチシズムの極致を想像することはできる。
 とはいえ、これらを偶像崇拝だとするイスラム戦士たちは、最も刺激的で、生めかしく、欲情をそそるような傑作から先に叩き壊したに違いない。従って現在遺っているものは、イスラムのマッチョ達が大破壊の饗宴で、手をつけなかった残飯なのだ。
 感覚と性欲を制御して、個人霊と宇宙霊を合一させるヨガと、感覚と性欲を解放して、永遠の快楽と生命を賛美するボガ。この両極端の道を、「ヨガ・スートラ」と「カーマ・スートラ」という理論書まで添えて、インドは飽くことなく探求してきたのだ。
 ある日の午後、寺院見物の帰路、Kとは別に1人で田舎道を歩いていたところ、草むらに2頭のロバを見かけた。メスに尻を向けられ、モジモジしていたオスは突然後脚で立ち上がって、前脚でメスの尻に乗っかかった。とたんにメスの後脚がオスの下腹を蹴り上げた。オスは後方へとび退き、むき出しの巨根はたちまち引っ込んだ。しかしこんなことで諦めるはずがない。しばらくするとオスは再びアタックし、同じように拒絶された。とはいえメスはその場から逃げる気はなく、背後で隙を伺うオスの欲情を狂わす芳香を放ちつづけた。
 大自然の中におけるケダモノたちの性愛のドラマは、いかにもカジュラーホに相応しかった。彫刻群の中には人間と獣との交尾像もあった。私が時の経つのも忘れて、ロバたちの恋のかけ引きに見とれているうちに、空は黒雲に覆われていた。雨の気配が近づいていた。そして稲妻が走った。その時、不動のメスが歩み出した。それをチャンスと見て、オスがメスの尻の上に乗っかかったところ、メスの後脚は蹴り上げることができず、小走りに逃げたのである。オスはこの時とばかりに、前脚でメスの尻をはさみつけ、後脚だけで走り、巨大なペニスを水平に突き立てて突進した。2頭はそのまま草薮の中へ姿を没してしまったので、挿入の瞬間は見逃したが、遠い雷鳴を聞きながら、私はロバたちの交尾の成功を確信した。
 そして雨は来た。乾ききった台地の上に、待ちに待った夏草の上に、大粒のスコールが襲った。一時しのぎの屋根を捜したが、近くに建物はなかった。走りながら涸れた川原に架かっている橋を見かけた。その橋の下にはすでに山羊や豚などが雨やどりをしていた。迷うことなく私も橋の下の難民の仲間入りをした。子豚を含む10数頭の豚、数頭の山羊、犬も何匹かいた。ロバの子供がいた。間もなくびしょ濡れの牛もやって来た。だが先刻のロバのカップルは来なかった。きっとどしゃ降り雨の中で、ボガの極致を貪っているのだろう。
 スコールのシャワーに閉ざされた橋の下の狭い空間の中で、動物たちは喧嘩もせず、排除もせず、譲り合いながら黙って豪雨と雷の音を聞いていた。ノアの方舟のような不思議な世界だった。それは深い平和、シャンティに満ち充ちていた。
 やがて雨足が弱まり、2〜30分でスコールは去った。動物たちは何事もなかったように三々五々に散っていった。河原のごろた石の間を濁流が浸しはじめた。

 [プラットホームの人生]
 Kとはアラハバードでお茶を飲んで別れた。1人旅の自信がついたと言って、別れ際に5000円のバクシーシーをくれた。
 アラハバードではガンガーとヤムナーの合流点サンガムへ行ってみた。12年に1回祭られる「クムバ・メラ」は、1ヶ月で2000万人が参加するという。(前回は77年)だだっ広い河原に茶屋が一軒だけあった。その夜はアラハバード駅のプラットホームに泊った。プラットホームを常宿にしている沢山の人々に混ざって、ルンギーを敷き、リックを枕に、頭からシーツを覆って寝た。さらに翌日は無賃乗車でバラナシへ行き、そこでもプラットホームに泊った。
 バラナシからカトマンズを訪れるつもりで乗った鈍行列車は、目的のパトナへは行かず、途中から別方向に向かっていることに気づいたのは、既に日没後のことだった。ビハール州の田舎を走っているはずの列車が、どこまで行くのか乗客に尋ねても、名も知らない町や村ばかりだった。運を天に任せて終点に着いたのは真夜中だった。駅のホームにも駅舎にも電灯はなく、駅周辺にはホテルも商店もないという。闇に目が馴れるに従って、プラットホームに並んで寝ている相当数の人々の姿が見えた。私は彼らの隙間にルンギーを広げて横になった。
 どのくらい眠っただろうか。周囲の騒がしさに目を覚ました私は、顔を覆っていたシーツを除けると、数人の男が覗き込んでいた。その中央にいた制服の男が「グッド モーニング!」と挨拶した。
 私はガバッとはね起き、そこが田舎駅のプラットホームであり、私以外にもう誰も寝ている者などいないことを確かめた。するとマスター(駅長)を名乗る制服の男が、駅長室まで来いと言うので、荷物をまとめて彼の後に従った。
 狭い駅長室に腰を下ろすと、駅長はインスタントコーヒーをご馳走してくれた。イギリス風ジェントルマンの年輩の駅長は、毎朝このプラットホームで生活している約30人の住民を、長年点検しているのだが、今朝は1人多いので不思議に思っていたとのこと。そこで私は、プラットホームで生まれ、育ち、乞食や雑役をして食いつなぎ、プラットホームの住民同士で夫婦になり、プラットホームで生涯を終える人生があることを知った。1つの駅のプラットホームは、1つの大家族共同体なのだ。
 プラットホーム族という不可蝕民の悲惨な現実を、まるで身内を語るように淡々と語る駅長の温厚な人柄が救いだった。それは公務員というより、乞食部落の世話人という感じだった。そういえば、私のインドの旅のイニシエーションをしてくれたのは、マドラス駅の蟹男をリーダーとするプラットホーム族だった。
 間もなく朝1番のパトナ行き列車がやって来た。私は駅長に礼を言って乗車した。乗車券は持っていなかったが、駅長は1度も検札しなかった。車窓にはプラットホームで1夜を共にした仲間たちが押しかけて、バクシーシーを乞うていた。列車はゆっくりとプラットホームを離れ、名も知らぬ田舎駅を後にした。


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