第2部 2度目の旅 1982・春〜83・春
第2章 インドブームの落し子たち  カルカッタ、ブッダガヤー

挿絵

 [カルカッタのポン引きたち] 

 空港では殺到するタクシーの客引きを断固拒否して、バスに乗った。なにしろ旅費は2万円しか無かったのだ。
 チョウロンギ通りの博物館前で下車し、先ずはビリー(安物の葉巻き)を買おうと、路上のタバコ屋の老婆に、たった今空港で両替したばかりの1ルピー札を渡したところ、バアさんはそれを天日で透かし見て、ブツブツ文句を言うのだ。まるで贋札の鑑定でもするかのように。
 失礼にも程があると腹を立てて、そのオンボロ紙幣を取り上げたところ、バアさんはギャーギャー文句を言った。そこで「ああ ここはインドなのだ!!」と実感した。
 ホテルを決める前に、ガンジャとチロムを手に入れようと、ニューマーケットに向かって安宿街サダル・ストリートを歩いていると、背後から肩を叩かれ「ホテルを探しているのですか?」と、インド人の若者から流暢な日本語で話しかけられビックリした。日本語のようなややこしい言葉を、こんなに達者に話すためにはよっぽど苦学をしたに違いないと、ポン引き青年を誉め、彼にホテルを案内させた。
 連れて行かれたのは安ホテルの割には、清潔で明るい部屋だった。腰を下ろすや早速若者はガンジャの包みを出して「一服やりませんか?」と来た。値段を聞くと1トーラ(約11g)が、当時のレートで約2000円だという。専売公社のガンジャ・ショップの10倍は吹っかけていると読んだ私は、若者を詰問したところ素直にその通りだと白状した。そして自分はカルカッタ近郊の田舎から出稼ぎに来たが、仕事がないので日本語を覚え、ホテルの客引きやガンジャの売人をしながら、病気のおふくろに送金しているのだと言う。
 だめだと言えば事はそれまでだったのだが、日本語を学んだ彼の努力を買ってやろうと思い、言い値で買ってやった。チロムがなかったので、タイから持参したパイプを使って一服してみた。ブツは悪くはなかった。そこでアクタルと名乗るポン引き青年にもパイプを回し、2人でたっぷり吸った。
 まだカルカッタに到着したばかりなのに、長らく眠っていた感性が甦るような興奮があった。そのうちアクタルが友達を紹介したいと言った。断る理由はなかった。結局、次から次へと友達がやって来て、皆それぞれに流暢な日本語で田舎の事情を語った。
 ウソかホントか分からなかったが、4人の若者に2000円づつ払って、ついでにビールで乾杯したら、アッと言う間に全財産の半分が消えてしまった。これが通過儀礼だと思えば、惜しくはなかったが、ポン引き一同にひとつだけ相談してみた。
 「旅費が無くなったら似顔絵を描くから、その時は客引きをやらないか?」と。
 連中は大喜びで協力を約束し、さっそくリベートの相談を始めた。聞くところによれば、10年来のインドブームでカルカッタを訪れる日本人旅行者をカモにして食っているポン引きは、ニューマーケット周辺だけでも200人以上はいるとのことだった。そしてインドブームの火をつけたのは、他ならぬ我々ヒッピーだった。

 [観光化されたブッダガヤーの荒廃]

 カルカッタ発の夜行列車が聖地ガヤーに到着したのは明け方だった。駅前のめし屋で軽い朝食を採り、日の出のころ出発した。
 カネの無い旅は歩くに限ると、カルカッタではリックを軽くするため荷物をかなり処分し、古靴も捨ててサンダル履きになった。
 昇る朝日を左手に浴びて、南へ16キロ、聖地ブッダガヤーに向かって歩いた。未だ醒めやらぬ市街地を通過し、早起きの農村地帯へ入ると、バス通りとはいえ、牛、豚、山羊、ニワトリ、アヒルなどが、我が物顔で路上を賑わし、けたたましい人間の声と相まって、インドの朝は活気に満ち充ちている。
 60年代のビートニック時代には、日本全国をヒッチハイクで旅したが、1日に2、30キロは歩いたものだ。野宿をした朝のすがすがしい空気の中を、未だ醒めやらぬ街や村を、リックを担いで通過するのは気分の良いものだった。その頃はまだガンジャは無かったが、今回は不自由しなかった。見晴らしの良いところでは路傍に腰を下ろして、牧歌的なビハールの農村風景を眺めながら一服した。
 かつてゴータマ・シッダルタが王妃やハレムの女たちと訣別して、一人の修行者として悟りに向かって歩いたインドの道を、いま、女なしの一人で歩いている自分の幸運を、私はしみじみと吟味するのだった。
 悟りを開いて仏陀になったゴータマは言った。「犀の角のようにただ一人歩め」と。
 ただ一人歩むことは、人生の基礎デッサンである。哲学も、宗教も、その基盤の上に構築されるのだ。
 「何ゆえに風は静止することができないのか。何ゆえに人の心は休むことがないのか。何ゆえに、また何を求めて、水は流れ出て、瞬時もその流れをとどめえないのか。されば旅人よ、進み行け、進み行け!」
                           アイタレーヤ・ブラーフマナ

 聖地巡礼ともなれば、車という文明の利器で訪れるのと、歩くという意志の積み重ねの結果たどり着くのとでは、精神的、霊的な実入りにも大差があるというものだ。目的地の大塔を見た時の感動にしても、10年前のバスの中から見た時と、歩きながら見た今回とでは、比較にならなかった。
 ところが大塔に近づいて驚いた。聖なるマハーボディテンプル(大菩提寺院)の大塔の周囲には、有刺鉄線が張りめぐらされていたのだ。これは日本の坊さんたちが大塔によじ登って、記念写真を撮るのを防ぐためではないかと勘ぐったが、ひょっとしたら寺院の修理工事中だったのかも知れない。しかし理由は何であれ、有刺鉄線はシャンティムードのぶち壊しだった。
 がっかりしている私に日本語で話しかけてきたのは、やっぱりインド人の若者だった。「一体これはどうしたのだ?」という私の質問に対して、若者は「まあ、お茶でも飲みませんか」と誘った。
 歩き疲れて一休みしたかったので、彼に従って近くの茶屋に入った。足許にリックを下ろし、椅子に腰かけて汗を拭いていると、チャイを注文した若者は早速ジョイントを出し「一服いかがですか?」と勧めた。何か企んでいるのを感じながら、ジョイントを受け、火をつけてもらった。かなり上質のガンジャだった。
 「このガンジャで良かったらありますよ」と若者は売人になった。「いや、ガンジャはカルカッタで沢山買ったよ」と断ると、売人は茶屋の片隅に置いたバッグの中から、何枚かのルンギー(布)を出した。ルンギーは必要だったが、相場を知らなかった。高いか、安いかを言い合っているうちに、いつの間にか売人仲間が数人集ってガンジャを回しはじめた。そしてルンギーの値段について日本語で口をはさみ、ついには各人が自らの商品を出して売り込みにかかったのだ。
 こんな調子で日本人旅行者たちは、どうでも良い物を高い値で買わされて来たのだと思いながらも、ガンジャの乗りもあって、ルンギーを2枚も買ってしまい、数千円をぼられた。代金を払いながらバカなことをしたと悔んだが、後の祭りだった。
 観光化されたブッダガヤーにはホテルやゲストハウスが何軒か出現していたが、ポン引きたちの勧誘など相手にせず、私は10年前と同じように、チベット寺の無料宿泊所に宿を決めた。そこにはいつもフリークな貧乏旅行者がいたが、その時も数人の日本人がいた。その彼らから聞かされたのは、日本語を話すポン引きや売人たちから受けた不愉快な話ばかりだった。なかにはカメラ2台と望遠レンズや三脚など、撮影機材一切を盗まれたというカメラマンもいた。
 インドの仏教は12世紀ころ滅亡し、ブッダガヤーにもローカルな仏教徒はいない。しかしヒンズー教徒の間でも仏陀に対する尊敬と、聖地ブッダガヤーに対する誇りは、脈々と受け継がれて来たはずである。それなのに今日のこの世俗化した荒廃はどこから来たのだろうか。
 思えば10年前に訪れた時、日本の坊さん集団が菩提樹の数珠を買い漁り、物売りたちを狂乱させていることを知ったが、そのへんに今日の退廃と堕落の原因があるのではないのか。坊さんたちはその後、各僧が檀家の信徒たちを引率して、仏跡巡りを慣例化し、聖地のポン引きや売人たちに日本語ブームと仏教ビジネスを流行させたのである。
 しかし仏教に対する軽視とその悪用は、民衆レベルだけの問題ではなかった。1974年5月 インドはカナダから輸入した原発用ウランで原爆を製造し、タール砂漠で核実験を行ったのだが、インディラ・ガンジー首相とインド首脳陣の名づけたこの作戦の暗号名は「仏陀は微笑む」というのだ。
 アヒムサ(不殺生)を唱えた仏陀に対する、これは明らさまな冒涜であり、国家権力による仏教精神の根本的な否定である。このようなヒンズー教徒による官民両面での仏教軽視の状況下で、仏教の真理を生きているのが亡命チベット人たちである。
 チベットレストランの食事は美味しく、ウソもハッタリもないチベット人たちの温和で慎ましい対応は、ブッダガヤーに幻滅し、その荒廃を嘆く旅人にとって、この上ない救いだった。彼らの存在は仏教のダルマ(真理)の不滅を確信させるのである。そこで旅人もまた、自らがダルマを生きる者であることを意欲するのだ。
 チベット寺の無料宿泊所の玄関口には、古ぼけたダンボール箱が置いてあって、それには日本語でたどたどしく書かれていた。
 「あなたの旅費の一部を、チベット難民にカンパして下さい。 旅人一同より」

 [スジャータの村] 
 観光俗化し、霊的ボルテージの低下したブッダガヤーに幻滅した私は、仏教のロマンを求めてスジャータの村を訪れた。
 苦行のため痩せ衰えたゴータマが、ネランジャー河で溺れかけ、やっと岸辺にたどり着いて菩提樹の下で倒れているのを、通りかかった村娘スジャータに発見され、乳粥の供養を受けて復活し、悟りを開いて仏陀になったという。その村娘スジャーターの村が、ネランジャー河の対岸にあるセーナー村である。
 とは言え、ゴータマが溺れるほどの洪水のネランジャー河を、スジャーターはどうやって渡り、乳粥を持って引き返して来たのだろう。村民だけが知っている浅瀬でもあったのだろうか。などと考えながら、ごろた石と白砂の乾いた川床を歩いて渡った。
 セーナー村はスジャーターの時代から2千数百年が経過しているというのに、さしたる変化は無さそうだった。明るい農村風景の中には、商店も、旅館も、茶屋もなく、近代は何も侵入していなかった。車もトラクターもなく、農民は牛や水牛や馬と共に働いていた。土造りの伝統的な民家の内には、テレビも、クーラーも、冷蔵庫もない、まだ電気がないからだ。インドブームも、観光化も、まだここまでは波及していなかった。
 晴ればれとした気分で村道を歩いていると、民家の庭先から私を呼ぶ声が聞こえた。人違いかと思ったが、木陰の床几に坐った老人が手招きしていた。
 私が近づいて「ナマステー!」と合掌すると、床几を叩いて坐れという。白いヒゲの風格たっぷりの老人だった。私が老人の脇に腰掛けると、老人は素焼きの壷から盃に白い液体を注いで、私に差し出し、畑に繁っている椰子の樹を指さして「ココナツワイン!」と言った。
 その小型の椰子の樹は葉がびろう樹の葉のように熊手型になっていて、沢山の実が鈴なりになっていた。ココナツジュースを醸造したワインは、蒸留したココナツ酒のように度は強くないが(ゴアで飲んだものは50度くらいあった)、ドブロクのようなコクがあった。「うまいッ!」と歓声を上げた私に、老人は嬉しそうに笑って、更に一献を注いでくれた。
 この人なつこい老人の内に、スジャーターの血が流れているのだと思うと、仏陀の存在が何となく身近なものに感じられた。そこで私は思わず「スジャーター……」という言葉を口に出した。特別な意味はなかった。せいぜい「スジャーターの話を知ってますよ」くらいのつもりだった。
 「スジャーター?」と老人は問い返した。
 「イエス、スジャーター!」と私は反復した。すると老人は家の奥に向かって大声で、「スジャーター スジャーター!!」と叫んだ。
 その声を聞いて裸足の少女が、勢いよく玄関から跳び出して来た。6歳の私の娘と同じ年格好のワンピースの少女は、客人の存在に気づくと驚いて突っ立っていた。
 「ハハハ……スジャータ!」と、老人は少女を指さして、楽しそうに笑っていた。まさか、スジャーターが現存しているとは想定外だった私は、あわてて立ち上がると、少女に向かって合掌し、挨拶した。
 「ナマステー スジャーター!」
 少女は恥ずかしそうに合掌して「ナマステー!」と小声で言うと、脱兎のように家の奥へ姿を消してしまった。その弾むような愛くるしい姿に、眩惑された私を見て、老人は高らかに笑った。
 「ハハハ……スジャータ スジャータ ハハハハハ……!」
 その笑いに対して「これは本当なのか、それともジョークなのか?」などと問うことは、野暮というものだろう。
 なぜなら、ここに、いま、「仏陀は微笑む」のだから。


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