【第1章 最初の旅 1971・秋〜72・春】
[帰り道のリハビリテーション プーナ、コナラク、カルカッタ]

 エデンの園を追放されたアダムとイヴのように、コルヴァ・ビーチを脱出した私たちは、名も知らぬ田舎町でたっぷり睡眠をとった後、寝呆け眼でプーナまで汽車に乗った。
 マーラター王国の首都であったプーナは、ムガル帝国を衰亡に追いやり、イギリスの侵略にも最後まで抵抗したヒンズー・ナショナリズムの本拠地である。近代に至ってはボンベイが近いことから、文化的、経済的にも栄えた文教都市だ。 
 この保守本陣のような都市に、バグワン・ラジニーシがタントラのアシュラマを開設し、欧米の若い男女を集めて一大スキャンダルを巻き起こしてゆくのは、これから2、3年後のことである。
 私たちが訪れたのは、ちょうど春一番のホーリー祭の最中だった。人々が街頭で色粉や色のついた水を相手かまわずかけ合って楽しむ熱狂的な祭りである。旅人に対する遠慮もあってか、私たちは頭から色水をかけられることはなかったが、腰布やTシャツは多少染められた。
 狂気の破局寸前で引き返してきたAに対して、私はまるで腫物に触るように接し、彼女の望みに従い、彼女のペースに合わせた。ホーリー祭に戯れる群衆の中で、彼女の繊細な神経は2人きりの緊張からほぐされ、微笑も戻ってきたのだった。
 プーナの後、どんなコースをたどったかは忘れたが、デリーに立寄ったことは憶えている。きっと日本大使館で帰りのチケットを受取ったのだろう。ついでに近代美術館でタゴールの水彩画展を観た。タゴールの名が出たので、この旅で出会ったタゴールの最も美しい詩を紹介しよう。
 この詩は「部族」の機関誌『オーム』に掲載されたもので、編集者で訳者のナーガ(長沢哲夫)から、私たちがゴアに滞在中に、コルヴァ郵便局留めで送られてきたもの。タゴールの「ギータンジャリ」からナーガの名訳である。

  もし あなたを見ることなく 主よ
  生きながらえているならば
  あなたを手に入れていないことが 心に残れ
  忘れることなく 悲しみを持て
  眠っても 夢みていても

  この世の市場に 多くの日々をすごし
  多くの富が手に積まれても
  何も手に入っていないことが 心に残れ
  忘れることなく 悲しみをもて
  眠っても 夢みていても

  もし歩き疲れ 道の上に坐りこみ
  ほこりの内に骨折って床をひろげるなら
  全ての道のりが残っていることが 心に残れ
  忘れることなく 悲しみをもて
  眠っても 夢みていても
  
  多くの笑いが起り 家に多くの笛が鳴りひびき
  おお どんなにか家を装いととのえても
  あなたを家に連れてきていないことが 心に残れ
  忘れることなく 悲しみを持て
  眠っても 夢みていても

 私が「あなたを見ることなく 主よ!」と呼びかけるときの「あなた」とは、シヴァでなく、シャクティである。では私の旅の伴侶Aとは、警戒すべきマーヤー(幻影)なのか、それとも召使えるべきシャクティ(女神)なのか?

 帰路もう一度バラナシにも立寄った。さすがに最初の時の高揚感は無かったが、朝の礼拝時のガートの霊的バイブレーションはやっぱり凄い。ゴアでサスケから聞いた話を確かめたかったので、メインガート周辺の大きな日竿の下で、人生相談をやっているバラモン達に注目した。この伝統的カウンセラー達は、傍にバラモン教典などを積んで、インド香のむせかえるようなムードの中で、次々とやって来る俗人たちの世俗の悩みを聞き、人の道を説いて励ますのだ。
 サスケの話では、サスケのグルは巡礼地に到着すると、その村で一番見晴らしの良い場所に坐って待つことしばし、やがて悩み事の相談に来た村人には、ガンジャとチロムを買って来させ、一服交しながら、事業が破産したとか、女房に逃げられたとか、子供が死んだとか、体調が悪いなどの世俗の悩みを聞き、話が終ってガンジャが効いてきた頃、突然チロムを地面に叩きつけて「パチン!」と砕き、「アッ!」と驚く村人の虚をついて「ワッハッハ……」と破顔一笑。「それはみんなラーマがやっておられるのじゃ」と、静かに言うと村人も「そうです、その通りです」と神妙にうなずき、2人でラーマのマントラを唱えて手を拍ち、ついに村人は泣き、笑いながら バクシーシーを捧げて帰って行くという。
 案の定、バラナシのガートでも、バラモン達によって素焼きのチロムが、世俗の悩みと共に叩き割られ、傷ついた俗人の心を、ラーマやシヴァのマントラが癒しているのだった。これが使い捨てチロムによるガンジャ療法である。ところでその時、私はどこで吸ったかというとホテルの便所だ。病人に対する気配りとはいえ、天下のバラナシで便所の中とは!?
 バラナシの後、帰国までにまだ間があったので、オリッサ州の2つの聖地を訪れた。プリーはジャガンナート寺院の門前町として栄えた聖地である。しかし寺院は異教徒入場禁止であり、日本人は仏教徒だからダメだと言われた。ベンガル湾を臨む浜辺は、ゴアの帰りではやっぱり見劣りがした。
 プリーからバスで約1時間、コナラクはのんびりした田舎町で集落も海岸も美しかった。13世紀に建立された太陽神スーリヤを祀る寺院は、かなり破損はしているものの巨大な車輪や馬のレリーフ、エロチックなミトゥナ像(抱擁する男女神)は圧倒的だ。熱帯の太陽が照りつける白日の下で、悦楽の歓声が聞こえるようなミトゥナ像の数々は、性と愛を賛美した『カーマ・スートラ』の世界だ。
 太陽崇拝は古代エジプトやインカをはじめ日本でも天照大御神など、世界中どこにでもあるが、それらは太陽を生命創造の全能の神として、その前に拝跪する卑小なる自我という相対二元論によるものだが、インドの『ウパニシャッド』は太陽にこう呼びかける。
 「ああ 光輝燦然たる太陽よ、われは汝を今ある如くする本体と同一である」
 この自信。この確信的な自己肯定。インド思想には、ヨーロッパ・キリスト教的な「原罪意識」や「自己否定、自己嫌悪」といった暗いペシミズムは一切存在しない。
 インド哲学は自問する。「汝の思想が正しいかどうかは、(1)その思想が汝を幸福にするか、(2)その思想が汝を力強くするか、にある」と。かくて、生きる喜びと力に満ちた思想は、絵画、彫刻、音楽、文学などの芸術的表現ともなり、時代を超えて傷ついた心を癒すのだ。文明社会のストレスが嵩じて精神の異常を感じた人間が、インドを旅して正常なバランスを回復するのは、インドが発散する根源的な人生肯定の思想なのだろう。
 だが場合によっては、その思想の強烈さ故に、私とAを狂気に追いつめたような逆作用もありうるだろう。カルカッタで再会した「部族」の仲間カドは、その典型だった。安宿街サダル・ストリートはニューマーケットに近いことから、ポン引きやプッシャーがうろつくヒッピーのたまり場であるが、その街頭でバッタリ出会ったカドは、LSDでも採っていたのか異常にテンションが上がり、玩具のピストルを振り回して、日本人の若者やインド人のポン引きを相手に騒ぎまくっていた。
 東京でサラリーマンをしていた彼は、同じ国分寺に住む山尾三省に共感し、ドロップアウトして「部族」の創設に参加、貯金は全てカンパしてロック喫茶「ほら貝」の建設資金などにして、バーテンまで勤めたが、サラリーマン時代の抑圧と屈折は、容易に彼の心を解放しなかった。この時もフリークアウトしている半面、若者たちを取りしきるような先輩づらをして分裂状態だった。
 インドで何があったのかは聞かなかったが、インドに圧倒され、打ちのめされたのだろう。早く日本に帰るよう勧めたが、帰ったのは私たちより後だった。帰国後、自分の髪を切って三省に渡して姿を消し、そのまま消息不明になってしまった。

 破壊と死の女神カーリーは、カルカッタ市の守護神である。市内の南方のカーリー・ガートのカーリー寺院は、縁日のような賑わいだった。私たちは入口で履物を脱がされ、参拝者の流れに従って、生贄の仔山羊の首がはねられ、血が吹き出るのを見たりしながら、カーリー女神の顔が描かれた黒い岩の前に立たされ、祭司から結婚式を執行された。そして傍の受付けでは式典料5ルピーを払わされ、怪し気なマントラを授かった。この一方的な神前結婚をどこまで本気にすべきか、私たちは一度も討論しなかったが、どこかで気にかかっていた。
 カーリー寺院はもうひとつあった。カルカッタから北へ10キロ足らず、シュリ・ラーマクリシュナが生涯をすごしたダクシネシュワル(現地読みは、ドッキネッショル)のカーリー寺院である。
 日本ヴェーダーンタ協会の月刊小冊子『不滅の言葉』を、「部族」の各コミューンは定期購読していたので、「ラーマクリシュナの福音」を読んでいた私たちには、カーリー寺院のイメージは出来上がっていた。私たちはイメージを検証しながら、中庭の中央にあるカーリー聖堂に参拝した。
 ラーマクリシュナが見神したというカーリー像は、両眼をカッと見開き、真白な歯の奥から真赤な舌を出し、首飾りは人間の首玉、2本の右手のうち1本は勝利を、もう1本は慈悲を表わし、2本の左手のうち1本は剣を、もう1本は血のしたたる男の生首を持つ。黒い女神のあまりの凄さに呆れる夫シヴァの胸を蹴って、カーリーは破壊と死の踊りをおどっている。
 3月末、暑さは毎日うなぎ昇りだ。私たちは中庭の音楽堂でしばらく涼をとった。西側には12個のシヴァ聖堂が並び、その背後はフーグリ河で沐浴場があった。寺院の周辺はどこでもまだ聖者の霊的波動が感じられた。
 近代インド最大の聖者と仰がれ、「第二の仏陀」とも言われるシュリ・ラーマクリシュナは、1836年、西ベンガル地方の小村に生まれ、17歳のときにダクシネシュワルのカーリー寺院の神職についた。文盲の彼は直接神に会いたいと願い、苦悩し、ついにある日、聖堂でカーリーを礼拝するうちに、じかに見ることのできない苦しみのため、カーリーの剣で自らの生命を絶とうとした瞬間、母なる神のヴィジョンを見たのである。それは「四方から深いとどろきとともに光の波が、私に向かって押し寄せ、私をまきこんで溺れさせ、私は完全に外界の意識を失った」
 見神体験後、ラーマクリシュナは彼のもとを訪れたタントラのグルとヨガのグルから、伝統的な行法を学んだ。またヒンズー教の各派やイスラム教、キリスト教などの修行を実践して、それらが道こそちがえ同一のゴールをめざしていることを悟った。妻のサラダ・デーヴィは彼女自身の希望通り生涯ブラフマチャリアを通し、最初の弟子となり、やがて「ホーリー・マザー」と尊称された。高弟ヴィヴェーカーナンダ(1863〜1902)をはじめ多くの弟子を育て、1986年、喉頭ガンにより50歳にて逝去。
 ラーマクリシュナとヴィヴェーカーナンダの生涯は、あたかもヒンズーイズム復興の気運と時を同じくしていた。インドの復興は常に精神生活、ことに宗教活動の復活から来る。イギリス植民地として、他民族に支配、統治されてきたインドは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、宗教、哲学、文学、美術、科学等、文化のあらゆる部門にわたってヒンズーの自覚が回復され、目覚ましい展開が演ぜられ、同時にそれが民族運動に直接結びつき、ついに独立運動にまで導く重要な推進力になったのである。
 この運動の中心がカルカッタとベンガル地方であったことから「ベンガル・ルネッサンス」とも呼ばれた。ラーマクリシュナはルネッサンス(文芸復興)運動の核心中の核心ともいえるだろう。
 ではラーマクリシュナの言葉から、思いつくままに数語を拾ってみよう。

 「人は霊の修行をすることによって必ず神を見ることができる。神を見ること、これが人の一生の唯一の目的だ」

 「人間はつまらないものだろうか。神を思うことができる。無限を思うことができる。他の生き物にはできないことだ」

 「神の御名をとなえることだけが、たった一つの必要なことだ。それ以外の一切は架空のことだ。愛と帰依だけが本物であって、その他はみなつまらないものだ」

 「人は始終神の御名をとなえていなければいけない。このカリ・ユガ(末法時代)には称名は大そう効果がある。この時代には人の生命が食物に依存しているから、ヨガの実践は不可能である。神の御名をとなえながら手を拍ちなさい。罪の鳥は逃げて行っていまうだろう」

 「シッディ、シッディととなえても、シッディ(神通力)は得られない。シッディ(大麻)を吸わなければだめだ」
 
 「サマディ(三昧)に入ると、私はまるで大麻に酔ったかのような、酔っぱらった感じになるのだ」

 ラーマクリシュナは一日に何回もサマディに没入したが、絶対の次元から相対の次元へ下降する際、まるで手がかりを求めるかのように「ガンジャ、ガンジャ!」とか「一服吸わせてくれ!」などと言い、弟子たちが大急ぎでガンジャの用意をするうちに、「もう いらない」と言って、着地しているのだった。

 さて、最終目的地だったダクシネシュワルのカーリー寺院を訪れ、ラーマクリシュナに挨拶をしたことで、どうやらインドの旅が終ったと実感した。
 インドを去る前日だったか、私たちが宿泊したサダル・ストリートのサルベーション・アミーでは、オーナーが中庭にハルモニア(手風琴)を持ち出して、賛美歌を演奏していた。ハルモニアはアコーデオンと同じ原理で、左手で風を送り、右手で鍵盤を押す楽器だが、机の上に置いて椅子に坐って演奏していた。
 長身で彫の深い中年の紳士であるオーナーを囲んで、男女の若い従業員数名が合唱していた。私たちが近寄って聴いていると、オーナーは演奏を止めて微笑し、「タゴールの詩を歌ってみましょうか」と言って、何曲か歌ってくれた。意味不明のベンガル語だったが、歌い手の音感が良いので惚れぼれと聴いた。クセのない英語を話す知的なジェントルマンであるオーナーと、Aはさかんに音楽の話をしていたが、そのうちオーナーに勧められてAがハルモニアの前に坐った。
 彼女はしばらくハルモニアの音を確かめていた。ピアノでは天才少女と言われた彼女にとって、久しぶりの鍵盤楽器に胸が躍ったのだろうか。ややあって、彼女は「ハリークリシュナ ハリーラーマ」のマントラを弾きはじめた。ヒッピームーヴメントに乗って、世界中を風靡したマントラである。忘れかけていた鍵盤楽器の感触が、彼女を夢中にさせたのか、小鳥のような歌声を久しぶりに聴いた。それをインド人たちが黙って聴いているはずがなかった。手を拍つ者、歌う者、踊る者。
 「ハリークリシュナ ハリーラーマ」の歌声に、2階3階の窓から従業員や客人が顔をのぞかせ、中庭に集まって歌声に加わった。門の外では通行人たちが群がり、何があったのかと中庭をのぞいていた。
 高揚したAは美しく、気高かった。それはまるで詩と音楽の女神サラスヴァティ(弁財天)のようだった。
 では、前述の小冊子『オーム』から、もう一篇の詩を紹介して、「第1部 最初の旅」の話を終わりにしよう。

    サラスヴァティ讃歌
             ゲーリー・スナイダー 収録
             長沢哲夫 サンスクリット訳

  栄えあれ 栄えあれ 女神よ さらさらと絶え間なく流れ
  胸には天国的な真珠の首飾り
  ヴィーナを奏でるを喜び 本を手にした女神
  言葉と知恵の母 女神に礼する

  ジャヤ ジャヤ デーヴィ チャリチャロ サーリー
  クチャジュガ ソーヴィタ ムクターハーリー
  ヴィーナン ナンデタ プスタカ ハスティ
  バガヴァティ バーラティ デーヴィ ナマステー

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