【第1章 最初の旅 1971・秋〜72・春】
[男と女の天国と地獄  ゴア]

 椰子の林が延々と連なる遠浅の浜辺というのは、日本にはない風景だ。アラビア海を望む椰子林の中には漁民の集落があって、十字架の立つ墓を見かける。450年もポルトガルの植民地だったゴアには、キリスト教の伝統が根づき、墓のないヒンズー教世界との文化風土の相違を際立たせている。
 インド独立後もポルトガルはゴアの引き渡しを頑強に拒んだが、1959年ネルー首相は軍隊を派遣し、ポルトガル守護隊を敗退させ、ゴアはグジャラート州のディーウとダマンと共にインド連邦に統合されたが、この2地域は他の州とは別の扱いを受けている。
 60年代後半、ヒッピーブームはゴアに押し寄せたが、椰子林の中にはホテルもゲストハウスもレストランも無く、やむなくフリークスは漁民の民家の主家を借りてシーズンをすごした。そのため漁民一家は約半年間を納屋で生活することになった。
 ゴアには沢山のビーチがあり、フリークスが最も集まったのは、カラングート・ビーチやアンジェナ・ビーチなどだが、私たちはなるべく閑静なビーチとして、最南端のコルヴァ・ビーチを選んだ。しかしそこもフリークスの数が少ないとはいえ、昼間はスッポンポンのヌーディスト・クラブ、夜は何処かでLSDパーティが開かれるという点では、他のビーチと変わらず、白人たちは我が物顔だった。
 私たちも長期療養に備えて漁民の主家を借り、自炊生活を始めた。飲み水は共同井戸から壷で運んだが、問題は共同便所だった。それは広場の片隅に設けられた高さ2メートルくらいの櫓の上にあった。使用者が便所に近づくと、どこからともなく豚たちが現れ「ブヒブヒ……」と鳴きながらついて来る。櫓の梯子を登って小屋に入り、床の穴から下を覗くと、豚たちが口を開けて待ち構えている。その上へボットンするのである。これは馴れるまで大変である。この豚便所は昔は日本にもあったらしく、奄美、沖縄の民家では、豚小屋の2階が便所だったとか。
 コルヴァ・ビーチに借家して2、3日目に、噂のサワ(澤村浩行)が現れた。私たちの噂を聞いて早速訪ねて来てくれたサワは、65年に日本を出て、アフリカ、ヨーロッパ、中東、インド亜大陸を巡り、68年にいったん帰国し、『アサヒグラフ』に初めて写真と文章で、ユーラシアのヒッピームーブメントを紹介した。その時サワは信州富士見高原にあった「部族」のコミューンを訪れているのだが、私は諏訪之瀬島のコミューンにいたので会い損なったのだ。
 初対面のサワは評判通り、精悍でしぶとい面構えの旅人だった。Aが体調不良を訴えると、「肝炎じゃないのか?」と言って、彼女の目をのぞき込み「なんと、黄疸症状まで出てるじゃないか!」と言い、「こんなに悪化するまで気がつかないなんて駄目じゃないか!」と、私を窘(たしな)めた。その時たまたま家主が顔をのぞかせたので、サワは何かを話していた。英語の通用しない地方なので、ポルトガル語か現地語だろう。
 2人で近くの茶屋へ行ってコーヒーを飲んだ。茶屋といっても椰子の葉の掘立小屋だ。
「よく女連れでインドの旅をする気になったもんだ」と、サワから同情とも冷笑ともつかぬ言葉をもらった。そのうちサワも同じ目に逢うだろうと思った。
 借家住まいは数日続いた。夕方になると私は玄関のポーチに坐ってチャラスを吸い、マントラを唱えた。するといつの間にかフリークスが集まり、ポーチの前の砂浜に坐って、聞き耳を立てていた。まるで私が説法するのを待つかのように。私は何も語らなかったが、ジョイントが回ってくれば受けた。Aは時々ポーチに姿を見せたが、彼女はこの借家暮らしに疑問を抱いていた。家賃のためとはいえ、この家の主である漁民一家を狭い納屋に住まわせ、私たちが主家を独占することに彼女は罪悪感をもっていた。
 そこでコルヴァ・ビーチから南へ向かって家探しの散歩に出た。右手にはさざ波の洗う真白な砂浜、左手には椰子の木の暗い森が延々と連なる無人のビーチを1時間ほど歩くと、椰子の木の脇に漁網を干す木の柵を見つけた。当時はまだナイロン網でなく、木綿と麻の漁網を使っていた。近くにはふんどし一丁の漁師が数人で作業をしていた。
 その柵に椰子の葉で屋根と壁をつければ、6畳一間くらいの小屋ができることを思いついた私は、漁師たちに相談してみたが、全く言葉も意志も通じなかった。すると1人の漁師が部落から都会風の若者をつれてきた。Tシャツにズボン姿の英語の分かる男の通訳で、私のアイデアを理解した漁師たちは、椰子の木に登って葉っぱを落とし、それを編んでまたたく間に椰子の葉小屋を作ってくれた。Aの笑顔を見たのは久しぶりだった。
 そこで礼金を払う相談をしたのだが、通訳した若者が「ノープロブレム」と言って取ろうとしないので、その時はそのままになった。しかし翌日一人でやってきて、漁師たちが金を欲しがっているというので、心づくしの礼金を払った。(彼がその金を独占してトンズラしたのを知ったのは、それから1ヶ月も後のことだった。勿論、漁師たちには改めて礼金を払った)
 私たちは何も知らなかったが、印パ戦争は18日間でパキスタンがギヴ・アップし、東パキスタンはインドの支援のもとに、「バングラデシュ」として分離独立して、71年は暮れた。なお、元ビートルズのジョージ・ハリスンが、シタールの名手ラビ・シャンカールと組んで、ニューヨークで「バングラデシュ救援コンサート」を開いたことを知ったのも、帰国後のことだった。
 椰子の葉小屋は最高だったがひとつだけ問題があった。夕方になると少年に率いられた20頭くらいの水牛が通りかかって、御馳走とばかりに屋根や壁の椰子の葉を引き抜いて
行くことだった。そこで私は棒切れを持って水牛を追い払わねばならなかった。しかし間もなく、少年がコースを変更したので助かった。
 小屋の外に簡単なかまどを作り、椰子の落ち葉で煮炊きをした。飲み水は椰子林の中の共同井戸から壷に汲んで運んだ。食料はバスで10分、徒歩1時間くらいのバザールへ時々仕入れに行った。便所は豚便所ではなく犬便所。この辺の犬は食物が豊かなので根性が良く、数匹の野良犬が交替で人糞処理をやってくれた。
 乾期の海は毎日がべた凪ぎで平穏そのもの。夕方の満潮時には各部落の浜辺に揚げられた木造の漁船を海まで運び、乾かした網を積んで、10人くらいの漁師が乗り込み、沖合いまで漕ぎ出し、網を打って帰ってきた。
 朝方はまだ暗いうちから地曳網を曳くかけ声が聞こえ、明け方の浜辺では陸揚げされたアジを主とする豊富な獲物を、女たちが平等に配分する賑わいが見られた。私たちは毎朝、貰い物の魚を欠かすことはなかった。また椰子林の倉庫にはアジの干物があって、これも欲しい時にはただで貰った。
 椰子の実は最も親しくしていた漁師が、時々木に登って採ってくれた。彼は実の割り方を教え、いつでもココナツ・ジュースが飲めるようにと手斧まで貸してくれた。
 美味といえばハマグリのスープは特級品だった。夕方の浜辺でハマグリたちは、アラビア海に沈む太陽に向かって横一列に並び、数個から時には10個以上もの全員が、パックリと口を開いているのだ。まるで瞑想でもしているかのように。「ハマグリを食べるのはもうやめよう」と言い出したのは、やっぱり彼女のほうだった。
 この辺まではフリークもめったに足を延ばさず、漁師も昼間はほとんど姿を見せないので、まるで無人島に2人きりでいるみたいだった。一般にインドの浜辺は便所なので海水浴の風習はないが、この浜辺は地曳網の漁場なので清潔そのもの。そこは祝福の天国、エデンの園だったから、私たちは一糸まとわぬ裸で水辺に戯れたが、抱き合うことも、手を握ることもなかった。お互いに無邪気になれないこだわりがあったのだ。
 Aはもう沈黙はしなかった。過去のことは十分に語り合い、お互いに水に流したはずなのに、どこかに素直になれないものがあった。そのため性的には相変らず閉ざされたままだった。肩に触っただけで、彼女は激しい拒否反応を示した。きっと病気のせいだろうと思って、根気に待つしかなかった。
 ちょうど1年前、私の反対を無視して、Aは諏訪之瀬島から一人で旅に出たことがあった。女一人のヒッチハイクの無銭旅行は、アバンチュールからレイプまがいまで、何人かの男とセックス体験をもったにせよ、初めて親や男に依存しないで「自立」して生きる自信をつけ、3ヶ月ぶりに諏訪之瀬島へ帰って来たのだった。その時、彼女の報告はセックスの件には触れなかったが、それとなく暗示はしていた。だから私に疑惑はあったのだが、不問に付したのだ。
 「フリーセックス」という観念が、ヒッピーイズムの重要なテーマとして提唱されていた。それは「マイホーム・マイセックス」という、プチブル・モラルの欺瞞性や偽善性に対するアンチ・テーゼであり、セックスとは本来自由なものであり、他者に「所有」されるべきものではないという理念に基づいていた。しかしこの理念は、男と女の愛にはつきものの嫉妬や独占欲を軽視し、封じ込め、超越し、結果的には愛そのものを歪めてしまう例が多かった。
 私とAの場合も、セックスの問題をあいまいにしたまま、次のステップを踏み出してしまったのだ。というのもAの不在中、私は彼女が帰ろうが帰るまいが、インドの旅の決意を固めていた。だからAが帰るやいなや、彼女の旅の報告もほどほどに、インドの旅を誘い、半ば強引に同意させてしまったのだ。
 春から夏にかけて、私たちは旅費作りのため全国一円を巡って稼いだ。即ち、昼間は都会から都会をヒッチハイクで移動し、夜は12時頃まで、私は盛り場のバーやスナックで似顔絵を描いて稼ぎ、Aは喫茶店で荷物の番をして、12時すぎに2人で公園や寺の境内などで野宿した。高度経済成長期だったから、3ヶ月足らずで2人分の旅費が作れた。しかし「自立」を求めていたAは、またしてもポンのペースに引きずり回されたのだ。そしてインドの旅は、ポンが乗れば乗るほど、Aはダウンし、ついに肉体まで病んでしまったのである。
 椰子の葉小屋の中で、小さな焚火を焚いて向かい合い、私たちは毎晩のように話し合ったが、お互いの主張は全く噛み合わなかった。私の主張は、我々が男と女としての愛情を復活させるためには、性的な交わりを回復させて、自然態に還るべきだというのだが、Aの主張は我々が決裂したのはセックスが原因であり、セックスを超えない限り真の愛情はありえない。だからブラフマチャリア(純潔)を誓い合い、プラトニック・ラヴを探求しようというのだ。
 タントラの極致のようなブラフマチャリアを実践するためには、お互いが愛情と信頼で強く結ばれていなければ不可能である。しかし我々は疑惑と不信の真只中にあり、禁欲には情況が厳しすぎた。昼間は一糸まとわぬ彼女のヌードを見せられながら、夜は枕を並べて禁欲では刑罰に等しかった。性欲を抑圧すればするほど、思考は悪意に彩られてゆく。話し合いは相互不信と不和をますます助長するのだった。そんなある晩、彼女は言った。
 「同じことを言っているはずなのに、ポンとわたしの考えていることは全然ちがうわ」と。私も同感だった。すると彼女は言った。
 「ポンは狂っている」と。
 実は、私もAが狂っているのではないかと思っていたのだ。どちらかが狂っているとしても、ここには第三者というものがいなかった。これは恐ろしい体験だった。「気狂いは自分が狂っているとは決して思わない」と言うではないか。
 Aは決して私に大麻を止めろとは言わなかったが、私の「狂気」が大麻にあることを暗示していた。彼女が嫌がるから私は小屋の外で吸ったが、大麻が意識を狂わす麻薬だとは思っていなかったから、止める気など毛頭なかった。私は自分の「正気」を信じていたし、彼女の「狂気」に同調する気にはなれなかった。否、彼女の「狂気」に狂わされないためにも、大麻を吸い続けねばならなかった。
 そんなある日、一人の風来坊が訪れた。日本人のカップルがいるという噂を聞いてやって来たという20代半ばの日本人である。サスケと称するその男は髪もヒゲも伸び放題で、ドーティ(腰巻)は大きく裂け、薄汚れた小さなリックがひとつ、いかにも長い放浪途上という感じだった。
 挨拶もそこそこに「一服やりましょう!」と言って、小屋の前に坐った。久々にチロムで吸うとあって胸が躍った。一時サドゥの弟子になって南インドを巡礼したというサスケからは、ガンジャとサドゥについての興味津々たる話を聞いた。少し離れて聞いていたAは、お湯を沸かし、チャイとクッキーを出してくれたり、サスケとも会話を交すなど異常な様子は全くなかった。私にはそれが彼女の必死の演技に思えた。
 例え楽園であれ天国であれ、ひとたび疑惑と不信にとらわれた男女が、2人きりで2ヶ月以上も一緒にいたら、そこは地獄の様相を呈してくるだろう。私たちの関係は今やエゴとエゴのぶつかり合いであり、裏返された愛情は憎悪を孕んでいた。小屋の片隅にはココナツを割る手斧があった。そんなある夜、横になってからAが言った。
 「セックスをしたがらないのは、わたしのエゴなのかも知れない………でもわたしには性欲がないから、ポンが欲しかったら好きにして……」と。
 そう言われても「では、いただきます」という気にはならなかった。求めているのは肉体ではなく、心なのだから。とはいえ現状打破は言葉では不可能であり、行動以外になかった。イチかバチか、まるで屍姦のような味気ないセックスをした。その結果、彼女の症状は更に悪化した。
 もはや会話する気力さえ失ったAは、それ以来一睡もしなくなった。私には彼女の寝息で、眠ったかどうかを判断できた。彼女の神経は研ぎ澄まされ、刻々と狂気が深まってゆくのを感じた。夜中、彼女が小用に立った時など、月光きらめくアラビア海へそのまま没してしまうような脅迫観念にとらわれて、そっと尾行するような眠れない夜が一週間ほど続いた。そしてある朝、
 「ポンは嗅覚まで狂ってる。この死臭が匂わないの? この小屋の砂の中に死体が埋められているはずよ」と、彼女が言い出した時には、もはやこれまでと思った。
 「逃げよう! この場所は呪われている」
 そう言って、追われるようにしてコルヴァ・ビーチの楽園を後にして、汽車に乗った。
 それから延々7時間、虎のいるジャングルを、ひどい旧式の汽車に揺られて、終点の田舎町に到着した。その間、汽笛が「ピーポー」やるたびに、彼女の神経がプッツンして、「行ってしまう」のではないかという恐怖に怯え、「ほら、滝が見えるよ!」とか「腹はへらないか?」などと話しかけるのだった。それに対して一度だけAは答えた。
 「ポン 心配しないで、わたし狂わないから!」
 駅前にホテルを決め、リックを置くと、彼女を残して、私はすぐ街へ出て薬局を探した。数軒の店に当たってみたが、睡眠薬などあろうはずもなかった。
 がっかりしてホテルへ帰ったところ、Aはこんこんと眠っていた。それを見て私は日本へ帰る決心をし、友人に手紙を書いて帰りのチケット2枚を送ってくれるよう頼んだ。それから横になって2日間ほど眠った。

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