【第1章 最初の旅 1971・秋〜72・春】
[巨大遺跡と実存の闇  アジャンタ、ボンベイ]

 インドの夜は暗い。太陽が沈むと田舎も都会も原初の闇に閉ざされてしまう。するとガリガリに痩せて、昼間は屍同然の野良犬どもが、ランランと目を光らせて群盗と化すのだ。だから旅人にとって夜は出歩く時ではない。
 それなのに例によって定刻を何時間も遅れた鈍行列車が、真夜中に目的地に到着したのである。宿泊施設のある駅もあるのだが、そこジャルガオン駅にはそれがないため、見知らぬ街を歩いてホテルを探すしかなかった。何とかなるだろうと闇の中に踏み込んだものの街灯なるものは一切無く、建物の黒いシルエットを頼りに闇の中を歩き、路地裏にホテルの看板を発見するまでにかなり歩いた。
 ホテルのドアを叩くと、寝呆け眼の番頭が出てきて、ドミトリーしかないと言う。やれやれ助かったと案内された合部屋には、薄明かりの下に10人くらいの客が雑魚寝していた。物音に気づいて何人かの男が起き上がって私たちを見ていたが、人相の悪い連中ばかり。商人宿というより山賊の寝ぐらという感じだった。
 旅費は私のリックの中の財布と胴巻きの中にあった。連れのAは金を持つのを嫌がったので、会計は一切私が担当していた。それにしても女連れで来る場所ではなかったと悔んでみたが、行き当たりばったりの「ランダム・ジャーニー」であってみれば、どんな場面に出食わすかは予測困難なのだ。彼女も度胸を決めていたので、緊張感はあったがリックを枕に何とか眠った。
 デリーからアーグラーを経て南下、マハーラシュートラ州の小都市ジャルガオンは、デカン高原の西北端である。ここからバスで灌木と褐色の大地の彼方に地平線を見ながらアジャンタ遺跡へ。
 当時、遺跡の入口にはホテルが一軒だけ。他にはレストランも土産物店もまだ無かった。ホテルに荷物を預け、入場料を払い、観光客が歓声を上げている渓谷の入口に立つと、内側にカーブした断崖絶壁に石窟群が見え、谷底には水のない河原があって、緑の樹木が繁っていた。
 かつてはこの樹木が繁茂して石窟群を覆い隠していたため、インド人は1000年以上もの長きにわたって、この巨大な仏教遺跡の存在を知らなかったというから驚きだ。19世紀のはじめ、イギリス人のハンターが虎を追って渓谷に踏みこみ、石窟群を発見したという。たった百数十年前は、虎がいるほどこの辺はジャングルだったのだ。
 断崖の通路を歩いて訪れた第1窟は、宮殿のような豪華な石窟だった。壁画の菩薩像は保存も良く、圧倒的に美しい。法隆寺金堂の菩薩像のオリジンと言われるほど有名な傑作だ。
 石窟群は全部で30窟あって、そのうち5窟が紀元前1世紀の上座部仏教期のものなので、まだ仏像はなく、ストゥーパ(塔)が祀られている。他は大乗仏教全盛期の5世紀、ヴァーカータカ帝国の家臣たちがスポンサーになって、仏像も壁画も当時最高の芸術表現がなされた。
 これらの石窟には修行僧や職人たちが住みつき、礼拝供養の巡礼者も訪れたというが、帝国の崩壊とともに僧侶も職人も去り、仏教は滅亡し、石窟群はジャングルに呑み込まれ、歴史の闇に没してしまったのである。
 仏像を祀った石窟の中でも、私は特に気に入った石窟でしばらく仏像と対面してみた。その石窟は天井が高く、簡素な空間の中に、巨大な仏像が一個だけ祀られている。坐った仏像の膝は人間の頭の高さくらい。その両膝だけが異様に黒光かりしているのは、礼拝者たちが右手でそこを撫で回したからだろう。
 インドでは聖者や賢者の前に拝跪して、その足に触った右手で自分の額にも触るという礼拝方法がある。聖なる御足を頭上に頂くというわけだ。それにしても粗々しい岩肌が、黒光かりするまで撫で回すのに、何万人もの礼拝者と、何百年もの歳月を要したことだろう。まさに祈りの念力がそこに結集しているのである。
 私は観光客の来ないのを確かめ、巨大な仏像の前に坐って深々と一服決めてから、その顔を見上げた。それは黒いグロテスクな顔だった。仏像の鼻は崩れ、胸の前でムードラ(印)を結んだ指も何本かは破損していた。そして両目には涙が光っているではないか。鼻も指も崩れた癩者にも似たホトケは、涙ながらに祈っていた。
 「生きとし生けるものを哀れみ給え!」と。
 これはとんでもない転倒だ。祈るのは私の方であって、ホトケは祈られる側だ。などと考えていると、涙で光っていたホトケの目の目玉が見えた。何と、その目玉の奥は虚無の暗黒、魂が吸い込まれるブラックホールではないのか。「ホトケと目を合わすな!」という声が聞こえた。そして私はひらめいた。「そうだ、ホトケの頭上を歩いてみよう」と。
 Aは谷底の木陰のベンチで休んでいた。彼女を誘ってみたが乗らないので、私は一人で渓谷を登り、谷間の上の台地を半周して石窟の上あたりに立った。ホトケは私の足の下だ。そこからの眺望は四方八方が荒涼たる高原風景。丘陵の麓に集落らしきものがあった。
 その時、荒野の彼方から砂ぼこりが上がって、一台の馬車が駆けて来るのが見えた。そこに道があるらしく、2輪馬車は疾走し、馭者台では半裸の少年が鞭を振り、声高に叫びながら私の傍を横切って、砂塵を残して去って行った。
 一瞬私はタイムスリップのような眩惑を感じた。あれは幻想だったのか、それとも現実だったのか、それを証明しようにも相棒がいなかった。
 その夜、私たちはアジャンタでたった一軒しかないホテルに泊った。他に逗留客がいなかったので、夕食時の食堂には私たちのテーブルに、ホテルのオーナーや給仕たち数名全員が集った。皆20代の若者だった。片言の英語で話ははずみ、私は興に乗ったのでジョイントに巻いてガンジャを回した。彼らは大喜びだった。
 私はその日の神秘体験もあって、夜の世界を散歩したくなった。私の誘いにオーナーをはじめ若者たちは賛同し、Aも渋々従った。アジャンタの夜は満天の星空だった。若者たちはガンジャが効いて上機嫌だった。周囲には人家はなく、大声で騒いでも文句を言う人はいなかった。
 突然、私の内に不安がよぎった。もしこの若者たちがその気になれば、私を組み伏せ、Aをレイプすることなど簡単なことだと。彼女は危機感を感じていないようだったが、私は自ら危機を招いた鈍さ、警戒心の欠如を後悔した。そこで適当な理由をつけて、ホテルへ引き返したが、結局何事も起こらなかった。それは単なる私の「臆病風」だったようだ。
 
 アジャンタでの神秘体験の翌日、観光バスでエローラ遺跡を訪れた。台地の岩山を切り開いた石窟は、仏教やジャイナ教のものを含めて34窟あるが、第16窟のカイラーサナータ寺院が圧倒的だ。観光バスの停留所もその前にあり、入場料もここだけが必要。
 仏教が衰退し、アジャンタの石窟が幕を閉ざす8世紀中葉から約100年かけて、高さ30数メートルの岩山を上から切り開き、楼門と寺院を出現させ、寺院の外側の象の群像や、内側の神像などを彫り残し、シヴァの玉座であるヒマラヤの聖地カイラーサ山を、灼熱のデカン高原に顕現せしめたのである。
 イスラム教の言う偶像崇拝のヒンズー教が形ある神の集大成ともいうべきカイラーサナータ寺院は、怒れるシヴァ、踊るシヴァ、和合するシヴァ、瞑想するシヴァのダイナミックな石像に彩られた本殿の奥の院、その暗がりの中央に黒いシヴァ・リンガがひとつ、不二にして一元のブラフマンを象徴する。
 私がリンガと対座していた時、「ポン、バスが出るわよ!」とAが知らせに来た。観光バスで来たことを悔いたが、私一人だけ残るわけにはいかなかった。この次は泊りがけで来ようと思いながら、その場を去った。
 観光バスは2、3の名所旧跡に立寄ってアウランガバードに到着、そこで一泊して翌日汽車でボンベイ(ムンバイ)へ。アジャンタ、エローラという遺跡に触発された私の古代ロマンは、ボンベイの現実を前に吹っ飛んだ。
 私たちは知らなかったが、12月に入るやインドは電撃的に東パキスタン領内に軍事介入したのだ。西パキスタンとはまだ戦火を交えていなかったが、ボンベイは既に何回か空襲を受けたとか、夜間の灯火管制は厳重だった。そのため夕食は暗闇の中を、ビルの壁を手探りしながらレストランに通った。レストランではローソクの灯を囲んで、客人たちが戦況を語り合っていた。
 ボンベイはチャーチ・ゲート駅から「インド門」あたりのフォート地区が、ヒッピーのたまり場だったが、カルカッタやデリーのような安宿街がなく、大衆料金のサルベーション・アミーは満員とあって、ホテル探しに苦労していたところ、バッタリ日本人ヒッピーMに再会した。かつて諏訪之瀬島のコミューンで大麻を交した仲間である。彼の泊っている安ホテルに宿を決め、久しぶりにチャラスを交して、聞いた話は惨めなものだった。
 Mはヒッピーになる前はエリート商社マンだったが、大麻を吸ってドロップアウトし、ヒッピー修行のためインドへ来てみたところ、ビジネスマンの欲が出て、貿易の仕事に手を出したのだが、インド人は時間にルーズで、約束を守らず、ずる賢くて、不誠実で、さんざん翻弄されたので、「チャラスを吸っていては足許を見られる」と思い、大金をはたいて買った1キロものチャラスを海に捨て、再起を決意し、日本から借金までしたが、結局資金を使い果たし、明日は日本へ帰る決心をしたというのだ。
 「ヒッピーとビジネスマンを両立させようと思ったのだが、両方とも挫折してしまった」と、Mは反省することしきり。しかしガンジャを吸ってビジネスができないはずがないと私は言った。まだ「ヤッピー」という言葉も人種も出現していなかったが、自己をコントロールすること、演ずることは、ガンジャを吸ってもできることだ。要は訓練次第、Mには「まだ吸い足りないんだよ」と言ってやった。
 翌日、Mの再起を祈って見送った後、私たちは「インド門」から船で約1時間、ボンベイ湾の沖合いに浮かぶ無人島を訪れた。
 16世紀にポルトガル人が巨大な象の彫刻を発見したことから「エレファンタ島」と命名された小島には、山頂の岩山を切り開いたシヴァ寺院がある。エローラのカイラーサナータ寺院より少し早い6〜8世紀の創作らしいが、カイラーサナータに匹敵するスケールである。特に本殿正面にデーンと構えたシヴァの三面胸像は迫力満点のボン・シャンカールである。
 それにしても、なぜこんな不便な離島に、これほど壮大なシヴァ寺院を創造したのだろう。ボンベイという都市は300年ほど前までは、7つの小島のある湿地帯で、漁民の寒村があっただけとか。では一体、この巨大遺跡を創造した人々は、どこを拠点に無人島へ通ったのだろう。「なぜ?」「いかにして?」……インドという国の謎と神秘が、否応なく募るばかりである。
 
 念願のエレファンタ島を見た以上、長居は無用のボンベイからゴアへ行くため、朝方ホテルを出て駅へ向かう途中、冷えきっていたAとの関係が、ついに破綻してしまった。沈黙は彼女の武器であり、私はさんざん手を焼いたものだが、以前は3、4日で機嫌が直って、キュートな女に還るのだった。ところが今回は不機嫌が慢性化し、会話は失われ、不信と不満は募るばかり、この朝も一緒に歩いていたのに、突然競歩のようなスピードで歩き出したのだ。驚いた私は小走りに追いつき、彼女の前に立ちはだかって「いったい何の真似なのだ!?」と詰(なじ)った。肩で息をしながら彼女は憮然として脇を向いた。
 感情的になった私はついに「もう別々に旅をしよう!」と言ってしまった。「これ以上一緒にいても傷つけ合うだけだ」とも。私は財布と胴巻きの中の全財産を彼女に押しつけ、「日本へ帰った方が良いと思うよ」と言って彼女に背を向け、バイバイと手を振った。
 さてそこで、とりあえず「インド門」へ行った。イギリス植民地主義のシンボルである巨大な石造りの門には、ボンベイ湾を望む広大なホールがあった。私はホールの片隅に坐って、チャラスを吸いまくった。観光客や物売りがうろついていたが気にもとめなかった。「ついに女というマーヤーから自由になった」と思った。「すべてを放棄して、サドゥになったのだ」と。
 しかし何処へ行くあても、何をする気もなかった。今からは私とは何かを瞑想するだけだと思いながら、いつの間にか想いは、路上に放ったらかしてきたAが、食事を採っただろうかとか、金を盗まれたのではないかとか、体調がだいぶ悪いのではないかとか、ホテルを見つけただろうかとか、要するにAのことばかりに赴(おもむ)いた。結局、インド門での半日間、チャラスを吸いまくって女のことばかり想っていた自分に気づいた私は、サドゥになるのはまだ早過ぎると悟ったのだった。
 「想いの趣くところへ、カルマ(業)と共に赴く」と『ヨガ・スートラ』は言う。カルマに従って夕方、私はボンベイの雑踏の中を、Aを探して彷徨った。幸い彼女をホテルに案内したという顔見知りのポン引きが、半日ぶりに私たちを再会させてくれた。
 「やっぱり一緒に旅をしよう!」という私の挨拶に、Aはベッドに横たわりながら、弱々しく微笑したが、その顔は痛々しいほど憔悴しきっていた。
 「わたし死ぬ夢を見たわ……そして死ぬ前に、母とポンにだけは本当のこと言っておきたいと思ったの……」
 久しぶりに聞くAの言葉だった。死の夢が彼女の堅く閉ざされた口を破り、心の封印を切ったのだ。彼女の告白とは、ポン以外の複数の男と「寝た」ということだった。はっきり言われてみればショックだったが、私にも疑惑はあったのだ。だが私はあえて彼女を信じていた。というより不問に付してきたのだ。そのことが彼女に告白の機会を与えず、彼女を苦しめ、追いつめる結果になったようだ。
 告白はショックだったが、一点突破の開放感でもあった。そこで今朝方、なぜあんな歩き方をしたのかを尋ねた。それに対して「体がだるくて歩くのも大儀なのに、ポンはリクシャにも乗せてくれないんだから……」というのがAの恨み節だった。要するに私は終始自分のペースで旅をしていて、病んで体力の衰えている相棒に対する気配りが欠けているというのだ。私にすれば「体調不良なら、なぜひとこと言ってくれないのだ」と言いたいところだが、彼女にすれば素直になれない意地があったのだろう。
 とにかく今は静かな環境でリラックスし、食餌療法で体調を整え、体力を回復することだった。
 「さあ、ゴアへ行って、美味しい魚を食べようぜ!」


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