ハウリング・サワ・ガシイの壁新聞 No.3
by 澤村浩行

 静岡市では2ヶ月ごとにBe Good Cafe が催される。通常は路上にカフェのテーブルが置かれ、小さな舞台では5分間づつのオープンマイク、そして音楽演奏の後にメインスピーカーの講演がある。6月は「もし地球が100人の村だったら」の訳者とパレスチナ難民キャンプに入り込み、イスラエル軍攻撃の盾となった日本人女性の話だった。一般市民も通りがかりに参加できるハイセンスな設定だ。僕も「サーフィン in 浜岡」の詩を朗読した。音響担当は旧知のテトラだった。彼は静岡出身で、まだ実家は浜岡に近い相良にある。
 「マーケティングの仕事をしていたんだけど、静岡というのは全国一の中間地帯なんだ。ここで流行する商品は全国で売れる。タバコの新銘柄も静岡から売り出されるようにね。だからここで原発廃止が決まったら、全国もその方向に向かうと思うんだ」
 「浜岡1号2号炉を廃炉に」「稼働中の3号4号炉を必ず来る東海大地震が起こるまで停止すること」このささやかで当然な要求を掲げて、静岡県の若者達が今夏8月1日から7日まで、浜岡原発より20kmの小笠山にあるデンマーク牧場で「東海大地震の前に浜岡原発を止めよう平和の集い」を開催する。
 「親も金貰ってる。近所の人もみんな貰っている。だから何も言えない。白血病の人や甲状腺障害のある人はやけに多い。でも大事故が起こったら、本州全体がまったく汚染するんだろ。だからみんな死んじまえばいいって思ってたんだ」と、原発近くに住む若者。
 「僕達は君たちを応援しに来たんだよ」
 ロック歌手の山口富士夫が行った。「平和の集いキャンペーン・静岡ライブツアー」は既に7月2日沼津市と3日富士市のライブハウスで催され、これより静岡市、浜松市、島田市、京都市へと向かう。初日50名ほどだったが、2日目には150人以上の熱気あふれる若者達が押し寄せた。浜岡原発と東海地震の問題に悩む若者達を応援する山口富士夫ツアーは始まったぞー。僕も詩の朗読で参加。南アルプスの反対側、浜岡原発より直線距離90kmにある大鹿村より来た歌手の内田ボブ、画家の中村ジャンも舞台に立つ。静岡のアフリカンパーカッションバンドのトキワとの鍼灸盛大のセッションも。アートの現場から最初のふれあいが始まった。
 原発事故から逃げ切れない。近くに居ようと300km離れていようと、生命の根っこを
断ち切られる。その事実を86年4月26日にチェルノブイリから2000km離れた南イタリアで体験した。僕の知っていた妊婦の多くが、産みたいと思っていたのに流産してしまった。離れていようと、どっちみち原発事故の被害からは逃れられないのだ。それなら見て見ぬ振りをしないで、原因までたどり着き、猛毒性文明の根っこを絶つしかない。それが自然文明の根っこを、命を、心を守る唯一の道なのだ。
 まだ巨大事故は起こっていない。
 東海大地震も起こっていない。
 地元では浜岡周辺の町も、焼津市、静岡市、掛川市も、「浜岡原発1号2号を廃炉にする」よう意見書を政府に提出した。
 プラス「東海大地震が起こるまで3号4号を止めておく」が「平和の集い」で表現させられるだろう。
 焼津市議会で片野市議が同様の発言をするのを傍聴した。地元で長年原発問題に取り組んできた壮年老年の誠実なしたたかさ、決してあきらめない自分の人生と次の世代の人生を賭けた思想を受け継ぎたいと思った。
 「執念を持って浜岡を止めます」と彼らは言っている。そのように行動している。
 「平和の集い」のシンポジウムは土地の年輩の運動関係者と、必ず来る東海大地震を前にして「こりゃ大変だ」と運動に入った若者達との交流が主となるだろう。スタッフの静岡の若者達は、このような集いも運動も初めてだ。そこで今までの流れから、ピースウォーク浜岡事務所が、これまで実行委員を務めてきた。しかしこの平和の集いは毎年開くこともできる。反核派であり自然環境保護派であり、しかも不登校児を引き受けて、動物と共存する体験を通じて教育している人間派でもあるデンマーク牧場側は、夏場は生徒が規制している期間の有効利用と、彼らの牧場の100%放牧の牛(100%自家製の飼料で育つ)がもたらす極上の乳製品の販路拡大を兼ねて、「平和の集い」を来年も受け入れる用意もある。
 やはり実行委員会は静岡の地元にあるべきだという意見は、当初よりあった。また「平和の集い」は、「ピースウォーク浜岡」と性格を異としている。後者が禁欲的修行者たちの全戸連盟ならば、「平和の集い」は、より生活に密着した静岡おっとりニコニコ地方の住民を中心としたものだ。
 7月6日の午後に浜松の正光寺で最終決定するだろうが、そこの和尚が「この寺を使やあいい」と言ってくれた。浜岡原発裁判の席でも、有事法案反対の若者のデモでも顔なじみの40代前半の僧だ。そしてその浜松市北側小笠街道沿いにある臨済宗「正光寺」は、静かで自然な環境にありながら、浜松駅より20系統のバスが夜の10時近くまでひんぱんにある便利な場所だ。(笠井上町バス停下車昭和シェル先右折歩3分)
 これまでも毎週末に「平和の集い」浜松ミーティングが泊まり込みで開かれてきた。
 今、「平和の集い」実行委員会を静岡に移そうという動きが積極的になってきている。それに「ピースウォーク浜岡」の事務局は、平塚市の飯野さんがひとりで支えてきた。これまでのように、年数回のウォークだけで手一杯で、「平和の集い」のように、もしかしたら1000人が来るかもしれない運動は、地元で日常的につきあいをしているコミュニティー単位でなければ無理だ、ということも解ってきた。
 以上、目下誤解を招いている実行委員会の場所替えについて、私、澤村浩行が山口富士夫ツアーに静岡で合流してから見聞きし考察した結果の報告。
 ではとりあえずは「山口富士夫ツアー」で会いましょう。それから「正光寺」で!
 
 (正光寺の和尚の分を以下紹介する)


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  物持たぬ たもとは軽し 夕涼み
 
 先日東京まで出かける用事があり、そのついでに「昭和の食の移り変わり展」というイベントをのぞいてきた。この催しを知ったのは、ある慰霊祭の会場に貼ってあった一枚のポスターがきっかけだったのだが、そのポスターには、昭和28年ごろの東北地方の夕食風景で、セピア色に染まった写真が使われていた。十数人の二家族くらいが裸電球のもと、車座になって箱膳を前にしての団欒をうかがわせるものだった。一昔前であったら、見向きもしなかったかもしれない。この時代だからこそ目にもふれまた主催者をその気にもさせたのだろう。表の良寛さんの稿で合理第一を唱えるつもりはないと書いたが、実際には良寛さんの時代、いやずーっと下って昭和30年ごろまでは文字通り理にかなった生活がどこでも営まれてきたのだと思う。当たり前に、ごく自然に。ところが現代は合理を目ざしてきたつもりが、合利になってしまった。合理ならば本来破壊や争いを生むことはないが、合利となると悲劇しか訪れない。
 種田山頭火の人柄が偲ばれる話がある。諸国を一人行脚しながら巡る吟遊詩人の彼は、常に身軽だ。棲み家定めぬ暮らしに、その日もおんぼろ庵に身を休めていた。するとどこでどう消息を知ったのか旧知の朋友が訪ねてきた。自然も好きならば人も大好きな山頭火は大喜び。早速あり合わせの雑穀をお粥に仕上げ、僅かな酒と共に彼に振る舞った。友人は酒好きの山頭火を気遣って「君は呑まないのかね、食べないのかね」と聞くと、山頭火はうれしそうに生唾を飲み込むように「いいから呑みたまえ、食べたまえ。ワシは君の後でその椀で呑むから‥‥。」友人は山頭火のその貧しさと、彼の温かさに酒が喉を通らなかったという。私の好きな話の一つである。
 人は身に付けているものを脱ぎ捨てるとその人そのものが見えてくる。家であったり、車であったり、服やバッグであったり‥‥肩書きであったり。持ち物が少なくなればなるほどその人そのものが見えてくる。禅は単を示すと書くが、物理的にも心理的にもシンプルを目ざしていく。そうすふと見かけに惑わされない本物の自己が露出してくる。足し算の進歩が招いた擬態はもう必要はない。これからは引き算をしつつ判り易い丸裸になっていくべきだと思う。しかもその本物こそが実はいとおしいものなのである。他人であっても自身であっても。

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*その後、正光寺を平和の集いの事務局で使うという話は変更となり、22日の現地入りまでは清水に事務局を開くことになりました。連絡先はトップページを見てください。



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